国家によるカプグラ症候群
森本 晃次
第1話 記憶喪失
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年12月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。前作品と、似ているところが多いが、まったくう別の作品となります。今回の日本と世界の発想に関しては、若干違っているとすれば。それは、「パラレルワールドの世界だとお考え下さい。今回のお話は、昔の特撮やアニメなどの「懐かし番組」がヒントになっているといってもいいでしょう。しかし、これはあくまでも、発想の問題であり、今の時代にそぐわない場合もあるので、あくまでも、作者の妄想であったり、架空の発想であるとでも思っていただけると幸いに思います。
世の中には、記憶喪失と呼ばれる人は、結構いる。
事故による外的なショックであったり、トラウマとして残ってしまうような恐怖体験から、
「自分の中にこもってしまう」
という人も結構いたりするだろう。
実際にどっちの方が多いのか?
というと難しいところであろうが、ほとんどの記憶喪失がこの二つだと思うと、そのどちらにしても、
「自分だけの問題ではない場合が多い」
といえるだろう。
つまり、
「記憶喪失の人の記憶を取り戻してあげなければいけないのだろうが、記憶を取り戻そうとすると、その時に頭痛が起こったり、何か身体に変調を起こすことが多いので、無理にはできない場合が多い」
身体や精神に、
「ショックというものが植え付けられ、過去に引き戻すことができないほどの大きなショックがあったということであれば、それを引き戻すのは、酷なことであろう」
といえる。
何といっても、その苦しみは、
「本人ししか分からない」
ということだ。
本人だって、
「記憶を失いたいわけではなく、致し方のないところで失ってしまった記憶なのだとすれば、記憶を引き戻すのは、本人の中の葛藤が、一種の副作用を起こすことで、本人に、大きなショックを伴う」
というわけなので、
「果たして、どうすればいいのか?」
ということになるわけで、結局は、
「本人しか分からない」
といっても、実際には、
「本人にも分からない」
といってもいいだろう。
それだけ、潜在意識と、実際に表に出ている意識との間に、大きな開きがあるのだとすれば、
「他人がどうすることもできない」
といってもいい。
だから、
「医者だからといっても、他人は他人だ」
と、もし、本人が思っているのだとすれば、
「記憶が戻ることはないのかも知れない」
といえるのではないだろうか。
それだけ、本人が、
「自分という殻の中に閉じこもっている」
ということであろうから、その人は、
「表に出ている自分すら信じられない」
ということであろう。
きっと記憶喪失の人は、
「表に出ている自分と、潜在している意識の中の自分」
というものを、鮮明に分かっているのではないだろうか。
それは、自分を表と歴然として遮断する気持ちになることで、
「記憶を失った理由を、表と中の自分というものの違いに気が付いたからだ」
と思っているからではないだろうか?
記憶喪失になったことのない人間が、記憶喪失になった人のことを考えて、
「どうなれば、記憶喪失などになるのだろうか?」
と考えるだろう。
すると、思いつくのは、前述の、
「外的なものと、内側から、思い出したくないと思う何かが存在しているからだ」
と普通灘、誰もが考えることだろう。
しかし、それはおそらく、子供の頃から、アニメであったり、特撮であったり、大人になる過程において見る、ドラマであったりなどから、
「記憶喪失」
なるシチュエーションや、主題があった場合に、その原因として、
「医者のような人が出てきて、その人が語る言葉を、少なからずに信用しているからではないか」
ということになるのだろう。
しれは、もちろん、作品を書くうえで、ストーリーとかけ離れているわけではないという前提から、医学的に、無理のない理由を作りあげる。
つまりは、
「結果からの、帰納法」
というわけではなく。
「ストーリー展開における、結果を導くために、考えられることを吸い属していくうちにたどり着いた理屈」
というのを、
「記憶喪失の原因」
ということで、認識していることに違いないと思うのだった。
記憶喪失の話というと、どうしても、テレビドラマなどでは、結構使われていることが多い、特に、
「事件を目撃した」
ということでの話が多かったりして、そのために、犯人から、
「顔を見られた」
ということへの疑心暗鬼から、
「狙われてしまう」
ということが多かったりする。
「記憶喪失が誰なのか?」
ということがドラマの中では分かっていて、本人だけが分かっていないという話であれば、そこに、たとえば、その人の恋人がその記憶喪失の人を守ろうとすることが、ドラマの主題になったりするだろう。
記憶喪失の人が、
「男であっても、女性であっても、それは同じ」
ということで、
「どっちが、ドラマの中でのインパクトが強いか?」
ということで。ストーリーが変わってくということだってあるだろう。
それを考えると、ドラマというのは、そのストーリー展開で、登場人物が、変わってくるといってもいいだろう。
逆にいえば、自分が使いたいキャラクターを最初に考えておくことで、
「ストーリーがどんどん狭まってくる」
ということが言えるのではないだろうか?
それを考えると、話の内容が、
「ヒューマンタッチ」
でいくのか?
あるいは、
「ストーリー重視」
でいくのか?
ということで変わってくるのかということが決まってくるのだろう。
男女の関係ということを考えると、
「ヒューマンタッチ」
というのもありえることで、ストーリーがその後からついてくる。
「一種の枝葉だ」
といってもいいかも知れないが、
「逆に、ヒューマンタッチが枝葉ということになる」
ということもある。
これが、
「映像作品なのか?」
それとも、
「小説としての、文学作品なのか?」
ということで変わってくる。
文学作品だということになると、そこには、読者が読んだ内容を、自分の中で映像化させるという作業が入ってくることで、想像力、あるいは、妄想のようなものが、作品に大きな影響を与える。
いや、大きな影響を与えるのが、文学作品なので、こちらは、最初から、
「ヒューマンタッチ」
という形で書いていくと、読者を一つの方向に誘ってしまうということで、
「ミスリードしてしまう」
といえるのではないだろうか?
あくまでも、発想は豊かにするという余地を残しておいて、
「自由な発想」
というものを残すということで、
「ストーリー展開によって、読者が、ヒューマニズムを感じる」
というやり方が望ましいのだろう。
だから、この感覚は、
「映像作品」
というものから見れば、
「脚本」
というものに考えが及び。つまりは、
「小説と、脚本とでは、根本から考えが違う」
ということに結びついてくるのかも知れない。
「小説と脚本の違い」
ということを問題にする人も多いだろう。
「脚本は、小説のような原作があってのもの」
と思っている人も多いだろうが、それだけではない。
ドラマなどでは、
「脚本家オリジナル」
というものも結構あり、
「原作を含めて、脚本家が書く」
ということが多いといわれている。
だから、
「原作がない方が大変だ」
と思っている人が多いかも知れないが、
「一概にそうも言えない」
ということでもあるようだ。
というのも、
「原作の小説であったり、マンガなどは、セリフであったり、シチュエーションを、そのまま映像に使えるようにするために、一種の映像作品にするための、台本という形のものをシナリオというのだ」
ということである。
だから、普通に考えれば、
「原作に忠実に書けばいい」
ということになるのだろうが、そうしてしまうと、
「原作には、絶対に敵わない」
ということになるのだ。
それは、どういうことなのかというと、
「小説には絶対に敵わないものがある」
というのだ。
それが、前述にもあるように、
「想像するという力」
である。
原作には、
「読者を想像力へとリードする書き方があり、その技法を持っているのは、
「小説家」
という人たちである、
しかし、映像作品には、想像力を掻き立てるものはない、あくまでも、
「目の前に見えていることがすべてなのだ」
ということである。
だったら、
「想像力に匹敵するものを、いかに引き出すのか?」
ということが、それが、
「演出家」
のドラマへの設計力であり、さらに、
「演者」
である、俳優の人たちの、いわゆる、
「パフォーマンス」
が、引き立てることになるのだ。
「ドラマの設計図」
である脚本が、それら、演出家であったり、演者としての俳優が力を発揮できないということになると、
「ドラマという映像作品は、絶対に、原作と呼ばれる小説には勝てないのである」
ということになるだろう。
実際に、昔、
「読んでから見るか? 見てから読むか?」
というキャッチフレーズの映画があったが、あの頃でも、
「映像作品は、原作にはかなわないよな」
と言われ、
「読んでから見るというのは、辞めた方がいい」
と言われていたのを思い出した。
それが、原作と脚本の違いであり、まるで、交わることのない平行線だ」
と言われたものだった。
記憶喪失というと、よく聞く話として、
「交通事故」
などのショックにより、記憶を失うということが結構多かったりする。
事故による肉体的な障害は消えたとしても、精神的なショックで、記憶が戻ってこないということも多かったりする。
ただ、この場合は、
「思い出したくない」
という意識はなく、普通に、
「思い出せないから、思い出すことができない」
ということであれば、分かるのだが、実際に、
「記憶を失う」
ということを、
「メカニズム」
ということで考えると、そう単純なことではないといえるのではないだろうか?
「記憶」
というののが、
「覚えていることなのか?」
あるいは、
「忘れない」
ということなのか?
ということにもよるというものだ。
人の中には、
「人間の顔を覚えられない」
という人も結構いる。
「一緒に1時間以上もいて、覚えているはずなのに、数時間も経てば、覚えていない」
という感覚である。
「覚えていない」
ということで考えると、想像もつかない発想なのかも知れないが、
「忘れてしまった」
ということであれば、一つの仮説を思い浮かべることができるというものだ。
というのは、
「他の人の顔を見ることで、前に覚えたはずの人の記憶が上書きされてしまい、覚えているかも知れないが、新しい記憶で掻き消されてしまった」
ということになるのであった。
「覚えているはずなのに、なぜか覚えていない」
というのは、
「新たな記憶で上書きされる」
と考えると、それは、
「忘れてしまった」
つまりは、
「忘却の彼方に、放り投げられてしまった」
という感覚に近いのかも知れない。
だとすれば、
「覚えられない」
ということではなく、
「忘れ去ってしまった」
ということになり、
「覚えていない」
ということと、
「忘れ去ってしまった」
ということは、お互いに、こちらも、
「決して交わることのない平行線」
ということになるのだ。
「小説と脚本」
という考え方でもそうであるが、
「交わることのない平行線」
という考え方は、
「何か二つのことが存在すると、それは、必ず最初に考えることであって、その時点で、解決することになるのかも知れない」
というものではないだろうか?
さらに記憶喪失というと、交通事故のような、
「外的な要因」
からではなく、精神的なショックから起こることもあるというではないか、
しかも、その可能性が高いことは、なかなか思い出せないということが、実際に、
「外的なショックによるもの」
という時と、症状が似ているということからも、分かりにくいということで、
「厄介なことだ」
といえるのではないだろうか。
というのも、
「心的外傷後ストレス障害」
という、いわゆる、
「PTSD」
と呼ばれるものがそうであり、
「戦争、災害、事故、犯罪、虐待」
などというものによって受けた、
「心の傷」
が、あとになって出てくるというようなものをいうのである。
今の時代であれば、日本に限っていえば、
「戦争」
というものは、憲法によって、禁止されていることで、ほとんどないといえるだろう。
しかし、災害、犯罪というのは、昔から消えることもなく、半永久的に続くものとして、これも、
「交わることのない平行線のごとく、消えることなく続いているものだ」
といってもいいだろう。
例えば、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョシカ人形」
と呼ばれるものも、その発想に近いものだといえるのではないだろうか?
「合わせ鏡」
というのは、
「自分の前後、あるいは、左右に鏡を置いて、そこに映っている自分を見ていると、その先には、もう片方の鏡があり、そこには、もう一人の自分が写っている」
という仕掛けである。
つまり、
「半永久的に伸びていくもので、理論的には永遠に続くものだ」
ということである。
しかし、人間には、見える範囲に限界というものがあり、
「無限ということはありえないので、永久ということもありえない」
といえる。
「形あるものは、必ず壊れる」
という考え方で、昔の書物である、
「平家物語」
というものの中に書かれている、
「諸行無常」
という言葉と同意語である。
そういう意味で、合わせ鏡のような、
「理論的には、永遠」
と思われることでも、絶対に最後にはどこかで永遠ではなくなるということになり、それが、
「限りなくゼロに近い」
というものになるということである。
同じ考えが、
「永遠い交わることのない平行線」
という発想と、考えは同じなのだろうが、最後には、
「諸行無常」
ということで考えると、
「この二つが、平行線である」
ということは考えられないということが言えるのではないだろうか?
そんな平行線で、
「記憶というものをたどる」
ということになると、その道しるべとして、
「覚えているかどうか?」
あるいは、
「忘れない」
ということの両方から探るということになるだろう。
記憶が定かでないという時、
「覚えているかどうか?」
という時、覚えることに、抵抗感がある場合、つまり、人の顔を覚えているつもりで、実は、
「間違えたらどうしよう?」
という意識が強く、そのために、覚えることを自らが拒否し、それを、
「忘れてしまった」
と思い込むようになったのかも知れない。
「覚えられない」
ということと、
「忘れてしまった」
ということの、どちらが、自分に正当性があるかというと、
「覚えられないことだ」
と思うのだ。
だから、まわりには、
「覚えられない」
といっておきながら、実際の意識としては、
「忘れてしまった」
と思っている。
幸いに、まわりは、
「覚えられない」
ということで納得してくれているのだ。
自分だって、人から、
「私、人の顔が覚えられないんですよ」
と言われたとすれば、一切の疑いを持つこともなく、
「ああ、そうなんですね」
といって、疑いを持つことをしないだろう。
「覚えられないこと」
と、
「忘れてしまうということ」
この二つは、
「加算法」
と
「減算法」
のようなものなのかも知れない。
ただ、普通によくいう、
「加算法」
と
「減算法」
というわけではない。
それぞれに、途中で、必ずすれ違うところがあるはずだ。
だから、本人が気づかなくても、まわりの誰かがどこかで気づくということになるだろう。
それを分かっていながら、見えてこないというのは、やはり、その二つというのが、
「交わることのない平行線」
だといえるからなのではないだろうか?
それを考えると、
「記憶喪失」
というのは、一筋縄でいくものではなく、一人一人違う症状であるため、医者やまわりがいかに、その状態に対処していくかということが問題なのではないかと考えるのであった。
「交通事故による記憶喪失」
というのも、そうである。
パターンは、いくつもあるのである。
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