第36話

「私の記憶じゃ、ない」







ぽつり、と。


涙の代わりに、涙のような言葉を零す。




空っぽだった脳内に運ばれてきた記憶は、既に選ばれている記憶だった。

だから、本物ではなくて。


私のものではないんだ。





彼は、瞼を閉じたまま首を振る。





それに私はいやだと、彼が触れてくれている頬までの腕を、手首を握り返して唇を噛み締めて。力は抜けていく。





「………たからもの、だったの…」





「梨句、」





彼が呼ぶ私の名は、酷くあたたかった。ずっと、そうであったかのように。





「貴方が呼んでくれる、私のなまえ」




涙の代わりに、笑みをこぼす。





私、涙が冷たいものなのか温かいものなのかさえもう憶えていないけれど。それだけはわかるよ。







「ありがとう」





ふと胸の張り裂けるような笑顔が降ってきて、息が詰まった。

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