第27話 臨時講師
佐伯が所属する社会人オーケストラの練習場に、臨時講師として小鳥遊和樹がやってくることが決まったのは、ある日突然のことだった。オーケストラの指導者から発表があった瞬間、団員たちの間に驚きと期待が広がった。和樹は全国的に知られるバイオリニストであり、指導者としても高く評価されている。その名が発表されるやいなや、会場にはざわめきが起こった。
佐伯も例外ではなかった。彼は和樹の名前を聞いた瞬間、胸が高鳴り、これからの練習が特別なものになることを感じ取った。自分のトランペットが、和樹のような一流の音楽家と共演できる機会が訪れるなんて、想像もしていなかったからだ。
和樹が指導に来ると決まった日のこと、団員たちの間には緊張と期待が入り混じった雰囲気が漂っていた。誰もが、全国的に有名な音楽家との練習に向けて、気持ちを引き締めていた。
練習前の休憩時間、佐伯はいつものようにトランペットケースを開け、楽器の準備をしていた。その時、隣のチェロ奏者である高橋が、声をかけてきた。
「佐伯くん、小鳥遊さんの指導、楽しみだよな。俺たちみたいなアマチュアが直接指導してもらえるなんて、なかなかないチャンスだよ。」
高橋の表情には期待感と少しの緊張が見て取れた。彼もまた、和樹の到来に対して特別な思いを抱いているのだろう。佐伯は微笑んで頷き返した。
「そうだね、これだけの機会、滅多にないもんね。僕もいつも以上に緊張してるよ。」
佐伯がそう答えると、高橋は苦笑いしながら「でも、トランペットはいつも堂々としてるから大丈夫だろう?」と肩を軽く叩いて励ました。佐伯も少し照れたように笑い返したが、心の中では「いつも」と言われたことが引っかかっていた。
「いつも」自信を持って吹けているだろうか。彼は自分の演奏が時折迷いを含んでいることを感じていた。その不安が、和樹との練習でどうなるのか期待とともに不安も募っていた。
練習当日、和樹が現れた瞬間、団員たちの視線が一斉に彼に注がれた。和樹は穏やかな表情で、皆に軽く挨拶をしながら、ステージに上がった。彼の存在感は、言葉では言い表せないほどの威厳と落ち着きを放っていた。
「今日は皆さんと音楽を共有できることを楽しみにしています。リラックスして、楽しんでいきましょう」と、和樹は柔らかい口調で語りかけた。
練習が始まると、和樹は細かい部分まで気を配りながら、各パートに的確な指導をしていった。佐伯がトランペットを吹く時、和樹はじっと彼を見つめ、演奏の後に穏やかに「音の出し方にもっと自信を持ってください。あなたの音色には力強さと優しさが共存しています。それを引き出せば、もっと素晴らしい演奏になりますよ」とアドバイスをくれた。
和樹が佐伯のパートに注目し、トランペットの演奏が始まった時、佐伯は全身に視線を感じていた。和樹はじっと佐伯の演奏を聴き、演奏が終わると、佐伯の方に歩み寄り、優しく笑った。
「音は素晴らしい。ただ、自分の音にもっと信じてみてほしい。遠慮なく音を出してみてください。自分の音が皆にどう響くか、想像してみてください。」
その言葉を聞いた瞬間、佐伯は驚きとともに自分の内面を見つめ直す感覚があった。和樹は、彼が抱えていた自信の揺らぎを見抜いていたのだ。佐伯は無意識のうちに、自分の音を抑え込んでいたことに気づかされた。
「ありがとうございます。次はもっと思い切ってやってみます。」
和樹に感謝の意を伝えた佐伯の目には、決意の光が宿っていた。彼は、自分の音を信じていいのだと、和樹の言葉から確信を得た。
休憩時間、他の団員たちも佐伯に近づいてきた。「佐伯くん、和樹さんから直々にアドバイスをもらうなんてすごいな。演奏、すごく良かったよ!」と、パートリーダーのフルート奏者が笑顔で言った。
練習が終わった後、佐伯は和樹に直接挨拶をする機会を得た。「今日はありがとうございました。小鳥遊さんの指導のおかげで、自分の演奏が少しずつ変わっていくのを感じました」と、感謝の気持ちを伝えると、和樹は微笑んで「君には素晴らしい感覚があるよ。大切なのは、自分を信じること。音楽は心からのものだからね」と優しく言った。
この出会いは、佐伯にとって特別な経験となり、彼の音楽への情熱をさらに高めることになった。
佐伯は和樹の指導を受けた後、オーケストラの練習場を後にしながら、心の中で様々な感情が渦巻いているのを感じていた。自分の演奏に対する自信が少しずつ戻ってきている一方で、和樹からの温かいアドバイスが彼の心に深く響いていた。帰り道、佐伯は自分の進むべき道について考えながら、次の練習に向けての決意を新たにしていた。
翌週の土曜日、佐伯は仕事を終えてからオーケストラの練習に向かった。アパートから車まで30分ほど走った距離にある練習場には、すでに数人の団員が集まっていた。入口をくぐると、和樹が中心に立ち、指揮をとっている。
練習が終わると、団員たちは楽器を片付けながら、自然と会話が始まった。佐伯は和樹に感謝の言葉を伝えようと考え、声をかけた。
「小鳥遊さん、本当にありがとうございました。おかげで自分の演奏に自信が持てるようになりました。」
和樹は穏やかに微笑み、「君の音色には本当に力がある。これからもその情熱を大切にしてほしい」と答えた。佐伯は和樹の言葉に深く頷き、その真摯な態度に心が温まった。
その時、ヴァイオリニストの山上が近づいてきた。彼女はいつも明るく元気な性格で、佐伯に向かって笑顔を振りまいていた。
「佐伯さん、今日も素晴らしい演奏だったよ!小鳥遊さんの指導が効いてるね。」高橋は目を輝かせながら言った。
佐伯は少し照れながらも、「ありがとうございます。山上さんのおかげで、僕も楽しく練習できています。」と返した。山上は嬉しそうに頷き、「一緒に頑張ろうね!」と励ました。その言葉に佐伯は自然と笑顔がこぼれた。
その後、佐伯はフルート奏者の田中とクラリネット奏者の宮本と並んでベンチに座った。彼らは和樹との練習を終えた後も、音楽について語り合うのが習慣となっていた。
「佐伯さん、最近どうですか?小鳥遊さんのアドバイスを受けて、演奏が変わってきた気がしますか?」田中が興味津々に尋ねた。
佐伯は少し考え込みながら答えた。「ええ、確かに自分の演奏に対する意識が変わりました。もっと感情を込めて、音楽と向き合うようにしているんです。」
宮本も頷きながら、「それは素晴らしいことだね。音楽は心からの表現だから、感情を込めることが大事だよ。」と共感を示した。
佐伯は二人の言葉に励まされ、「皆さんも、ぜひ自分の感情を大切にして演奏してください。そうすれば、もっと素敵な音楽が生まれると思います。」と提案した。田中と宮本もそれぞれ微笑みながら、「そうだね、一緒に頑張ろう!」と答えた。
練習が進むにつれて、団員たちの間には自然と一体感が生まれていった。佐伯はトランペットを通じて、自分自身と仲間たちとの絆を深めていくことを感じていた。和樹の存在が、その絆をさらに強固なものにしていた。
ある日の練習後、団員たちは近くのカフェに移動し、軽くお茶をしながら雑談を楽しんだ。ソファに座る高橋は、楽しそうに話し始めた。「ねえ、佐伯さん。最近、オーケストラでの練習がとても楽しくなってきたんじゃない?」
佐伯は笑顔で答えた。「そうですね。みんなと一緒に音楽を作り上げるのが本当に楽しいです。小鳥遊さんの指導もあって、自分の成長を感じられる気がします。」
宮本も加わって、「私も同じです。特に佐伯さんのトランペット、小鳥遊さんのアドバイスが効いてるから、聞いていてとても心地いいですよ。」と言った。その言葉に佐伯は少し照れながらも、「ありがとうございます。皆さんのおかげで、音楽がもっと楽しくなっています。」と答えた。
田中は飲み物を一口飲みながら、「これからも、一緒に音楽を楽しんでいきましょう。そうすれば、もっと素晴らしい演奏ができるはずです。」と提案した。
オーケストラでの活動が続く中で、佐伯は音楽が自分自身を見つめ直すきっかけとなっていることに気づいていた。和樹との出会い、仲間たちとの絆、そして桜子との関係が、彼の心に新たな希望をもたらしていた。
ある日の練習後、佐伯は一人静かにトランペットを片付けながら、自分の夢と向き合っていた。「音楽を通じて、自分自身をもっと深く知ることができる。桜子との関係も、この音楽が橋渡しをしてくれるかもしれない。」
その時、団員の一人である木村が佐伯に近づいてきた。「佐伯さん、ちょっと話してもいいですか?」木村は少し緊張した様子で尋ねた。
「もちろん、どうしたんですか?」佐伯は優しく答えた。
木村は少し躊躇いながらも、「実は、佐伯さんの演奏を聴いて、自分ももっと音楽に向き合おうと思いました。皆さんがこんなに楽しんで音楽をしているのを見ると、私もやり直したくなったんです。」と打ち明けた。
佐伯は木村の言葉に感動し、「それは嬉しいですね。音楽は心を豊かにしてくれるものですから、一緒に楽しんでいきましょう。」と励ました。木村はその言葉に微笑み、二人はさらに練習に励むことを誓い合った。
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