鬼が生まれた日

 明治も幕開けから三十八年の歴史を刻み、西暦にすれば千九百の大台に乗って五年。十年ほど前には戦勝の報に熱狂したこの村も、今となっては飢饉に襲われ冷たい死の空気に覆われている。岩手の中西部に位置するこの村は、岩手でも一番の豪雪地帯だ。その年の冷害は、天明・天保以来の大飢饉をもたらした。

 冷害は作物に十分な成長を許さず、農民の生活に必要最低限な分量さえ収穫ができなかった。誰もが飢え苦しみ、浮いた肋骨を撫で、極寒と空腹に耐えるため体を丸めて眠っていた。

 多くの者が飢饉のために命を奪われる。食糧を求めて彷徨っていた乞食が行き倒れになる。無縁仏として葬られた墓標がそこかしこに立つ。その大飢饉による被害は甚大であった。

 その極限の環境の中で、鬼に身を落とす者が生まれたことは必然であった。


「わしゃあ、生きるためにお前を喰う。子孫代々まで呪ってええ。それでも、わしはただ、死にとうないんじゃ」


 森の中、男は殺した人間の遺体に向かい、ぽつりと告げた。男とて、元は犬や猫を食らうことで飢えを凌いでいた。しかし動物は警戒心の強い生き物である。同族を殺す者がいると悟ると生息域を移動し、男の村の周囲にはめっきりと現れなくなった。

 丸二日、男は空腹に耐えていた。男は木の実を探そうと森を彷徨っていたが、厳寒の冬に木の実を実らせる木はついぞ見つけることはできなかった。


 男の腹が何十度目かの音を鳴らし、空腹がついに刺すような痛みへと転じた頃。男は森の小道を歩く人間の姿を見た。見知らぬ女だ。どこからか流れてきた乞食なのだろう。


 男は、気づいた時には女の首を絞めていた。理性は働かなかった。それは餓死を避けるための、いわば生物的本能による行動であった。


 男は血の滴るままの女の太腿に齧り付くと、ろくに咀嚼もせぬまま飲み込んでいった。鉄を凝縮したような苦みと、悪臭を放つ皮膚の臭み。栄養状態が悪く不衛生な肉は、到底美味とは言えぬ味であっただろう。しかし極限の飢餓にあった男にとっては、この上無い美食にさえ感じられた。


 その日から、男は鬼になった。

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