第31話 交差点
和樹が楽屋を出ると、楽屋前にはオーケストラの友人たちが何人か集まっていた。彼らは和樹に感想の言葉をかけ、成功した演奏会の余韻に浸っているようだった。和樹は微笑みながら一人一人と軽く会話を交わしていたが、その中に、ふと目に留まる人物がいた。
「あの子は…?」彼は心の中で名前を呟いたが、前回演奏の見送りで声をかけた子だ。しかしそれ以上に彼女の顔を見ると、なぜか懐かしさが湧き上がってきた。まるで昔から知っているかのような感覚に包まれ、和樹はその感覚に少し戸惑っていた。
桜子もまた、和樹の視線に気づくと、何かしら不思議な感覚に襲われていた。彼女も和樹に、どこか懐かしいものを感じていた。心の奥底で、彼と繋がっているような、何か過去の記憶が呼び覚まされるような感覚だ。
「小鳥遊さん、素晴らしい演奏でした。特に、最後のソロの部分…とても感動しました。」桜子は一歩前に出て、少し緊張した様子で声をかけた。
和樹は驚いたが、その驚きを隠すように微笑み返した。「ありがとう。君も楽しんでくれたなら、本当に嬉しいよ。」彼の声は柔らかく、どこか親しみやすいものだった。
二人の間には、一瞬の沈黙が流れたが、それは不快なものではなく、むしろ温かさを感じる沈黙だった。まるで、言葉を交わす前に、お互いを知っているかのような不思議な感覚が二人を包んでいた。
桜子は、その沈黙の中で、さらに不思議な感覚に襲われた。彼と話すのはこれが初めてのはずなのに、まるで昔の友人に再会したかのような懐かしさが心に広がる。彼女はそれを言葉にすることができず、ただその感覚に戸惑っていた。
「小鳥遊さん、私は以前からずっと…」桜子がそう言いかけた瞬間、和樹もまた、同じ感覚を抱いていることに気づいた。
「私も同じことを感じてるよ。君とこうして話すのは二回目のはずなのに、なんだか昔から知っているような気がする。不思議なものだね…」和樹はそう言いながら、彼女に親しみのある微笑みを浮かべた。
「そうですよね…私も、なぜか二回目じゃない気がして。」桜子は和樹の言葉に同意しながら、その感覚を抱えたまま話を続けた。「本当に素敵な演奏でした。特に、あなたの音色には何か特別なものを感じました。」
和樹は照れたように少し笑いながら、「ありがとう。でも、音楽って不思議だよね。私自身も、演奏している時に感じる何かがあるんだ。それが君にも伝わったなら嬉しいよ。」と応じた。
二人はしばらく音楽についての話を続けたが、その会話の中で、互いにどこか深い繋がりを感じていた。まるで、音楽を通じてだけではない、もっと根源的な部分で心が通じ合っているような感覚だ。
桜子と和樹が和やかに会話をしているその瞬間、佐伯が楽屋の前に現れた。彼は少し遠くから二人の姿を見つけ、躊躇しながらもゆっくりと歩み寄った。桜子と和樹の間に親しげな雰囲気が漂っているのを感じたが、それがなんとも言えない違和感を彼に与えていた。佐伯はそのまま立ち去ろうかとも思ったが、心のどこかでそれを許さなかった。
「峰木、ここにいたんだね」と声をかけながら、彼は二人に近づいた。
桜子が驚いたように振り返り、「あ、佐伯くん!」と嬉しそうに声を上げた。「ちょうど今、小鳥遊さんと演奏の話をしていたんです。素晴らしい演奏でしたよね。」
佐伯は微笑みながら、和樹にも軽く会釈をした。「小鳥遊さん、今日は本当に素晴らしい演奏でした。僕も、感動しました。」
和樹も微笑み返し、「ありがとう。お二人とも楽しんでくれてよかったよ。演奏する側としては、それが一番の喜びだからね。」
佐伯は、そのまま和樹と桜子の間に立ち、どこか落ち着かない様子で言葉を探していたが、結局、少し気まずい沈黙が流れた。和樹はその空気を感じ取り、少しだけ桜子と佐伯の様子を観察するように視線を交わしていた。
「佐伯くんの演奏すごくよかった。」桜子が突然その沈黙を破るように尋ねた話し出した。
佐伯は少し驚いた表情を浮かべながら、「ああ、そうだね。今日は久しぶりの演奏かいだった。まだまだ練習が必要だけど、演奏はやっぱり楽しいよ。」と答えた。
和樹が興味深そうに頷き、「トランペットは、それは素晴らしかった。また一緒に演奏する機会があったらいいな」と言うと、佐伯は少し緊張した笑みを浮かべながらも「ぜひ、一緒に演奏できたら光栄です」と返した。
桜子は二人のやり取りを見ながら、どこか安心した様子で微笑んでいたが、心の中で小さな違和感を抱いていた。それは、佐伯と和樹の間に漂う微妙な空気感だった。彼女はその違和感を言葉にすることはできなかったが、何かが変わろうとしている瞬間を感じ取っていた。
和樹がふと時計を見て、「そろそろ僕は次の予定があるから、失礼するよ。また、機会があればぜひお会いしましょう」と言って軽く頭を下げた。
「ありがとうございました。小鳥遊さんの演奏、また聴きに行きますね」と桜子が名残惜しそうに言うと、和樹は優しい笑顔で「ありがとう峰木さんも佐伯くんも、いつでも歓迎だよ」と言い残して、その場を後にした。
彼が立ち去った後、佐伯と桜子はしばらく言葉を交わさず、ただその場に立ち尽くしていた。桜子がふと佐伯に向き直り、少し困ったように笑いながら「なんだか不思議な人ですね…」と呟いた。
二人はその後も少しだけ会話を交わしながら、心の奥底にある何かを感じ取っていたが、それが何であるのかを言葉にすることはできなかった。
その後、桜子と佐伯は楽屋の前を離れ、外の冷たい夜風が頬に当たるホールの出口へと向かって歩き出した。アクト小ホールのロビーはすでに人が少なくなり、演奏会の余韻だけが静かに残っていた。佐伯は桜子と肩を並べて歩きながら、まだ和樹とのやり取りが頭から離れなかった。彼の中に浮かんでいたのは、演奏会で感じた興奮や達成感、そして桜子と和樹が交わした会話の中に潜む、微妙な違和感だった。
桜子が少し前を歩きながら、ふと立ち止まり、佐伯に向かって振り返った。「ねえ、佐伯くん…今日は本当に素晴らしい演奏だったね。トランペットの音色、久しぶりに聞いたけど、すごく感動したよ。」
佐伯は一瞬驚いたような顔をしてから、控えめに微笑んだ。「ありがとう。正直、かなり緊張してたけど、そう言ってもらえると嬉しいよ。昔に比べてだいぶブランクがあったから、ちゃんと吹けるか心配だったんだ。」
桜子は優しく笑って、「そんな風には全然見えなかったよ。すごく堂々としていたし、音が力強くて安心感があった。これからも続けていくのかな?」と尋ねた。
佐伯は一瞬考え込むように空を見上げた。「どうだろうね…まだ自分でも答えが出てないんだ。でも、今日の演奏会を終えて感じたのは、音楽が本当に好きなんだってこと。もしかしたら、これからも続けていくかもしれない。」
桜子はその言葉に頷きながら、静かに歩み寄っていった。「音楽って、やっぱり素晴らしいよね。私も最近、ピアノをまた弾き始めたの。ずっと弾いてなかったけど、久しぶりに触れると昔の記憶がよみがえってくる感じがするの。」
「峰木もピアノを?」佐伯は少し驚いた様子で彼女に問いかけた。「それ、すごくいいね。昔の自分と向き合う時間って、何か特別な意味がある気がするよ。」
桜子はその言葉に微笑みながら、「そうだね。ピアノを弾き始めてから、昔のことがたくさん浮かんでくるの。それが夢の中で、さらにいろんなことがはっきり見えるようになってきた。実はね…最近、夢が前より鮮明になってきたんだ。」と打ち明けた。
佐伯はその話に耳を傾けながら、彼自身も最近見ていた不思議な夢を思い出していた。「夢…僕も最近、似たような夢を見ることがあるんだ。なんだかお互い、何かに導かれているような感じだね。」
桜子はふと歩みを止め、佐伯に向かって真剣な表情で話し始めた。
「佐伯くん、私ね、小鳥遊さんのこと…ちょっと不思議に思ってるの。今日の演奏会でお話しした時、すごく親しみを感じたの。まるで昔から知ってるみたいな…前に演奏会に行ったときにちょっとだけ会ったはずなのに、懐かしさがあるというか。」
佐伯はその言葉を聞き、驚いたように桜子を見つめた。そして、静かに頷きながら自分の感情を整理していた。
「実は、僕も同じように感じてたんだ。最初に小鳥遊さんがオーケストラの練習に来た時から、どこか知ってるような感覚があったんだ。あれはただの偶然じゃなくて、もっと深い繋がりがあるんじゃないかって思えてさ…」
桜子は佐伯の言葉に驚いた表情を浮かべ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。「佐伯くんも同じことを感じてたの…?」
「うん。毎回、小鳥遊さんと顔を合わせるたびに、何かしら既視感があるというか…初めて会ったはずなのに、すでに何度も一緒に時間を過ごしてきたみたいな、不思議な感覚がしてたんだ。」
桜子はその話に深く共感し、ますます混乱していた。和樹に対して感じているこの不可思議な感覚、そして佐伯も同じように感じているという事実に、何か大きな運命的な力が動いているのではないかと考えずにはいられなかった。
「一体どうしてなんだろう…?」桜子は呟くように言った。
佐伯は軽くため息をつきながら、「もしかしたら、これは偶然じゃなくて、僕たちに何かを伝えようとしているのかもしれないね。小鳥遊さんと僕らに、何か共通する過去やつながりがあるのかも。」と考えを口にした。
桜子はしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。「そうかもしれない。今はまだ答えが見つからないけど、何か重要なことが隠れている気がする。」
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