第30話 演奏会
桜子は、佐伯から同期の仲間たちと一緒に招待され、アクト小ホールに足を運んでいた。浜松市にあるこのホールは、音楽の街として有名な浜松を象徴する施設であり、音響の素晴らしさで知られている。約1000名を収容できるこのホールには、演奏者たちにとって理想的な響きが広がる。桜子は、同期の友人たちと一緒に会場に入ると、厳かな雰囲気に少し緊張しながらも期待感を覚えていた。
佐伯にとって、このステージに立つのは何年ぶりのことだった。大学進学とともにトランペットをやめてしまっていた彼にとって、この日の演奏は、過去の自分と再び向き合う大きな挑戦だった。いくら練習を重ねたとはいえ、久々の本番での演奏には自然と緊張が伴っていた。控室でトランペットを手にし、ふとその感触を確かめながら、佐伯は自分に言い聞かせた。「大丈夫だ、これまで積み重ねてきたものがある。」
ホールに響く観客のざわめきがだんだんと静まる中、桜子は席に座り、佐伯がステージに現れる瞬間を心待ちにしていた。彼女の心は複雑だった。同期として、友人として彼を応援している気持ちと、最近の出来事や夢が繰り返し頭に浮かんで、心の奥底で何かが動いているのを感じていた。
「佐伯くん、ちゃんと演奏できるかしら…」桜子はふと呟くように、心の中で佐伯を応援した。隣に座る同期の仲間たちも、彼の久々のステージに期待を寄せていたが、それぞれが少し不安げな表情を浮かべていた。佐伯が楽器を持つ姿を久しぶりに見る彼らも、どうなるのか少し予測がつかないようだった。
ついに、照明が暗くなり、ホール全体が静寂に包まれた。佐伯を含むオーケストラの団員たちがステージに並び、彼の緊張が高まる。トランペットを握りしめ、深呼吸をして気持ちを整えた佐伯は、指揮者の一振りに合わせて唇を楽器に添えた。
会場全体に響き渡る最初の音。その瞬間、桜子は自分の胸が少し高鳴るのを感じた。音楽がホールいっぱいに広がり、佐伯の演奏が少しずつリズムに乗り、心地よいハーモニーが生まれていく。彼の演奏は、緊張を抱えながらも徐々に自信を取り戻していくかのように響き渡った。音響にこだわるこのホールが、佐伯のトランペットの音色を優しく包み込み、観客に感動を与えていく。
桜子はその音色に引き込まれ、佐伯がどんな思いでこの舞台に立っているのかを感じ取ろうとしていた。「彼は今、何を感じているんだろう?」と心の中で思いつつ、彼女自身も音楽の流れに身を任せていた。
演奏が進むにつれ、佐伯の緊張がほぐれ、彼の演奏に力強さが増していった。ホール全体が彼の音色に包まれ、桜子も同期の仲間たちもその音楽に心を奪われていた。
演奏が終わると、会場全体から大きな拍手が響き渡り、佐伯は舞台上で深く一礼した。桜子はその姿を見つめながら、彼がやり遂げたことに心からの敬意を感じた。「やっぱり、佐伯くんはすごい…」と、彼の背中を目で追いながら、胸が熱くなるのを感じていた。
佐伯が所属する民間オーケストラの演奏会では、数曲が披露され、その一つ一つが観客に大きな感動を与えていた。ステージの雰囲気は落ち着きながらも、団員たちの集中した表情からは、演奏に対する真剣な姿勢が感じられた。
1曲目: ベートーヴェン 交響曲第7番 第1楽章
演奏会は、ベートーヴェンの「交響曲第7番」の第1楽章から始まった。この曲は、力強さと躍動感が特徴で、オーケストラ全体が一体となって旋律を奏でる。佐伯のトランペットは、重厚なサウンドに包まれ、曲のダイナミズムを支える役割を果たしていた。彼の音は少し緊張していたものの、しっかりとした技術で安定感をもたらしていた。
2曲目: ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」第2楽章
続いて演奏されたのは、ドヴォルザークの「交響曲第9番『新世界より』」第2楽章。美しい旋律が印象的で、オーケストラ全体が繊細に音を紡いでいく。この曲では、佐伯は少し控えめな役割を果たしていたが、その分、全体の調和を重視して演奏に参加していた。彼のトランペットの音が、楽章の要所で柔らかく響き、会場全体に深い静寂と感動が広がった。
演奏が終わるたびに、拍手喝采がホール全体に広がり、佐伯は達成感と共に深く息をついた。観客席から桜子や同期たちの笑顔が見え、彼はステージ上で軽く頷き返した。
演奏会が進み、後半に差し掛かると、会場内はさらに緊張感が漂っていた。佐伯も再び楽器を手に取り、次の演奏に向けて心の準備をしていた。そのとき、司会者の声が会場に響いた。
「ここで特別ゲストの紹介です。本日の演奏会には、国内外で活躍されているバイオリニスト、小鳥遊和樹さんをお迎えしております。どうぞ大きな拍手でお迎えください!」
佐伯はその瞬間、これから一緒に演奏することに興奮と緊張を感じていた。ずっと指導から練習まで一緒にやってきた和樹と同じステージで演奏できるからだ。佐伯の心臓が高鳴り、手に持ったトランペットがいつもより重く感じられる。
一方、観客席にいた桜子も驚きを隠せなかった。小鳥遊和樹の名前が紹介された瞬間、彼女は目を大きく見開き、思わず隣に座っていた同期に耳打ちした。「まさか…あの和樹さんがここに!?」
桜子は和樹の演奏を聞きに行ったばかりであった、その卓越した技術に感銘を受けていた。彼女にとって、和樹の演奏は特別なものであり、再び彼のバイオリンをこの場で聴けるとは思っていなかったのだ。
和樹がステージに登場し、会場は一瞬静まり返った。その存在感は圧倒的で、観客全員が息をのむように見つめていた。和樹は軽く一礼し、オーケストラメンバーの方へ向き直る。彼の姿を見つめる佐伯は、再び心を引き締めた。
「今後は彼と一緒のステージで演奏できる機会なんて、滅多にない。ここで自分の力を出し切らなければ…」佐伯は心の中で決意を固めた。
和樹がバイオリンを持ち、指揮者の合図と共に音楽が始まった。和樹の奏でるバイオリンの音色は、まるで天から降り注ぐかのように澄んでおり、オーケストラ全体を引っ張っていく。その美しい音楽に、佐伯も気持ちを高めながら、トランペットを吹いた。
桜子は、その一瞬一瞬を見逃すまいと、和樹とオーケストラの共演に見入っていた。和樹のバイオリンはまさに彼女が期待していた通り、いや、それ以上に感動的だった。ステージ上で和樹とオーケストラが一体となって織りなす音楽は、彼女の胸を震わせた。
佐伯は一心不乱に演奏に集中しながらも、和樹のバイオリンに引っ張られるようにして、自分の音がこれまでにない力強さを持って響いていることに気づいた。「これが一流の力なのか…」彼はそう感じながら、今できる最高の演奏を続けた。
そして、演奏が終わり、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。佐伯は深く息をつき、全身の緊張が一気に解けるのを感じた。一緒に演奏した和樹の存在感に圧倒されつつも、彼はその瞬間、自分の中で新たな一歩を踏み出したことを確信した。
演奏会が無事に終了し、楽屋に戻った佐伯は、緊張から解放されたように大きく息をつき、トランペットをそっとケースにしまった。楽器を丁寧に拭きながら、他の団員たちの賑やかな声が次第に聞こえてくる。
「佐伯、お疲れ!初ステージどうだった?」隣に座るホルン奏者の田中が笑顔で肩を叩いた。
佐伯は少し照れたように微笑みながら、「いやあ、思ってたより緊張しましたね。でも、楽しかったです」と返した。
「何言ってるんだよ、すごく良かったじゃないか!最初のベートーヴェンも、最後のホルストも、トランペットのソロ部分がバッチリ決まってたし、堂々としてたよ!」田中が声を弾ませる。
「本当か?それなら良かったけど…」佐伯は謙虚に答えながらも、少し安心した表情を見せた。
そのやりとりを見て、指揮者の松田がニヤリとしながら近づいてきた。「佐伯くん、緊張してたように見えたけど、音はしっかりしてたぞ。特にドヴォルザークでは、君のトランペットがちゃんと曲を引き締めてくれた。」
「ありがとうございます。でも、もっと精進しないとですね。」佐伯は頭を下げながらも、松田の言葉に少し自信を持てたようだ。
すると、今度はコントラバスを持った中年団員の鈴木が「いやー、若いっていいねえ。俺なんてこの歳で舞台に上がるたびに腰が痛くなるよ。お前みたいにフレッシュな力が入ってくれると、俺たちも刺激になるってもんだ」と冗談交じりに言いながら近づいてきた。
「いやいや、鈴木さんのコントラバスがあってこそのステージですよ。僕も負けられないなと思いながら吹いてました」と佐伯は笑顔で返す。
「おっ、口がうまいなあ、佐伯くんは!」鈴木は大笑いしながら、楽屋に戻る他の団員たちに手を振って見せた。
楽屋の空気は、演奏後の達成感と安堵感が入り混じり、団員たちが和やかに会話を交わしていた。佐伯はその中で、一緒に音楽を作り上げた団員たちとの連帯感を強く感じていた。
しばらくして、楽屋のドアが軽く開き、そこに和樹が入ってきた。和樹は汗一つかかず、落ち着いた表情で楽屋に戻ってきたが、その瞳にはまだ演奏の余韻が残っているようだった。彼は静かに一礼し、周囲のオーケストラメンバーに軽く頷いてみせた。
「お疲れ様でした」と、佐伯が少し緊張した声で挨拶すると、和樹は柔らかく微笑んで「ありがとう。皆さんのおかげで素晴らしい演奏ができました」と答えた。その声には、自然な優しさとプロとしての貫禄が感じられた。
和樹は周囲のメンバーに気さくに話しかけていたが、佐伯の方へ視線を向けると、何か感じたのか近づいてきた。彼は佐伯を見つめながら、穏やかな声で話し始めた。
「佐伯くん、良い音を出してたね。トランペットの音がしっかり響いていて、全体のバランスをよく支えてくれていたよ。」
佐伯は一瞬驚いたが、すぐに「ありがとうございます」と少し照れくさそうに答えた。自分が和樹に褒められるなんて思ってもみなかったからだ。
他の団員たちも、和樹との会話に加わろうとして、楽屋は一気に活気づいた。和樹は一人ひとりに親しげに話しかけ、自然と和やかな雰囲気を作り出していた。そんな和樹の姿を見て、佐伯は彼がただの演奏者ではなく、人々を引きつける魅力を持った人物であることを改めて実感した。
「また、君と一緒に演奏できる機会があるといいね。」和樹の言葉には、自然な期待が込められていた。
佐伯は少し驚いたが、すぐに笑顔で頷き「はい、ぜひお願いします」と力強く答えた。そして、和樹はそのまま団員たちに別れを告げ、楽屋を後にした。佐伯はその背中を見送りながら、次に和樹と共演する日のことを心待ちにする自分を感じていた。
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