第6話 怪しい薬

 宗教団体と、反政府組織とのつながりは、警察でも、内偵を進めていた。しかし、実際に相手が、

「尻尾を出す」

 ということはない。

 そんなに簡単に尻尾を出すような団体であれば、

「とっくの昔に、警察が検挙している」

 と言ってもいいだろう。

 ただ、警察だからと言っても、なんでもできるというわけではない。

 捜査にも、できることとできないことがあり、昔であれば、まるで、法の抜け道を探っているかのように、

「別件逮捕」

 などで逮捕して、

「取り調べで、自白に追い込む」

 などということが、当たり前のように行われていた。

 しかし、今の時代は、

「コンプライアンス」

 というものが厳しかったりして、

「自白の強要」

 というのは、無理だったりする。

 もっとも、自白を引き出さえたとしても、実際に裁判になってから、

「あの時の自白は、警察に強要された」

 と言って訴えれば、自白が証拠として一番強いものだったのだとすれば、その信憑性が地に落ちてしまい、

「そもそもの裁判にならないかも知れない」

 ということになりかねない。

 そんなことは、今では当たり前のようになってきたが、以前は、なかなか分かっていない人も多かっただろう。

 実際に、

「自白というものは、十分な証拠能力というものに値する」

 と言われていたのだ。

 それを、

「警察の強要」

 ということにしたのは、

「弁護士の入れ知恵だ」

 と言ってもいいだろう。

 元々、弁護士というのは、

「正義のために仕事をしている」

 というわけではない。

 もちろん、正義が基本ということであるのだろうが、優先順位はそうではないのだ。

 弁護士が優先する最大のものは、

「依頼人の利益を守る」

 ということであり、そのためには、守秘義務などいろいろ厳しいところもあったりする。

 だから、

「依頼人が犯人だ」

 ということを分かっていても、

「何とか無罪にもっていこう」

 というところは当たり前であり。それがかなわなければ、情状酌量に訴えて、

「執行猶予を得る」

 という方法であったりするために、友人であったり、同僚などからの、情状を求める証言を引き出すなどという方法がとられたりするのだ。

 だから、

「裁判というのは、弁護士が優秀かどうかで、被告の運命は決まる」

 と言ってもいい。

 そういう意味で、

「国選弁護人」

 となると、なかなかうまくもいかない。

「結局裁判も、金の力が強いのかも知れない」

 と言えるであろう。

 警察の捜査には限界があるが、中には、秘密結社的な警察組織もあるようで、

「裏の警察」

 といってもいいような組織が実際はあるようだ。

 確かに、警察というと、

「法の下で、しっかりとした組織的な捜査が行われ、コツコツと積み重ねてきた証拠を元に裁判に持ち込む」

 という風にしないと、弁護士からひっくり返されてしまうと、元も子もないといわれるのも当たり前というものだった。

 だから、今の時代に、、おとり捜査や、個人情報に触れるようなことは、なかなか捜査しにくいこともあるだろう。

 それでも、

「彼らには許される」

 というような団体があるのだというのだ。

 どこまでが本当なのか分からなかったが、もちろん、それは、ドラマでしかありえないということだと思っていた。

 特殊捜査課であったり、諜報活動による捜査など、相手に対してというだけでなく、捜査する自分たちの身も危険に晒されるのだ。

 それが許されるということは、それだけ、凶悪な犯罪が、地下に潜っている形で行われていることが多いということであろう。

 そういう意味では、

「犯罪発生数」

 というのは減っているのかも知れないが。それはあくまでも、表に出ていないというだけで、

「人知れずに、殺されていた」

 などということも多く、その証拠として、

「殺人事件は減っているが、行方不明者であったり、変死者が増えている」

 ということであれば、それは、

「変死に見せかけた殺人」

 ということになるのかも知れない。

 変死であれば、司法解剖を行って、怪しいところがなければ、事件にはならないだろう。

「人を殺しておいて、殺人の証拠を残さない」

 ということになれば、それは、

「完全犯罪だ」

 といえるのではないだろうか?

「毒殺しておいて、実際に、それが殺人だとはバレないということってあるのだろうか?」

 ということも言われたりもする。

「そんなことは可能なのか?」

 と知り合いと話したことがあったが、彼がいうには、

「元々体内にあるものであれば、摂取しても分からない」

 というのであった。

 彼はミステリーファンで、そういう薬物関係のことも、大学時代の専攻が、薬学だったこともあり、よく知っていた。

 今では、普通に薬局の店員だが、その彼の言っていることはよくわかった気がしたのであった。

「そうなんだよね。木を隠すなら森の中という言葉があったり、動物の中には、自分の身を守るために、保護色というものを使ったりする。つまりは、紛れ込ませてしまうと、人の目なんか、簡単にごまかすことができるのさ」

 ということであった。

「なるほど、灯台下暗しということかな?」

 と聞くと、

「それもそうなんだけど、まるで、石ころのような存在だといえるのではないかな?」

 と言い出した。

「石ころとはどういうことですか?」

 と聞くと、彼は、少し誇らしげに、もったいぶった形で、ゆっくりと話をするのであった。

「石ころって、たとえば、河原にいくつもいろいろな形の石が落ちているでしょう? もし、自分が、人間に見つかりたくないという一心で石ころに化けたとして、人間が、石ころをじっと見つめていて、その中から自分を探しているように感じると、びくびくしてきますよね?」

 という。

 それを聞いて、こちらも、最初は、

「この人は何を言っているのだろう?」

 と話の内容がよく分かっていないかのように考えていたが、

「確かにびくびくするわな。なるべく目を合わさないようにしゆと、顔を背けようという気持ちになる」

 というと、

「うん、だけど、目を背けるとかそんな必要ってないんですよ。相手が見ているのは、あくまでも石であり、その石も、まさかその中に人間がいるなんて思いもせずにただ見つめているだけなんですよ。だから、余計な意識を持ってしまって、びくびくすると、今度は、せっかく石に化けたのに、元の人間の姿に戻ってしまったら、どうしようという気持ちになったとしたら、それはそれで、本末転倒だというものですよね」

 という。

「なるほど、だから、自分は石ころになっているのは、人間には、絶対に見破れないという気持ちがあるからで、自信をもつべきものなのに、いざとなると、おじけづいてしまうということになりかねないということでしょうね」

 というのであった。

「そうなんですよね。一番安全だという気持ちがある反面。もし、これでも見つかってしまったら、どこに逃げてもだめだ」

 という最後の手段を突破された気になって。

「絶望でしかなくなってしまう」

 ということになるであろう。

 それを思うと、

「好きなものから先に食べるか、それとも最後まで残しておくか?」

 という発想になってしまう。

 確かに、最初に、一番の奥の手を使って、

「早く、安心を掴みたい」

 という気持ちも分からなくもない。

 しかし、最初に奥の手を使ってしまい、それで、もしうまくいかなければ、、

「もうどうしようもない」

 ということが、早々と決定してしまう。

 ただ、結局は、うまくいかないということになるのであれば、遅かれ早かれ、分かることである。

「少しでも、延命させたい」

 という気持ちなのか、それとも、

「ダメならダメで、早く分かってしまえば、そこから先の手を考えることもできる」

 と考えるかの違いだといってもいいだろう。

 これは、頭の考え方が、

「加算法なのか?」

 それとも、

「減算法なのか?」

 ということの違いなのではないだろうか?

 この考え方は、

「攻勢に出るのがいいのか?」

 それとも、

「守勢なのか?」

 ということの違いに似ているが、それは、あくまでも、

「攻撃的であっても、守備は怠らない」

 ということであり、逆に、

「守勢であっても、攻撃だってする」

 ということで、それこそ、

「工芸は最大の防御」

 ともいえるのだ。

「将棋の一番隙のない布陣が何か?」

 ということを言われると、

「それは、最初に並べた布陣だ」

 というではないか。

 それは、

「一手打つごとにそこに隙が生まれる」

 ということで、

「お互いに、隙をいかに守りながら、相手の隙をつくか?」

 ということになるのである。

 そんな警察といっていいのかどうか分からない、秘密組織の内偵によって、組織の全貌が少しずつ分かっていたような気がする。

 記憶喪失の人間を作ることで、世の中に不安を増長し、そこで、

「頼れるのは、自分だけだ」

 という風に思わせるのだが、世の中そんなに甘いものではなく、

「結局、世の中というのは、一人では何もできない」

 ということを思い知ることになるだけだということになる。

 だから、

「何かに頼るしかない」

 という思いに至り、

「だったら、宗教ということになるだろう」

 しかし、そもそも、

「宗教というのは、胡散臭いもので、怖いものだ」

 という意識があるのだが、一番胡散臭く感じるのは、

「宗教というものが、今の世の中の自分たちを救ってくれるものではなく、死んでからのために、今を頑張って生きる」

 という考えだということを分かるからであった。

 今すぐにでも救われたいのに、

「あの世に行ってからのことなど、待っていられない」

 ということになるだろう。

 しかし、考えてみれば、キリスト教のように、

「自殺は許されない」

 というところでは、楽になりたいがための、自殺すら許されないということは、どういうことなのか?

 まるで、

「生き地獄を、しっかり味わわないと、あの世には行けない」

 ということになり、誰が助けてくれるのだ?

 ということになる。

 と考えると、

「あの世で、地獄と言われるものと、この世での地獄が、そう変わりないものだとすれば、あの世に期待をかけるという方が間違っている」

 とどうして誰も思わないのだろう?

「今を救ってくれないものを、どのように信じればいいものか?」

 ということであり。

「そんなわけ分からない発想をいかに、宗教として崇めればいいのか?」

 と考えた時、

 仏教思想とすれば、

「この世の地獄を、修行することで、耐え縫いて、あの世に行った時には、悟りを開いている」

 とでもいうような、一種の修行僧のような発想があるのではないだろうか?

 だから、仏像の中に、

「如来様」

 と、

「菩薩様」

 というのがあり、

「如来様は、すでに悟りを開いたお坊さんで、菩薩様は、いずれは悟りを開くということが許されている菩薩様がいる」

 という発想になるのだ。

 だから、菩薩様と言われる、

「弥勒菩薩」

 であったり、

「観世音菩薩」

 などという、いろいろな種類の菩薩様がいたりする。

 特に仏教思想というと、キリスト教よりも、さらに、

「死んだ後の思想の方が強いのではないか?」

 と考えられるが、さすがに、そこまで勉強もしていないし、悟りを開くまではまったく考えていない人にとっては、どうしても、宗教というと、

「胡散臭くしか見えてこない」

 ということになるだろう。

 そんな胡散臭い中にあって、秘密警察が内偵を始めると、

「これは、宗教団体ではないか?」

 ということが分かってきた。

 もちろん、秘密警察の中でも、かなりの確率で、ここが宗教団体であるということは大体の想像はついていたが、

「宗教団体ということで、あまり表立ったような奇抜なことはしないだろう」

 というのも分かっていたが、実際に入ってみると、そのすごさが分かってきたような気がしたのだ。

 それは、

「奥に入れば入るほどひどいもの」

 といってもよくて、しかも、奥に入る途中に、節目のようなものがいくつもあり、そこが、まるでつっかえ棒のようになり、その先にあるものが、

「段階を踏む」

 という形になり、力を他に向けているように見せながら次第に掻き出していくという感覚になっているのであった。

 その内容は、まるで、パラソルのようで、放物線を描いているように思えた。

「どっちの方向に広がっても、フォローできる」

 という感覚といえばいいのか、それぞれに

「節目による発達」

 ということで、

「わらしべ長者」

 のようなものだといえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「最後にもう一押し、何かがあるのではないか?」

 と考えていた。

 そこで、その効果を薬に求めるであれば、それは、一種の、

「覚醒剤」

 ではないか?

 と考えた。

 それは、反政府組織や、かつてイギリスが清国に売りつけて、清国の滅亡を早める起点となった

「アヘン」

 などのような

「麻薬」

 という意識よりも、もっと別の意味での、

「覚醒」

 つまりは、

「眠らないでも平気だ」

 といえるようなものがあると考えると、

「宗教団体は、反政府組織と同じく、薬物を自分たちの目的のために使うのだということになるのだが、実際には、少なくとも、宗教法人ということで、いくら裏に回るとはいえ、大っぴらに事を起こしてしまうと、警察に目を付けられるだけではなく、

「信者獲得にも支障をきたし、今の信者も離れていくことになる」

 ということになるだろう。

 だから、

「覚醒剤」

 と一口に言っても、

「麻薬」

 というイメージではなく、どちらかというと、

「スタミナドリンク」

 というような、

「眠ってはいけない」

 という仕事を抱えているような、バブル全盛期と呼ばれる頃に、

「企業戦士」

 と言われる人が、24時間戦うために飲む栄養ドリンクという意味でそれを使っているところも少なくない。

 だから、宗教団体でも、企業戦士というものに使われていたのと同じような効果のあるものを、何に使うというのか、それが問題だったのだ。

 それが、宗教団体の、

「裏の顔」

 の正体のようなものだといってもいいだろう。

「怪しい薬」

 を作っているところは、その宗教団体が、裏でやっている組織であった。

 そこは、工場のようなものを持っていて、以前から、周辺住民であったり、警察も気を付けるようにしていたが、それを取り締まるだけの法律がなかった。

 捜査令状も取ることもできず、手を出すことができない。

 それが、時代としては、今から、数十年前のことだった。

 しかし、その宗教団体は、明らかなテロ組織で、その工場で作っていた薬を使って、実際にテロを起こしたのだから、それは大変なことだった。

 しかも、その動機が、

「警察や、世間の目をごまかすため」

 というのが目的だったのだ。

 しかし、それだけのために、つまりは、ただの、

「時間稼ぎ」

 だけでしかないということを、教祖も分かっていなかったのだろうか?

 ただ、それだけのために、

「毒ガスを密閉された場所で撒く」

 という、凶悪犯罪を引き起こしたのだ。

「何の罪もない人が、後々、後遺症で苦しむ」

 あるいは、

「ただの第一発見者でしかない人が、まわりから犯人ではないかと疑われ、家族が犠牲になったにも関わらず疑われる」

 などという、理不尽なことになったのだ。

「世界的なパンデミック」

 における、

「黒いウワサ」

 ほどの信憑性はないが、それでも、実際に判明したこととして、

「この時疑われた人が、一番の被害者だった」

 ということになる。

 今では、そんな犯罪は、

「テロ行為」

 という認定で、法律も、

「テロ行為防止」

 に関する法律をやっと整備したので、今では、そんなことがあれば、捜査は初動捜査の段階からできるようになった。

 だから、このような、

「国家反逆罪」

 というものに匹敵するような犯罪がなかなか起きることもないだろう。

 ただ、その時に、ある程度まで何もできないくらいに解体されたその団体が、最近、地下組織として蠢いていることが、内偵される段階で分かってきた。

「まさか、あのテロ組織が暗躍していたなんて」

 ということであった。

 実際には、あの時の中心人物は誰も、もうこの世にはいない。

 捕まって、裁判で死刑になり、実際に、執行されてから、かなりの期間が経っている。

 それを思えば、

「あの時代は、歴史の1ページでしかない」

 というくらいに、

「過去の話」

 ということであった。

「風化させてはいけない」

 ということで、自然災害と同じように、語り継がれるほどの、

「テロ行為としては、当時、世界中でも、震撼されたことだった」

 といってもいいだろう。

 ただ、当時は、ちょうど、

「ソ連が崩壊」

 することで、

「社会主義国というものが、勢いを急激に減らし、仮想敵となっていたものがなくなってきたかと思うと、今度は、戦争の代わりに、テロというものが戦争にとってかわるということになった」

 ということであった。

 そんな団体は、元は、宗教団体であったが、それが、宗教色をなくし、他の国の諜報活動に近い、

「秘密結社」

 と組むことで、いろいろな研究により開発した薬を受注してくれることになったのだ。

 以前のような、

「大量殺戮」

 というような物騒なものばかりではなく、逆に、

「人間を増やす」

 ということでの、今は、

「国家的に反対はされているが、あくまでも、グレーゾーンということで、結果的に、明らかな開発まではできていないということで、研究も半ばというものも、いくつかあったりする」

 ということであった。

 例えば、

「クローン技術」

 などである。

 人間以外では、結構進んでいるようには聞いているが、実際にどこまでできているのかということは分からない。

「食糧問題などに貢献する」

 ということにはなるのだろうが、今研究しているのは、

「タブーへの挑戦」

 ということで、

「クローン人間」

 であった。

 ただ、一緒に、食糧問題も解決できなければ、

「人間だけを増やしても仕方がない」

 とも言われるが、実際にそうであろうか。

 というのも、最初は、

「ロボットやサイボーグを使えばいい」

 ということで、それらのロボット開発を行ってきたが、実際には難しかったりするのだ。

 というのは、やはり、

「ロボット工学三原則」

 のように、

「こちらのいうことを聞くロボットでなければいけない」

 ということになるのに、実際には、そうもいかない。

 彼らが作ろうとしているロボットは、

「絶対に自分たちのいうことだけを聞くロボットでないと意味がない」

 ということだったのだ。

 しかも、彼らは、

「ロボットにおけるフレーム問題」

 として、

「無限の可能性」

 というものに対してどうすることもできない。

 そうなると、

「ロボット開発は、暗礁に乗り上げる」

 ということになるのだ。

「ロボットがダメなら、人間にやらせればいい」

 ということになる。

 これは、元々の発想に戻っただけのことで、結局は、

「大量殺戮」

 ということに繋がっていくのだ。

 つまりは、

「クローン人間の政策は、ただの兵士として、いわゆる捨て駒をたくさん作る」

 というだけのためのもので、食糧問題も、

「どうせ、すぐに戦場の最前線で死んでいく連中なので、問題ない」

 というものだ。

 兵士を売ることで、利益を得るという考え方で、養うということを考えると、生まれてから、すぐに戦場に送り出せば、それだけでいいということになり、いわゆる彼らを必要とするのは、戦争屋という連中なのだ。

「戦争屋」

 という発想は結構昔からあった。

 もちろん、ウワサでしかないが、当時とすれば、アニメや漫画などのSF的な発想で、サイボーグ開発ものなどには、付きまとう発想としてあったりしたのが、この、

「戦争屋」

 という発想であった。

 そもそも、

「20世紀」

 という時代は、

「戦争の世紀」

 と言われるくらいに、悲惨な戦争が多かった。

 それまでの戦争というと、騎馬隊などによって、お互いが突進してくるという中世から続く先鋒の発展型が多かったのだ。

 それ以降の戦争はというと、

「大砲の打ち合い」

 などというものから始まることになるので、いきなり突っ込んでいけば、大砲であったり、新兵器である、

「機関銃」

 というものの、餌食になってしまう。

 ということである。

 だから、騎馬による特攻などはありえないといってもよく、特に、

「第一次大戦」

 においては、

「塹壕戦」

 というものができてきた。

 つまりは、塹壕にこもって、自分たちの身を守りながら、相手が消耗するのを待っているということで、完全な持久戦でしかなかった。そのために最初に開発されたのが、

「戦車」

 という新兵器であった。

「厚い走行に包まれて、機関銃くらいは弾き飛ばしながら、キャタピラによる進軍で、少々の道になっていないところでも、どんどん進んでくるということになるのだ。

 そして、戦車自身にも、大砲や機関銃のような装備を付けることで、

「動く要塞」

 というものが新兵器として登場することになる。

 さらには、空からは飛行機、飛行船というものが活躍した。

 最初は偵察くらいしか使われなかったが、途中から、爆撃に使うようになって、その威力を発揮する。

 新兵器は、陸と空だけではなかった。海においても、新兵器が登場する。

 というのも、海上ではなく、海中に潜水することで、

「相手に見つからずに、ステルスで攻撃ができる」

 という、

「潜水艦」

 の登場であった。

 実際の兵器は、それだけではなかった。

「大量殺戮」

 というだけを目的に考えられた、

「毒ガス」

 というのも、実はこれが一番恐ろしく、色も臭いもないので、忍び寄ってきても分からない。

 いつの間にか、苦しくなりバタバタと死んでいくというのが、毒ガス兵器だった。

 もし、生き残ったとしても、その後遺症は深刻で、ガスマスクなども開発されたが、さすがに、戦闘中であれば、危険でしかない。

「動きも取れずに、戦闘が難しくナウだけ」

 ということで、毒ガスという

「大量殺戮兵器」

 というものは、どうにもならないといってもいいだろう。

 時代が進むにつれ、戦争は止められないものとなり、完全に、持久戦と、消耗戦になった。そうなると、

「軍需産業」

 というのは、儲かる業界ということになるのであった。

 その後、第二次大戦になると、

「大量殺戮」

 というのは、どんどん進化して、さらに、攻撃目標が、元々の、

「陸戦協定」

 であったり、

「国際法」

 などでは、

「民間人を標的にしてはいけない」

 ということになっているのだ。

 戦争が激化して、世界規模に広がってくると、次第に、

「一般人を巻き込む戦闘」

 というのが、まるで事後承諾のように、

「絨毯爆撃」

 といわれる、いわゆる、

「無差別爆撃」

 というものが主流になってくる。

 確かに、攻撃する側からすれば、

「自分たちの犠牲に比べて、戦果というものが少ないと、自国において、そもそもの、戦争参戦論が下火になってきて、反戦論が浮かび上がってくる」

 ということになるのだ。

 それは、国家としては実際に困るわけで、

「始めたからには、勝たないと、それまでの犠牲が水の泡になってしまう」

 ということになる。

 つまりは、

「戦争をやめてしまうと、戦死した人は、犬死」

 ということになり、勝利して、相手国に、賠償金を払ってもらななければ、戦争を始めた意味がないということになる。

 犠牲にんあった人も、そのために、

「国家のため」

 ということで戦ったのではないか。

 それを思うと、

「戦争は、やるからには、完遂し、勝利しないといけない」

 ということになるのである。

 そして、それ以降の戦争は、ソ連を相手に、

「代理戦争」

 の様相を呈していて、

「民主主義VS社会主義」

 の戦いとなったのだ。

 特に軍需産業は、どんどん新兵器を開発し、仮想敵ではなく、本当の戦闘で、

「兵器を消耗してもらわないと、兵器が在庫で溢れる」

 ということで、

「需要を見込んで作っているのに、供給を求めるところがなければ、経済的にも回らない」

 ということで、

「戦争がない時代になると、武器が余ってしまう」

 というだけではなく、今度は議会が、

「防衛費に金を掛けるのはもったいない」

 と言い出して、

「実際に、戦争になった時、今度は武器が足りない」

 ということになると、それこそ、

「本末転倒だ」

 ということになってしまうだろう。

 それを思うと、

「超大国」

 と言われるところの軍需産業は、

「何としてでも、国家を、戦争に引きずり出す必要がある」

 ということになってしまうのだ。

 だから、人間の代わりに戦闘を行うために、

「サイボーグ」

 であったり、それだけではなく、

「相手国を戦争に引きずり出すための、諜報活動であったり、テロ行為を目的とした兵士として、人間ではないサイボーグを使うという発想が、現実味を帯びているのであった。

 そんな時代に、

「兵士として、戦争に引っ張り出すのを、サイボーグ開発によって作ったものであれば、こちらの人的被害も少ないし、サイボーグであれば、相手が生身の人間であれば、確実に殺傷することができる」

 ということで、

「戦争において、優位に立つことができる」

 というものであった。

 だが、戦争というか、

「世の中というのは、そんなにうまくいくものであろうか?」

 というのも、考えてみれば、

「今までの戦争を勉強していれば、簡単に分かることである」

 のであるが、

「相手を屈服させるための兵器をこちらが作れば、相手も、負けずと作りだろうとするのは、心理として当たり前のことである」

 といえるだろう。

 もちろん、戦術で、

「今ある兵器をいかに、有効利用できるか?」

 というのが、戦術家としての技量ということなのだろうが、何よりも、最強の兵器を作るということが、当然のごとく、相手に勝るということであるに違いない。

 それが、

「兵器の開発競争」

 というものになる。

 そのいい例が、

「第二次大戦後における。アメリカ、ソ連の二大超大国による、核開発競争ではないか?」

 ということである。

 まずは、原爆を最初に開発したアメリカに、ソ連は追い付く必要があった。

 何といっても、相手にしか核はないわけで、この時点で、明らかな差があるといってもいい。

 おそらく一度ソ連が核兵器を開発してしまうと、この時以上の格差は絶対に現れることはないあらである。

 だから、ソ連が開発に成功すると、アメリカの絶対的優位はなくなってしまった。

 だから、アメリカは、さらなる、

「理論上の無限の破壊力」

 と言われる、水爆開発に乗り出した。

 これが成功することによって、アメリカは優位に立ち、さらに、ソ連が水爆に成功すると、お互いに、いたちごっこだということに気づいたのであろうか?

 ソ連はそこで、今度は、核兵器だけではなく。

「大陸間弾道弾である、ICBM開発の乗り出し、宇宙開発に力を注いだ」

 と言われる、

「スプートニクショック」

 と呼ばれる、

「ミサイルギャップによって、アメリカは、宇宙開発で後れを取った」

 そんな時巻き起こったのが、

「キューバ危機」

 だったのだ。

 アメリカは、キューバのミサイルに狙われるという恐怖で、世界が緊張したが、その時初めて、全世界の人は、

「核兵器というのを、今までは、戦争を起こさない抑止力ととらえていたが、いつ突発的な事故によって、核戦争が起きないかという可能性が少しでもある以上、これ以上恐ろしい状況にいたのか?」

 と感じる世の中だったということに、やっと気づいたということであった。

 それにより、核戦争の恐怖よりも、アメリカは、ソ連の、

「世界社会主義化」

 とでもいえるような計画に、敏感に反応するようになったのだ。

 それが、ベトナム戦争であり、軍需産業の連中からすれば、

「願ったり叶ったり」

 ということで、完全な、

「死の商人」

 というものが存在したということになるのであった。

 そんな時代において、

「いたちごっこ」

 というものになってしまうと、結局、

「抑止力」

 というものが、まるで、

「絵に描いた餅だ」

 といってもいいということになるのだということを誰が分かるというものだろうか?

 これは、今の時代にも言えることで、逆に、

「今の時代だからこそ、いえることではないか?

 例えば、コンピュータウイルスなどの問題がそうである、

 ハッカーは、ウイルスで、相手の情報を盗むということを行うが、警察や取り締まり側とすれば、そんな被害に遭うことがないように、被害を最小限にとどめようとして、

「ウイルス駆除ソフト」

 というのを作る。

 すると相手はさらに、強力なものを作るわけで、それを。

「血を吐きながら続けるマラソン」

 という表現をした、特撮番組がかつてあった。

 その頃には、コンピュータウイルスどころか、コンピュータ自体が、

「架空の存在」

 ということでもあったので、何を揶揄しているのかというと、それは、

「核開発競争」

 ということに他ならなかったのだ。

 それが、社会というもので。その番組では、

「地球防衛という目的で、強力なミサイルを開発し、その実験ができるところまで来ていた時代」

 という設定だった。

 実際に、候補地も決まり、無人の星であるといわれている星をターゲットにして、ロケットを打ち上げた。

「宇宙からきた正義のヒーロー」

 としては、それが、

「目的を達するためには、それではいけない」

 ということを分かっているにも関わらず、自分が、人間の味方ということで妨害もできないというジレンマに悩んでいた。

 その時の防衛軍隊員の会話として、

「これで地球は安全だ。地球を侵略しようとしているやつを待ち構えて、ボタンの上に手を置いて待っていればいい」」

 というのだ。

 すると、もう一人の隊員が、

「地球に超芸気があることを知らせると、せめてこなくなる」

 という。

 確かにその通りなのだが、正義のヒーローは、、地球を守るためなら、何をしてもいいというのか?」

 ということに頭を悩ませていた。

 結果、破壊された星には生物がいて、地球に復讐にくるのだが、結局、正義のヒーローに倒されるという話であった。

 その宇宙怪獣は、本当はその平和な星に住む一生物に過ぎないのだが、それを人間が破壊してしまった。地球人は、地球が危機にになると、自分たちだけのことしか考えない人種だということも分かっている。

 それでいても、正義のヒーローは、

「地球人を助けなければいけない」

 だからこそ、ジレンマに陥るわけだが、本当であれば、

「地球なんか放っておけばいいわけで、何も地球や地球人に義理立てる必要はない。今まで放っておけばいいものを助けてやって、次第に地球人は、自分たちができなくても、ヒーローが怪獣や宇宙人をやっつけてくれる」

 と思い込んでいるのだ。

 正義のヒーローといっても、しょせんは、宇宙人の端くれ、

「他の宇宙人からすれば、何を裏切ってるんだ?」

 ということになる。

 しかし、そもそも、地球人が、

「宇宙人と地球人」

 ということで皆同じ宇宙人なのに、地球人だけ特別に扱うというのは、

「どこまで人間って、ずうずうしいんだ」

 ということになるであろう。


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