第2話 身代わり

 記憶喪失という人がここ数年増えてきた。

 前章のような、

「外的な事故」

 などによって、頭を打ったなどということがあるわけではないのだが、

「急に朝起きると、何も覚えていない」

 という記憶喪失もあれば、

「アルツハイマー」

 のように、少しずつ忘れていくという病気もあるのだった。

 実際に、昔からも、

「若年性のアルツハイマー」

 というのも少なくはなかったが、それよりも、

「いきなり記憶を失ってしまう」

 というようなことは、ほとんどなかったはずである。

 それなのに、なぜか記憶が、いきなり失われるという現象が増えてきた」

 というのが、実に不思議なことであり、医者や心理学者が頭を抱えるような事態になってきたのである。

「何が一体、こんな状態にしたんだ?」

 ということである。

 こちらも、昔から、ごく希少な例ではあったが、ないわけではなかった。

 しかし、ここまで増えてくると、大きな問題になってくる。だから、医学界と政府が協議した結果、

「このことは、できるだけかくしておこう」

 ということになった。

 もし、マスゴミなどに感づかれたとしても、

「分からなかった」

 ということでごまかそうということであった。

「それは、学者界隈の中では、恥になるのでは?」

 と言われるのだが、それでも、社会問題を引き起こし、自分たちがどうすることもできない状況に陥って、そこで、大きな問題とされた場合とを天秤に架けると、

「知らぬ存ぜぬ」

 で押し通す方が、自分たちの害は少ないと考えたのだ。

 それが正しい方法なのかどうかは分からないが、少なくとも、今考えられる場面では、その方がよほどましに見えるのだ。

 それを考えると、

「今の自分たちの立場が、前に進むにしても、立ち止まるにしても、後ろに下がるにしても、どれをいっても地獄だ」

 ということになるだろう。

 学者や医者の有識者は、どうしても、保身に走ることが多いが、それでも、判断が付きにくいほどの状況に、

「国民が気づく頃には、少しでも収まってくれていればいい」

 ということを考えるしかないということで、今のこの世の中というものが、

「他力本願でしかない」

 ということが言えるのではないかと感じるのであった。

 今のこの世の中が、どの方向に向かえばいいのか、

「一番わかりにくい世の中」

 だといってもいいのではないだろうか?

「ひょっとすると、社会全体が、隠蔽体質の社会になっているのではないか?」

 という、まるで、

「世の中が生き物のようなものではないか?」

 と考える人もいたが、それこそ、

「お前はバカなんじゃないか?」

 とばかりにいわれることを恐れている。

 自分のこの意見に自信めいたものが育まれるにつれて、その思いは強くなる。

「それでも、地球は回っている」

 と言った、

「ガリレオ・ガリレイ」

 を思い出すからに違いないのだ。

 記憶喪失になると、もちろんのことだが、

「自分が誰であるか、どこの人間なのか?」

 ということがわからない。

 しかし、不思議なことに、

「生活をする上で絶対に必要なこと。つまりは、本能」

 と呼ばれるようなことを決して忘れるわけではない。

「自分が誰か分からないのに、言葉を忘れているわけではない」

 さらに、

「どこで生活をしていたか分かっていないのに、生活をするための、例えば、食事であったり、睡眠を忘れるということはない」

 さらには、

「学校の記憶はないのに、覚えたであろうことを勉強であれば、覚えているということもあったりする」

 ということである。

 それが、本能的なことであったり、普通に覚えられるということであれば、記憶喪失になっても、忘れているということはないというものなのかも知れない。

 それを思うと、記憶喪失というのは、

「一種の病気」

 ということであり、自分が忘れてしまうのが病気だと思えば、

「何かの特効薬というのも、どこかに存在しているのではないか?」

 と感じる。

 もっといえば、

「記憶を失っている時ほど、何かの超能力のようなものを発揮できるかも知れない」

 とも感じる。

「人間の脳というのは、一割くらしか使っていない」

 ということを言われている。

 だから、よく、

「超能力」

 と言われるものは、誰もが持っていて、それを発揮できるかどうかが、その人の能力のようなものではないか?」

 ということである。

 もちろん、物理的に不可能なこともあるだろうが、やろうと思えば、

「テレパシー」

 であったり、

「予知能力」

 のようなものであったら、できるのではないかということである。

 しかし、他の超能力というと、

「相手を攻撃する」

 というものであったり、

「瞬間移動」

 のように、

「物理的に無理なのではないか?」

 と考えられるようなものは、できるかどうか、微妙は気がするのであった。

 記憶喪失というものは、

「ひょっとすると、そんな超能力の世界に対しての、一つの渡し船のようなものではないだろうか?」

 といえるのではないかと思うのだった。

 人間は、

「二兎を追うもの一と燃えず」

 という言葉であったり、

「神は二物を与えず」

 という言葉があったりと、決して、

「欲張ってはいけない」

 ということを、一種の戒律のようにしているではないか。

 それを考えると、

「世の中というのは、理不尽ではないか?」

 といえる。

「欲というものがないと人間は、成長できない」

 といえるだろう。

 両面から、理屈を満たすのは、

「人間のテーマであり、しかも、それは人間にしかできないことだ」

 といえるのではないだろうか?

 そうやって考えてみると、世の中において、

「記憶喪失の人間と、超能力を使える人間とでは、どっちが多いのだろう?」

 と考えてしまう。

 これは、あくまでも、その人の発想なので、何とも言えないが、

「何となく、記憶喪失の方が少ない気がする」

 と思っている。

 というのは、

「超能力を使える人間というのは、本当は記憶喪失の人間にしかできないことではないか?」

 と考えるのだ。

 しかし、逆に、

「記憶喪失の人間すべてが、超能力を使えるわけではない」

 と考えると、

「記憶喪失の人間の方が多いような気がするのだ」

 やはり、

「ショッキングなことで引き起こされる記憶喪失もあるからだろうか?」

 と考えるが、

「超能力というものが、潜在しているということを考えると、何かのショックで、いわゆる、覚醒するということになる」

 ということであれば、

「記憶喪失になった瞬間に、超能力を使えるようになるとしても、それは、無理もないことではないか」

 といえるのではないだろうか。

 もっといえば、

「超能力というものを、どこまで人間が科学的に理解しているか?」

 ということと、

「記憶喪失に対しては、科学的というよりも、人間の生理的な部分との比較になるのではないか?」

 と考えることで、

「記憶喪失と、超能力というものの、因果関係」

 というものが、どこまで証明できるか?

 ということに繋がるのではないかと思うのであった。

 記憶喪失も、一つの超能力だとすると、

「潜在意識」

 というものが、

「超能力に結びついてくる」

 といえるのではないか?

「潜在意識のなせる業」

 ということであるならば、そこに介在しているのは、

「夢」

 というものではないかといえるだろう。

 夢というものが、

「潜在意識のなせる業」

 ということになれば、よく病気の代表格のように言われる、

「夢遊病」

 というのも、まるで、一つの超能力のようなものだといえるのではないだろうか?

「夜歩く夢遊病」

 ということで、自分が、うろうろする時というのは、眠っている状態だという。

 だからこその、

「夢遊病」

 なのだろうが、

「よくこれで、躓いたり、こけたりしないものだ」

 といえるだろう。

 ちゃんと、よけるところはよけて歩いているのが、夢遊病で、目を瞑っているように見えるのに、潜在意識の中では見えているということなのか、実に不思議な感覚だといってもいいのではないだろうか?

「夢遊病と超能力」

 似て非なるものだといってもいいのではないだろうか?

 実際に、記憶喪失ではない、普通の状態でも、なかなか覚えていないということも多いものだ。

 もちろん、

「人の顔を覚えられない」

 というのもそうであり、

「間違えて声をかけてしまった」

 という時の恥ずかしさから、自分の意識の中で、

「完全に分からなくなってしまった」

 ということだってあるわけで、それが、

「覚えられないのか?」

 それとも、

「忘れてしまったのか?」

 ということすら分からないという意識になってしまっているということを、自分でも分かっていないということになるのだろう。

 そんな中で、

「記憶喪失の人が、本当にどれだけいるのか?」

 ということと、

「記憶喪失の人と、超能力者とが、どれくらいの比率なのか?」

 などという、少し突飛なことを考えてみると、さらなる突飛な発想が浮かんでくる。

 とはいえ、本来であれば、

「こっちの方が最初に思い浮かぶことではないか?」

 と考えられることであり、それが、

「超能力者と、記憶喪失者の間で、テレパシーのようなもので会話ができているのかも知れない」

 と感じるのだ。

 たとえば、

「人間同士であれば、言葉というものが存在し、それぞれお互いにコミュニケーションというものがある」

 といえる。

 しかし、他の動物であれば、犬などは、

「ワンワン」

 としか言っていないように思えるが、それはあくまでも、

「人間として聞いているから」

 ということで、犬の耳には、会話が聞こえているのかも知れないということに相違ないのではないだろうか?

 人間にだって、、

「ある程度以上の年齢になると聞こえなくなる」

 と言われる

「モスキート音」

 というものがあるではないか、

 それを人間は、ステルスとして、兵器に使おうとしているが、動物の声帯解明ということで、

「ひょっとすれば、役に立つのではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「旧約聖書」

 の中にある、

「バベルの塔」

 の話であるが、これは、

「人間が神に近づこうとすると、裁きを受ける」

 という話であるが、

「この時に、神から受けた裁きというものが何であったか?」

 ということである。

 この時に、神が行ったのは、

「人間の言葉を通じなくして、皇帝にとっての、臣民であったり、奴隷たちは、誰もが言葉が通じなくすることで、全世界に、人間を散らばらせることになった」

 というのが、

「神からの裁き」

 であり、

「神からの戒め」

 ということでもあるのだろう。

 そんな記憶喪失という人たちがたくさんいる中で、一つの都市伝説のような話が浮かんでくるのであった。

 それは、

「そもそも記憶喪失というのは、何かの暗躍している力というものが存在していて、それが、超能力のようなものなのか、それともm人間の本能とでも呼べるものなのか、そのどちらかであり、そのどちらでもある」

 というような考え方であった。

 それを思わせるのが、今から半世紀近く前にいわれていた話であり、それが、

「身代わり」

 と呼ばれる考え方なのであった。

 というのは、記憶喪失になるということは、どこかで、

「失踪していて、捜索願が出ている」

 という人たちが、必ず陰にはいるということである。

 記憶喪失で、自分のことが分からないと思っている人の反面、人というのは、

「一人では生きていけない」

 ということなので、必ず、親や近親者がいたり、会社の同僚や、友人などがいるはずだ。

 捜索願というと、さすがに、近親者でしか出せないものでもあり、簡単に誰もが出せるものでもないので、簡単に、

「捜索願」

 というものと、

「記憶喪失者」

 というものが、結びつくとは限らないだろう。

 そんなに簡単に結びつくであれば、警察は、もっと真剣に探るはずである。

 どうしても、警察は、

「検挙率」

 というものに力を入れるので、捜索願にもなっていない事件をいちいち時間をかけて探るようなことはしないだろう。

 しかも、捜索願を、

「事件」

 ということで受理してしまうと、分母が大きくなった分。

「必ず解決しないと、検挙率は下がる」

 ということで、できれば、事件にしたくない。

 だから、警察は、

「捜索願というものを、事件として処理したくない」

 というわけだ。

 それが、本当に事件であり、解決されるという保証があれば、それこそ、検挙率が上がるから警察にとってはいいことなのだろうが、そこまで必死になって捜査をするということを警察はしない。

「軽費や時間をかけて、事件にもならなければ、経費の無駄遣いでしかない」

 ということになり、いくら検挙率があがっらとしても、経費の観点から、

「損益計算」

 ということでは、損でしかないということになるだろう。

 それを考えると、

「警察というところは公務員なので、事件をでっちあげるというようなリスクを犯さない代わりに、経費の節減に必死になる」

 ということで、

「さすが、公務員」

 ということになるのであろう。

 それを思うと、

「警察が、事件を大げさにしないこと」

 であったり、

「民事不介入」

 ということを逆手に取り、なるべく余計なことはしないというのも、分かりそうなものである。

 だから、世間における、

「警察への失墜というものは、実に大きなもので、特に最近では、刑事ドラマなどでは、警察の怠慢であったり、警察官における犯罪の多さ、そして、警察内部のコンプライアンス違反の酷さ」

 などというものが叫ばれるようになり、

「それが、視聴者にウケる」

 という時代になったということだろう。

 記憶喪失というのは、基本的に、短い周期で治ることが多い」

 と言われている。

 それは、あくまでも、

「PTSD」

 のような、

「心的外傷後ストレス障害」

 と言われるようなものであれば、

「もし、治ったとしても、周期的に襲ってくるようなことはないだろう」

 というのは、

「今の時代でよく言われている精神疾患」

 と呼ばれるものは、基本的に、

「周期的になっている」

 といってもいいだろう。

「精神疾患」

 として呼ばれるものの代表として、昔からよく言われるものとして、

「躁うつ病」

 と呼ばれるものがあった。

「躁状態とうつ状態と周期的に繰り返す」

 というもので、最近では、

「双極性障害」

 と言われるようになった。

 これは、明らかな、

「脳の病気」

 というものであり、

「双極性障害」

 の場合は、必ず、病院で診察を受け、適切な薬による治療を受けないと、どんどんひどくなるといわれているのだ。

 しかも、その薬にも副作用のようなものがあり、それに苦しんでいる人もたくさんいる。だから、余計に、

「信頼できる医者に掛かって、双極性障害というものを克服する必要がある」

 ということになるのだ。

 この病気は、

「他の精神疾患を複数誘発している」

 ということも言われている。

「躁鬱状態だけ」

 というわけではなく、

「パニック障害」

 であったり、

「自律神経失調症」

 あるいは、

「統合失調症」

 などと言った、単独でも大変な精神疾患を併用して患っているということになるのである。

 それを考えると、

「精神疾患による記憶喪失」

 というのも、

「まったくない」

 とは言い切れない。

 普通ならありえないような発想も、

「ありえるかも知れない」

 と考えさせられることで、いかに、自分たちが、うまく立ち回れるかということが問題になってくるのである。

 それを思うと、

「身代わりが、自分が記憶を失っている間に存在していて。元々、自分が記憶を失ったのも、その人たちが自分に入れ替わるための、一つの手段だっただけだ」

 といえるのではないだろうか?

 それこそが、

「悪の権化の正体なのかも知れない」

 ということであろう。


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