ちゃんと、ノックだ……!


小さな感動を覚えた前で、「おー!」と大きな声で返事をした寮長さんに肩はやはり反応した。


「牧先生が呼んでますよ。開けても大丈夫ですか?」


「あれ? 明日っつー話じゃなかった?

まーいーわ、今行く」


寮長さんは立ち上がり、「丁度タイムリミットだな。じゃ、また」と囁いて玄関を出た。


それを言葉なく追いかけたボクは、開いて閉まるそのドアの隙間に、「あっ」と思わず声が溢れる対象を見た——


けど。目が合ったその人は、口元に小さな笑みを湛えて会釈を残し、寮長さんと去って行ってしまった。



「……っ」


胸元で握り締める拳。


数秒そのままで、それからそっと僅かに上がっていた肩を下ろし、浅い呼吸を繰り返した。同時に頭の中では今日寮に立ち入ってから起きた身の回りのことが、走馬灯ってこんな感じなのだろうと思う形で再生された。


最後は、寮長さんの肩越しに目が合った人で止まっている。


一度瞼を閉じ、今度は意識して深呼吸。数回繰り返したらやっと落ち着いてきた気になって、ふわふわとした足取りで制服を手に取り、クローゼットの中に仕舞い、ローベッドの端っこに腰掛けた。





・ ・ ・





「純」



「ゎ、」


誰かに耳馴染みのない音で呼ばれた気がした、と思ったら、頬に冷たい何かが落ちて口端から声が漏れる。

眩しい何かに促されるようにゆっくりと、瞼を押し上げた。



「——おはよ。飯食った?」



「え、……あっ?」


ボクを覗き込む誰か。顔の右には大きな手が着かれていてヒュッと喉が閉まり、防衛本能が働いて即座に身体を起こすのと一緒にその誰かは距離を取り、ベッドから降りて床にしゃがんだ。

全体が明らかになる。


そういえば寮に来たこと。

いつの間にか新しいベッドに寝落ちてしまっていたこと。

今頬に落ちて冷たいと思ったのは、この、目の前のお風呂上がりの匂いのする人物の濡れたままの髪から落ちた水滴だということ。


以上三点、ともう一つ。



「っゥワーーーー!! 純! 初めまして!」



「えっ……え、おとっ、男の……子?」



此処が男子生徒しか居ない男子寮で、ボクはそこに、女であることをバレないようにしながら暮らす、ということを、頭では理解したつもりでいて真には理解できていなかったのかもしれない。

だって。

一息吸って、途轍もなく嬉そ〜〜に改まった挨拶をしてくれた完全に勝手に想像上では気の良い女の子とばかり思っていた明らかな男の子に対して、ボクは今、この子が自分のベッドに平気で乗り上げていたという状況に引いてしまっている。

身震いするほどの温度差を感じている。


「はぁ? おまえだってそうじゃん」


「あ、の……もしかして」


「? あ、 戸堂 紅騎コウキ! 宜しく、純」





『 ボク、女なんだ 』



早速、最初のカミングアウトチャンスを逃してしまったような気がする。


性別の垣根を越えていれば有難い、絵に描いたような大歓迎を表してくれているコウキサンは今にも踊り出しそうな勢いで「あ〜〜やっぱ我慢できなかったわ。叫んじゃった」と何だか照れていた。


「コウキ、くん」


否、まだ逃したチャンスも手繰り寄せられると信じて喉を鳴らす。本当にこの人が相部屋なら、少なくとも一年、多くて二年は毎日顔を合わせる仲になるたった一人の人になるなら。

できることなら嘘は、吐きたくない。


「いや紅騎で良いって」


何故かむっとした表情で、呼び名を訂正している。ボクはそれどころじゃない。


「ボク、女なんだ」


「……。またまたー。それって初対面ギャグ? そんなんしなくても掴みOKだから大丈夫だって」


ツカミオッケー?


焦って、脈絡なく云ってしまった。何を言い出すのかと馬鹿にされる可能性も視野に入れたけど、綺麗な瞳が一瞬の沈黙を後に人懐こそうにこちらを捉えて見上げていて、見つめ合った。


噂のコウキさ——いやコウキく——いや、紅騎、は。伝わらない、どうしよう、どうしたら信じてくれる? それともこのまま紅騎には伝えない選択肢を取るのか? と混乱状態に陥るボクの次の言葉を待っていてくれた。


「ほ、ほんとうに」


女だと、細々零した言葉。不思議そうな表情の紅騎はそれをどう受け取ったのか爽やかにこう言った。


「じゃーその服、脱いで証明して」



はい?


一旦思考は宇宙に飛び、戻ってきた。ここまでの第一印象として人の良さが窺えた彼のこの悪戯な表情を見て、理解。

紅騎は心の底からボクが女である可能性を一ミリたりとも信じていないのだ。だからこんなことが言える。もし本当に女だったら(女なのだが)大事件だ。彼はこのやり取りを今言っていた通り、ギャグだと思っている。そうしてノって(?)くれているつもりなのかも。


「ぬ、がないヨっ」


声が裏返った。


紅騎はハハ、と表情を和らげて、「ほらな」と笑った。


くっ……。



「……髪、どうして濡れたままなの」


今チャンスは残念だけど見送ることにして、気を取り直してその次に気になっていた事を訊く。

紅騎は肩にタオルを掛けてはいるけどその割にちゃんと拭けていない。今この瞬間も次の雫が滴り落ちようとしている。


「あ? あー」


肩のふわふわを掬って、思い出したようにわしゃわしゃ拭き出した。部屋の照明に照らされた紅騎の髪は赤みがかって見える。


「だって部活終わって着替えてたら湊の奴が純を見た〜純に会った〜純と話した〜案内してやった〜もう湊って呼ばれてる〜ダチ〜俺が第一寮生〜〜ってめっっっちゃ自慢してきてさ? いやぜってぇ今日の練習試合で負けた腹いせ入ってんだけど。それで」


それで?



「言っておくけど俺の方が楽しみにしてたから! ……くそ、俺も忘れ物すればよかった」



もしかして。これが今『コウキくん』と呼んだらむっとしていた理由なのだろうか?

それがわかったとしてもこれが理由で髪が濡れっぱなしなのはよく解らない、と顔を背けた紅騎の紅い耳を眺めながら思った。



「紅騎」


「ん?」


初めてちゃんと口にした名前。それを、聞き逃すまいと嬉しそうに振り返った彼は、思っていた女の子よりずっと男の子らしい外見、それ以上にきっと無意識に造ってしまっている壁を平然と乗り越えて手を差し出すような、そんな、既視感に近い安心感があった。

この感覚、どこかで。


「理由は何であれ、他人のベッドに勝手に入るのは良くない」


今はしゃがんでいるから威圧感は軽減されているけどそれでもお風呂上がりで暑いのか、捲り上げられた白いTシャツの袖から覗く腕ががっしりしていて、ちょっとだけ怖さを後ろに隠して言った。

誰かと相部屋経験がないボクはその薄い“相部屋”というカテゴリーを拡大して、“同居”とか“同棲”関連の情報をかき集めた。勿論中には全く無関係な情報もあったけど、一貫して大事なのは、

溜めない、ことらしい。


正直に云う。でもそれに加えてもっと大事なことがある。思い遣りだ。


だから今の言い方だと完全に配慮に欠けていると思い、きょとんとする紅騎に向かって急ぎ言葉を紡いだ。


「他人のベッドに入るのは止めてほしい、けど、でもあの、湊から紅騎が相部屋をすごく楽しみにしていてくれたって聞いて、嬉しかっ…た。ありがとう」


ぺこ、と、これでは正直を包む思い遣りというより飴と鞭みたくなってしまった、と早速反省開始する頭を折り畳むようにして下げた。



「……」



「…?」


紅騎からの返事がなくて不安になり、まさか次の瞬間拳が飛んでくるのかと恐る恐る恐るくらいの恐れでゆーっくり顔を上げた。



「……うん」


紅騎はさっき耳だけだったあかを頬にも拡げて、顔の前に手を組んでいた。



「正直すごく楽しみだった、今日」

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