第36話 桜子の夢と忘れていた記憶
桜子が家に帰り、玄関のドアを静かに閉めた。リビングでは母親がテレビを見ながらくつろいでおり、彼女が入ってきたことに気づくと優しい笑顔を向けた。
「おかえり、桜子。朝迎えに来ていた人は彼氏なの?デートはどうだったの?」母親は、桜子が少し興奮している様子を見て、何か特別なことがあったのだろうと感じた。
桜子はリビングのソファに腰を下ろし、少し考え込んだ後、「あのね、彼は同期で仲良い人、今日は佐伯くんと一緒に昔の夢に出てきた洋館を偶然見つけたの。すごく不思議な感じだったの…」と静かに話し始めた。
母親は驚いた表情を浮かべ、「夢に出てきた洋館?」と不思議そうに尋ねた。
「そう。子供の頃から何度か見ていた夢なんだけど、その洋館が実在してたの。今日行ってみたら、誰も住んでいない空き家になっていて…。だけど、なぜかすごく懐かしい気持ちになったの。何か思い出せそうで思い出せない…そんな感覚だった。」
その言葉を聞いた母親は、しばらく考え込むように黙っていたが、ふと思い出したかのようにゆっくり話し始めた。
「それって…もしかして、駅の北側をあがったところ?。実はね、桜子がまだ小さい頃、私たち一時的にその辺りに住んでいたのよ。まだ桜子が小学校に上がる前くらいの話だけどね。」
桜子は驚き、母親に向き直った。「え?私たち、あの辺りに住んでいたの?全然覚えていない…。」
「そうよ。あの頃、私たちが住んでいた家の近くには小さな公園があって、桜子はその公園でよく遊んでいたの。仲良くしていた男の子がいてね、いつも一緒に遊んでいたみたい。だけど、ほかにも遊んでいた友だちが急にいなくなったって大泣きした後に、私たちも引っ越すことになったの、一緒に遊んでいた男の子とも会えなくなってしまったから大泣きしていたのよ…」
母親の話を聞きながら、桜子は胸の中に湧き上がる何かを感じた。「…全然覚えていないけど、そういうことがあったんだ。」
「そうなのよ。引っ越した後も、しばらくその友達に会えなくなったことを寂しがっていたわ。あの時は桜子があんなに泣くなんて思わなかったから、私もびっくりしたのを覚えているの。」
桜子は、思い出せない記憶が母親の言葉と共に、ぼんやりと心の中で形作られていくように感じた。「その子たちのこと、夢の中で見ていたのかもしれない…。ずっと謎だったのに、少しずつ繋がってきた感じがする。」
「そうかもしれないわね。昔の記憶って、意外と忘れてしまうものだけど、心のどこかには残っているのかもしれないわ。」母親は優しく微笑みながら、桜子を見つめた。
桜子は少し考え込んだあと、「うん、そうかもしれない…。何か、まだわからないけど、少しずつ何かが明らかになっていく気がする。」と静かに答えた。
その後、桜子は自室に戻り、今日の出来事や母親から聞いた話を思い返しながら、ベッドに横たわった。やがて眠りに落ち、再び夢の中であの洋館に足を踏み入れることとなった。
桜子が再び夢の中で洋館に足を踏み入れると、これまでとは少し違う感覚が広がっていた。廊下の先から、前よりも鮮明な音楽が流れてくる。それは「愛の挨拶」。しかし、いつものようにぎこちなく、習いたてのピアノの音も一緒に聞こえていた。桜子は、まるでその音に導かれるかのように、自然と足を進めた。
夢の中の洋館は前回よりもはっきりしていた。長い廊下を歩きながら、桜子の視線はその先の部屋に向かう。ドアが少しだけ開いており、中から誰かの気配を感じた。彼女はそっとドアを押し開けた。
そこには若い男性が立っていた。背が高く、穏やかな表情でバイオリンを構えている。彼の姿はまるで現実のように鮮明だった。その男性は、今までシルエットしか見えなかった人物だった。桜子は、彼の顔をじっと見つめると、胸の奥で何かが強く揺れた。
「小鳥遊さん…?」桜子は呟いた。
そう、夢の中の男性は、若い時の和樹だった。彼はバイオリンを静かに奏でながら、桜子の方に微笑みかける。そして、和樹の隣には小さな女の子が座っていた。その女の子はピアノの鍵盤に小さな手を置き、一生懸命に「愛の挨拶」を弾いている。ぎこちないが、楽しそうに演奏する姿が印象的だった。
「幼い時の私…?さーちゃんは私なのかも」桜子は女の子を見つめると、懐かしさが胸にこみ上げてきた。
そうだった。夢の中で見ていた子供たちは、桜子自身と、かつて彼女が「たーくん」と呼んでいた男の子だった。二人はこの洋館で和樹と一緒に遊んでいたことが、今になって夢の中で明らかになった。
和樹は演奏を続けながら、桜子に穏やかな目を向けている。彼の姿は、まるで昔の友人に再会したような懐かしさを感じさせた。
「君たちが遊びに来るたび、僕はいつも音楽を聴かせてあげたよね」和樹が静かに語りかける。
桜子はその言葉に胸がいっぱいになり、過去の記憶が少しずつ蘇ってくるのを感じた。彼女は幼い頃、和樹の演奏をこの洋館で聞き、たーくんと一緒に遊んでいたのだ。何も心配せず、ただ音楽と楽しさに包まれていたあの時間。
「ずっと忘れていた…でも、今はっきり思い出したわ。」桜子は涙が浮かびそうになるのを抑えながら言った。
和樹は優しく微笑み、「君たちがいた頃のことは、僕も忘れられないよ。でも、急に引っ越すことになって…君たちにちゃんとお別れもできなくて、本当に後悔していたんだ」と語った。
夢の中で、過去の記憶が完全に繋がった瞬間だった。桜子は和樹に対して、そして自分の中にあった失われた時間に対して、深い感謝と懐かしさを感じた。
そして、夢は静かにフェードアウトし、桜子は現実へと戻ってきた。
目が覚めた桜子は、夢の余韻を引きずったまま、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。夢の中での出来事は、これまでの記憶と繋がり、まるで断片が一つに集まって形を成したかのようだった。
「たーくん…小鳥遊さん…あの洋館で…」
自分が幼い頃に一緒に遊んでいた場所、そして和樹のこと。それは単なる夢ではなく、実際に存在していた過去の一部だった。あの洋館は、彼女とたーくんが遊び、和樹が音楽を奏でていた場所だったのだ。引っ越しで突然別れてしまったこと、そして何も知らされずに会えなくなった寂しさが、長い間心の中で閉じ込められていた。
桜子はその思いに胸が締めつけられるのを感じたが、同時に、何かが解放されたような感覚もあった。
朝食の準備をしていた母親の声が下から聞こえてきたが、桜子はしばらく動かず、夢の中で見た光景を思い返していた。あの洋館での楽しい時間や、別れの悲しみがまざまざと蘇ってくる。それに加えて、佐伯や和樹との関係もまた、何か大きな意味を持っている気がしてならなかった。
「このままにしておくわけにはいかない…」
桜子は自分に言い聞かせるように呟いた。彼女はすぐにベッドから起き上がり、窓を開けた。冷たい朝の空気が部屋に流れ込み、彼女の頭をすっきりとさせてくれた。今こそ、自分の気持ちと過去の記憶に向き合い、そして佐伯や和樹と真剣に話し合う時が来たと感じていた。
その日の午後、佐伯からメッセージが届いた。
「この前の話だけど、改めて洋館に行ってみないか?管理会社に連絡しておいたよ。」
桜子はそのメッセージを見て少し驚いた。佐伯もまた、あの洋館に何かを感じていたのだろう。彼の提案に、桜子は迷いなく同意した。
「行きましょう。私も、もう一度あの場所を見たい。」
そのメッセージを送り返したあと、桜子は深呼吸をし、心の準備を整えた。彼女がこれから向き合うことは、自分自身の過去だけでなく、佐伯との未来、そして和樹との再会に関わる大きな岐路だった。
週末、佐伯が彼女を迎えに来るまでの間、桜子は再び夢を見るのだろうかと少し不安になった。しかし、それでも前に進む決意は変わらなかった。
そして、運命の歯車が少しずつ動き出しているのを、彼女は感じていた。
再び洋館に足を踏み入れることで、何かが解決するのかもしれない。あるいは、まだ気づいていない何かが彼らを待ち受けているのかもしれない。そんな思いを胸に、桜子はこれから起こることに向き合う準備をしていた。
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