第24話 桜子のピアノ

佐伯のトランペットの演奏を見た桜子は、胸の奥に久しぶりに熱いものがこみ上げるのを感じていた。彼の一生懸命な姿や、演奏から伝わる情熱に触れ、自分もかつて音楽に夢中だった頃を思い出していた。


桜子は小さい頃、ピアノを習っていたが、いつしか忙しさにかまけて弾かなくなっていた。子どもの頃に一生懸命練習したことや、音楽が自分にとってどれほど大切な時間だったか、その記憶がふと蘇る。佐伯が自分のために音楽と再び向き合ったように、自分ももう一度ピアノに触れてみたいという気持ちが強くなっていた。


帰宅した桜子は、リビングの隅にある昔のアップライトピアノに目を留めた。何年も開けていなかったピアノの蓋をそっと開けてみる。鍵盤は少し黄ばみ、長い間使われていないことを物語っている。


「ずいぶん弾いていなかったな…」


桜子はそう呟きながら、少し緊張した気持ちでピアノの前に座り、静かに鍵盤に指を置いた。かつての滑らかな感覚はないものの、手は自然と馴染んでいく。最初に弾いたのは、子どもの頃によく練習したシンプルな曲だった。指が動かず、最初はぎこちなかったが、次第にリズムが戻ってくる。


彼女は次に、もう少し難しい曲に挑戦した。昔の記憶を辿りながら、ミスタッチを気にせず、音の響きに耳を傾けた。ゆっくりと、けれど確かに、桜子は音楽に再び心を開いていった。


「まだ弾けるんだ…」


ピアノの音色が部屋に広がり、昔とは違う気持ちで音楽を楽しんでいる自分に気づいた。佐伯のトランペットが彼を再び音楽へと導いたように、桜子もピアノを通して新たな感覚を取り戻していた。


演奏が終わると、桜子は静かに微笑んだ。心が少しだけ軽くなった気がする。音楽を通して、彼女は自分自身に向き合い、忘れていた感覚を取り戻す一歩を踏み出したようだった。


「これからも、少しずつ弾いていこうかな…」


桜子はそう心に決め、ピアノの蓋をそっと閉じた。彼女の中で、音楽が再び大切なものとして戻ってきたのだ。


桜子が時間があるときにピアノの前に座るようになると、家の中に少しずつ明るい雰囲気が戻ってきた。彼女が鍵盤に触れるたび、久しぶりに響くピアノの音色が家の中に温かさをもたらした。


桜子がゆっくりと指を動かし、昔よく弾いていた曲の一つを奏で始めると、リビングにいた母親がそっと彼女の後ろに立ち、微笑んだ。


「桜子、ピアノを弾くの久しぶりね。あなたが演奏している姿を見ると、なんだか昔を思い出すわ。」母親は懐かしそうな顔をして、彼女の肩に手を置いた。


桜子は少し照れくさそうに振り返りながら、「そうだね、仕事が忙しくてずっと弾いてなかったけど、やっぱりピアノを弾くと落ち着くんだ」と言った。


その時、弟がリビングから現れ、半ば冗談交じりに「お姉ちゃん、ピアノ弾いてるの久しぶりだな。昔は毎日練習してたもんね。どうしたの、また始める気になったの?」と茶化すように言いながら、ピアノの近くに寄ってきた。


桜子は笑って「ただ、また弾きたくなっただけよ。特に理由はないけど、やっぱり好きだから」と答え、再び演奏を始めた。


母親はソファに腰掛け、穏やかな表情で桜子の演奏に耳を傾けていた。「本当にうれしいわ、桜子がこうしてピアノを弾いてくれるの。あなたが小さい頃、毎日練習していた姿が懐かしいわね。家の中に音楽が戻ってきたみたいで、心が温かくなるわ。」


弟も母親に同調して、「そうそう、桜子が弾いてるとなんか家の雰囲気が変わるよな。いい感じだよ。まさか、今度はコンサートでも開くんじゃないの?」と冗談を言いながら、笑いかけた。


桜子は少し笑いながら、「コンサートは無理だけど、家でくらいなら弾いてもいいよ」と軽く返し、再び曲に集中した。


その柔らかな音楽が家の中に響き渡る中、桜子は演奏しながらふと、自分が家族にとって何か特別なことをしているような気持ちになった。母親と弟が喜んでくれる姿を見ると、自然と心が温かくなり、久しぶりに家族との絆を感じていた。


母親は目を細めながら、「本当にありがとう、桜子。こうしてあなたがピアノを弾いてくれるだけで、私たちも幸せよ。」と言い、桜子の肩を優しく撫でた。


「家族で過ごす時間って、やっぱり大事なんだな」と桜子は心の中でつぶやきながら、ピアノを弾き続けた。


ここ数日は休みがあるとピアノを演奏している。気に入っている曲を演奏し終え、余韻に浸っていると、リビングにいた弟と母親が拍手をしながら嬉しそうに彼女のもとにやってきた。


「お姉ちゃん、すごいじゃん!昔から何度か聴いたけど、やっぱりピアノ上手だね!」弟は興奮気味に言った。彼は以前から姉の演奏が好きで、子供の頃から桜子がピアノを弾いている姿をじっと見つめていた。


「ありがとう、でもまだまだ昔ほどスムーズには弾けてないのよ。久しぶりだから指が動かなくて…」桜子は笑いながら謙遜した。


「それでも、十分素晴らしかったわよ。」母親が優しく微笑みながら桜子の隣に座った。「あなたがピアノを弾いている姿を見てるとあの頃に戻ったみたいで、とても嬉しいわ。」


桜子は少し照れたように頷きながら、「ありがとう、お母さん。でも、昔ほど練習してないし、まだまだだよ。今日の演奏も、いろいろ間違っちゃったし…」と控えめに答えた。


弟は軽く首を振りながら、「いやいや、全然そんなことないって。俺はお姉ちゃんのピアノ、やっぱり好きだな。家が静かになるのもいいけど、こうやって音楽があるとやっぱり落ち着くっていうか…懐かしい感じがするんだよね」と言った。


桜子はその言葉に少し驚き、そして胸の奥にじんわりとした温かさを感じた。「そうだね。私も、こうやって家族と一緒に音楽を楽しむ時間がまたできるなんて、思ってもみなかったよ。」


「お姉ちゃんにこの前も聞いたけどさあ、最近忙しそうだったけど、どうしてまたピアノを弾こうと思ったの?」弟が不意に尋ねた。


桜子は少し考え込みながら、「なんだろうね…。最近、いろんなことがあって、自分の気持ちを整理したいなって思ったとき、ふとピアノに触りたくなったの。それに…」と一瞬言葉を詰まらせた。


「それに?」母親と弟が問いかけた。


二人の前で気になる人がトランペットの演奏して、その姿に触発されたなんて話は恥ずかしくてできなかった。「ううん、なんでもないよ、ただ時間が取れるようになっただけかな」とごまかした。


桜子は最近もう一つの変化が起こっていた、夢の中での光景が変わってきていることに気づいた。以前は廊下や玄関、洋館の外観ばかりが現れていたが、ここ数回の夢ではさらに奥深い場所、リビングのような部屋に足を踏み入れるようになった。


その部屋は、古びているがどこか温かみのある場所だった。大きな石造りの暖炉が中央にあり、淡い光を放つキャンドルがいくつも置かれていた。家具はアンティーク調で、木製の重厚なテーブルや、深い緑色のベルベットで覆われたソファが並んでいた。壁には古い写真や絵画が飾られていて、どこか懐かしさを感じさせるものばかりだった。窓の外には、やわらかな月明かりが差し込み、静かな夜の景色が広がっていた。


「この部屋…前は見たことがなかったはずなのに…どうしてだろう?」と桜子は夢の中で心の中に問いかけた。


彼女は部屋の中を歩き回り、テーブルに置かれた古い本や、窓際に飾られた花の枯れた姿に目をやった。それらの一つ一つが、彼女にとって何かを思い出させるような気がしてならなかった。まるで、この場所には彼女がかつて知っていた記憶が詰まっているかのように感じられる。


「どうしてこの場所がこんなに懐かしいの?ここに何があるの?」と桜子は思わず声を出してつぶやいた。


夢の中の彼女は、リビングの奥に目を向けると、大きな古い時計が静かに時を刻んでいた。時の針はゆっくりと動いているが、どこか不自然で、針が戻ったり進んだりしているかのように見えた。


「何かが…変わろうとしているの?」と桜子はその時計をじっと見つめ、焦燥感を感じ始めた。


リビングにいることで、夢の中の二人、あの男性と男の子もはっきりと現れるようになった。今度は彼らがリビングに座っているのを見た。男の子はソファの上で楽しそうに本を開き、男性は窓の外をじっと見つめていた。しかし、やはり彼らの顔はどうしても見えない。どれだけ近づいても、顔だけがかすんでしまう。


「あなたたちは誰なの…?」桜子は夢の中で震える声で問いかけた。しかし、二人は答えることなく、ただ微笑みながら彼女を見つめているようだった。


「どうして顔を見せてくれないの?」桜子の心には、もどかしさと焦りが渦巻いていた。彼女はその場で立ち尽くし、何もできない自分に対して強い苛立ちを感じた。


目が覚めると、桜子はベッドに横たわりながら、自分の胸が高鳴っているのを感じた。夢の中でのリビングや二人の姿があまりにも鮮明で、まるで現実のように感じられたからだ。今までの夢とは違う。何かが変わってきていることをはっきりと感じた。


「この夢は、何かを伝えようとしている。きっと、この場所には私の知らない何かが隠されている…」と桜子は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。


桜子は夢が現実の何かに結びついているのではないかという思いが強くなり、心の奥底で湧き上がる不安感と向き合うことを決心した。「この夢が私に何を伝えようとしているのか、見つけなきゃ…」と、彼女は静かに決意を固めた。






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