第3話 寓話
記憶が戻って、自分が本来いるべきはずのところにいるはずのところには、
「実際に、自分がいる」
というような話を聞いたことがないだろうか?
子供の頃に見たアニメや特撮などで、そんな話を見た記憶がある人は少なくないはずだ。
その記憶というのが、どのようなものなのかということは、正直、
「怖い」
という意識が強いことで、
「記憶というよりも、意識としての感覚の方が強い」
という思いが強いと言えばいいのだろうか。
記憶が戻って、自分がいなければいけない場所を思い出すと、
「まるで、昨日のことのような気がする」
という感覚がある。
それは、まるで、
「記憶を失っていた期間」
というのが、存在しなかったかのように、記憶を失うまでの記憶が、
「昨日のことのように思い出させる」
と感じる。
しかし、実際には、かなりの間、記憶を失っていたのだから、確かに昨日のことのように思い出されはするが、その記憶は、
「遠い記憶」
と思ってしまうのだ。
この感覚を、
「どこかで感じたことがある」
という気がしていた。
実際に感じたことではなく、
「何かの感覚に陥った時、自分だけが感じることではないか?」
と思うのだった。
これは、子供の頃に感じたことであったが、子供の頃は、新鮮な気持ちで見ているので、
「すぐに理解できる」
と思うのだが、実際には、
「自分は子供なので、大人になるにつれて、徐々に思い出してくることなんだろうな」
と感じていたが、実際に、
「大人になるにつれて、思い出せるはずの感覚が、やはり思い出せない」
と感じるようになるのだった。
というのも、
「大人というものが、子供の頃よりも、時間が早く過ぎるからだ」
と思っているからではないだろうか?
しかも、子供の頃の記憶に、上書きされるわけではなく、追加式でどんどん増えていくのだから、同じこなさなければいけない量でも、いろいろな対処法を身に着けることで、時間が、短く感じることであろう。
それを思うと、
「大人になるということは、経験を積むということになるのだろうが、それだけではなく、過ごした時間を、いかに有効活用できるか?」
ということを勉強する時期ではないか?
ということである。
大人になりきってしまうと、そこから先は、ある意味、毎日が同じことの繰り返しのように思えてくる。
本当であれば、
「昨日よりも今日、今日よりも明日」
と、成長しなければいけないという話をよく聞くが、それこそ、
「当たり前のことであるくせに、実際には、同じことの繰り返しにしか思えないのは、それだけ、大人になった」
ということであろう。
ただし、大人には誰だってなれるのだ。
「どんな大人になるか?」
ということが問題なのであって、大人になった時、
「問題点を、いかに大人として裁くことができるか?」
というのが、
「大人としての技量なのだ」
と言ってもいいだろう。
「時間があっという間に過ぎてしまった」
という発想で、まずピンとくるお話としては、
「タイムスリップもの」
のお話ではないだろうか?
SF小説などにありがちで、
「未来に行くことで、時間を飛び越える」
という発想だ。
「タイムスリップ」
というものは、
「タイムマシン」
のような、
「人間の手によって開発されたもの」
というものと、
「自然現象」
として言われるところの、
「ワームホール」
というものである。
ワームホールというのは、
「時空のある一転から、離れたは所に、瞬時に移動できるものだ」
ということである。
この発想は、
「光速を超える」
ということで、
「時間軸を飛び越える」
という発想で、2つの意味を成しているとも言えるだろう。
一つが、
「ワープ」
というもので、あくまでも、
「空間を移動する」
ということになる。
宇宙空間で、例えば、地球から月に向かって、数秒で飛び越えるというようなものである。
その間に時間は、本当に数秒しか過ぎていない。ロケットや宇宙線の中の時計がそれを証明しているという。
しかし、これは、
「すべては、宇宙船の中で完結する」
ということで、
「光の速度を超えていない世界と、超えた世界との間に、時間の流れがまったく違う」
という、いわゆる、
「相対性理論」
というもので考えると、まるで、
「電車の中で飛び上がった時、電車の外の空間とはまったく違う流れがある」:
と言われる、
「慣性の法則」
というものとは、まったく違うものだと言えるだろう。
これが、SFマンガなどでよく言われる、
「ワープ航法」
と言われるものである。
これは、あくまでも、同じ次元の同じ時間軸でのことであるが、これが、
「別次元」
であったり、
「時空を超える」
という発想から、
「タイムマシン」
のような働きをすることから、
「自然現象でありながら、時空を超えるものとして、
「ワームホールが存在している」
という考えもありえるだろう。
そうなると、
「ワープできる宇宙船」
というものを開発することができれば、
「タイムマシンの開発も不可能」
ということではなく、逆に、
「タイムマシンを作ることができれば、ワープ航法も可能になるだろう」
ともいえるのではないだろうか?
さらにこの発想から、
「タイムマシンで行きついた先というのは、ワープによって行きつく先と同じではないだろうか?」
という発想もあり、
「遠くに存在している宇宙というのが、われわれ人間の未来だったり、過去だったりするのではないだろうか?」
という発想もありえることで、
「浦島太郎」
の話というのも、あれは、ワームホールやタイムマシンのようなものとして、
「カメ」
が登場しているが、本当は、
「カメがタイムマシンだったのではないか?」
とも考えられる。
ただ、ワームホールだったとすれば、竜宮城は、地球の中にあるものではなく、カメとい宇宙船で、ワープを繰り返しながら、
「遠くの星に連れていかれたのではないか?」
ということになるのかも知れない。
そもそも、
「海の中にある竜宮城」
というものは、
「空気の損座視しない海の中」
ということであれば、同じ、
「空気の存在しない」
ということであれば、宇宙空間であっても、同じではないだろうか?
それを思うと、
「タイムマシン」
と、
「ロケット」
などの
「ワープ航法を可能にできるマシン」
と考えれば、イメージとしては、
「時空を超えた」
という感覚であるが、
「ワープして、遠くの星まで行って、あとは戻ってきた」
と考えるのも無理なことではない。
ただ、戻ってきたと勝手に思っているが、本当に浦島太郎がカメに連れられていったところが、時空は違っているとしても、元いた自分の世界なのだろうか?
それを考えると、
「浦島太郎」
の話というのは、
「竜宮城から、まったく違う世界に来てしまった」
ということになるのかも知れないし、逆に、
「浦島太郎は、別の次元の住人であって。竜宮城を経由して、こちらの世界にやってきた」
という、
「宇宙人なのかも知れない」
ということではないだろうか?
それを可能にするのが、自然現象としての、
「ワームホール」
であり、人工的なものとしての、
「タイムマシン」
なのではないだろうか?
かなり昔にあった特撮ドラマの中で、
「人間消失事件」
というものをテーマにした話があった。
これは、人間がある液体に触れると、まるで煙のように消えてしまうというもので、人間が消えた後には、ハンドルだけが勝手に動いているシーンが残っているという、そんな話であった。
そこには、宇宙人が絡んでいて、その宇宙人というのは、
「実は、地球における未来人」
という設定であり、そのドラマがあった、約50年後ということであった。
実際には、その年は、すでに過ぎている。
そのドラマでは、すでに、その年には、
「物体瞬間移動装置であったり、タイムマシンのようなものが開発されている」
という設定であった。
ただ、今まだそんなものが開発されたわけではない。
「瞬間物質移動装置もなければ、タイムマシンもない」
さらにいえば、
「光速を超える宇宙船であったり、ロケットなどもない」
あるとすれば、
「月か火星くらいまでいけるロケット」
ということで、宇宙開発という意味では、今から40年前と、
「どこが変わったのか?」
と言えるほどであった。
「タイムマシン」
であったり、
「ロボット開発」
というものであれば、
「フレーム問題」
あるいは、
「ロボット工学三原則」
という問題。さらには、
「タイムパラドックス」
というそれぞれの問題が解決しなければ、タイムマシンも、ロボットも開発しても、実用に至るまでにはいかないのだ。
だから、
「50年経っても、開発されない」
ということであり、
「この50年というのは、未来永劫と言い換えることもでいるのではないだろうか?」
ともいえるだろう。
浦島太郎という人物が、、
「他の次元」
あるいは、
「他の星にいた人間」
ということであれば、それは、逆の発想として、
「裏の宇宙にある地球そっくりの星ではないか?」
ともいえるのではないだろうか?
今、確認されている宇宙だけでも、
「空気や水があって、人類が生存できるだけの星というのが、どれだけあるのか?」
ということである。
実際に存在しているこの宇宙の星というのが、どれだけたくさんあるというものであるか、正直分からない。その中で、人類が生存するには、
「水と空気」
というものが最低限であり、他には、
「太陽のような恒星の恵みがないと存在できない」
と言える。
そもそも、
「水と空気」
というものも、
「太陽のような恒星の恵みによるものだ」
ということになるのではないだろうか。
ただ、これはあくまでも、
「人間というものの性質」
ということから考えたことである。
「宇宙には、水も空気も必要としない」
という生物がいて、その生物は、人間などよりも、はるかに文明が発達しているところなのかも知れない。
ひょっとすると、
「その先祖は人間と一にする」
というものかも知れず、
「別の星で生存したことによって、その進化の度合いが変わってきたのかも知れない」
ということになるかも知れない。
あくまでも、人間というのは、
「自分たちの考えられる範囲でしか、想像することができない」
だからこそ、豊かな想像ができるのかも知れず、
「人間だけが、地球上で、頭脳が発達した生物なのかも知れない」
ということである。
だとすると、
「宇宙船で、他の星に行ったとして、人間が生存できる星なのか分からない。そうなると、宇宙船での、地球脱出というのは、本当の命がけ」
ということになるだろう。
もし、他の星にたどり着いて、空気も水もない世界であれば、生存することができない。
逆に、それ以外に生存することができる別のものがあって、そのためには、
「別の性質にならなければいけない」
ということで、人間に、そんなことができるはずもなく、そこに住んでいる宇宙人に、その発展した科学力によって、
「自分たちと同じ性質を持った生き物に作り替えられることになるかも知れない」
と言えるであろう。
ただ、それは、彼らの善意からではなく、
「奴隷としての、彼らの都合のよさのためだ」
ということであれば、宇宙人が、
「地球人というものを、奴隷として使おう」
という発想を持ち、地球を、
「植民地」
として、開拓しようと思ったとしても、それは無理もないことである。
人類だって、同じ人間の間で、同じことをして、古代から、存在している、
「奴隷制度」
というものが、それを物語っている。
だとすると、
「奴隷制度」
というのは、古代の、
「人類の黎明期」
ともいえる、まだまだ下等だった人類においてのことだけではなく、もっと進んだ文明においては、明らかな奴隷制度が存在したのかも知れない。
人類が、今の国家体制として、一番ポピュラーなものとして、
「民主主義」
というものがあるが、これは、
「自由」
と
「平等」
というものを掲げているが、結果としては、
「自由を優先するあまり、平等ではなくなっている」
ということで、それによって出てきた問題が、
「貧富の差の激しさ」
というものではないか。
それこそ、奴隷制度の時代のように、
「口では平等だ」
と言っておきながら、結果として、出てきたものは、
「奴隷制度」
に代表される、
「形として表れていない身分制度」
であったり、
「格差社会」
というものではないだろうか?
竜宮城というものは、人間に、その未来の世界である、理想の世界を見せつけ、いずれ、
「地球を侵略しよう」
とする宇宙人の、デモンストレーションのようなものではないだろうか?
少し、考え方は、奇抜ではあるが、そもそも、浦島太郎のお話というのは、それだけ辻褄の合っていないところが多い。
それを考えると、
「どこで発想の妥協を行うのか?」
ということが問題になるのではないだろうか?
「浦島太郎は、本当は記憶を失っていたのではないだろうか?」
という発想もある。
あるいは、
「玉手箱を開けたことで、それまで失っていた記憶が戻ってきて、竜宮城の記憶が消えてしまったのかも知れない」
と言えるだろう。
というのも、
「だからこそ、玉手箱を開けた瞬間に、このお話は終わっているのだ」
ということである。
本当は、このお話には続きがある。
そもそも、
「カメを助けたという正しいことをしたのに、なぜ、おじいさんにならなければいけないのか?」
ということである。
これでは、辻褄が合わないではないか。
「いいことをすれば、いいことの報いがあり、悪いことをすれば、罰を受ける」
これが、童話であったり、寓話というもののはずではないかということである。
これは、昔から言われていることであり、この話が、
「なぜ、ハッピーエンドではないのか?」
ということであった、
他の話には、
「いいことをすれば、ハッピーエンド」
「悪いことをすれば、その報いを受ける」
という、宗教的な側面があることから、
「童話、寓話」
においては、
「教育的な指導を下に作られている」
と言ってもいいのではないだろうか?
ただ、この浦島太郎という話には、
「開けてはいけない」
という玉手箱を開けてしまったという、
「見るなのタブー」
が存在する。
この話をどうしても、ハッピーエンドにしたくないという思いから、後付けで、
「見るなのタブー」
というものを、でっち上げたとすれば、それはそれで、辻褄が合っているといってもいいだろう。
それを考えると、
「浦島太郎の話は、本当に寓話となるのだろうか?」
と考えられる。
本当は子供向けではなく、何か隠しておきたい発想が含まれていることから、
「寓話の中に潜り込ませた」
という、一種の、
「木を隠すには森の中」
というような発想が出てくるのではないだろうか?
「一番目に付きやすいところが隠し場所」
という、まるで、
「石ころ」
のような存在になるのではないだろうか?
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