第23話 新たな自分へのスタート

実家を出て、佐伯は久しぶりにトランペットを抱えてアパートに帰ってきた。荷物を部屋に運び入れ、トランペットケースをベッドの脇にそっと置いた。部屋の静けさが彼の心に深く染み込み、何となく新しいステージに踏み出す準備が整っているように感じていた。


窓の外は暗く、街灯の明かりがわずかに部屋の中を照らしていた。佐伯は少しだけケースを見つめ、蓋をそっと開けた。トランペットが輝いているように見える。高校時代の思い出が頭の中でよみがえり、当時の演奏していた情景がフラッシュバックした。


しかし、その頃の自分と今の自分は大きく違う。仕事に追われる日々の中で、音楽の情熱を忘れ、社会人としての生活に埋もれてしまっていた。だが、再びこのトランペットを吹く時が来るかもしれないという予感が、心の奥に確かに存在していた。


佐伯は一度深呼吸をしてから、口元にトランペットを持ち上げ、息を吹き込んでみた。音はまだ不安定で、かすれ気味だったが、少しずつ感覚が戻ってくるように感じた。音楽が部屋に広がり、かつての情熱が少しずつ胸の中に蘇ってきた。


「悪くないな…」


佐伯は自分にそう言い聞かせながら、これからどうしていくべきかを改めて考えた。桜子との関係や、仕事のこと、そして自分の中にある音楽への情熱。すべてが彼の心の中で絡み合いながら、ゆっくりと形を取り戻しているようだった。


桜子との初詣での出来事が、彼の心にある一つのスイッチを押していた。これからの未来に向かって、彼は少しずつ前に進んでいこうという気持ちが強まっていた。


佐伯はトランペットを片付け、またいつか再び演奏する日が来ることを期待しつつ、それを部屋の一角にそっと置いた。今はまだ準備の時期かもしれない。だが、きっと何かが始まる予感が、彼の中で確かに感じられていた。


その夜、佐伯はトランペットの余韻とともに、再びセドナの言葉を思い出し、考えながら静かに眠りについた。


その翌日、佐伯はいつも通り仕事に向かうためにアパートを出た。冬の冷たい風が頬を撫でる。トランペットを久しぶりに吹いたことで、彼の中には少しだけ自信が戻ってきたような気がした。だが、それは桜子との関係に関しても同じだった。彼女との距離を少しでも縮めるためには、自分から行動を起こさなければならないという思いが、彼の胸に静かに根を下ろしていた。


オフィスに着くと、忙しい日常が待っていた。プロジェクトの進捗やミーティングが次々に舞い込み、あっという間に一日が過ぎていく。だが、頭の片隅には常に桜子のことがあった。仕事で一緒になるたびに、彼女のさりげない微笑みや、ちょっとした仕草が彼の心に触れる。だが、それ以上の言葉を彼女にかける勇気はまだ出ていない。


その日、ランチタイムにふと桜子と鉢合わせになった。社員食堂の一角で彼女が座っているのを見つけ、佐伯は一瞬迷ったが、心の中で「今だ」と決心し、彼女のテーブルに歩み寄った。


「峰木、ここ座ってもいい?」少し緊張しながらも、できるだけ自然に声をかけた。


桜子は驚いた表情を一瞬見せたが、すぐに笑顔を浮かべて「もちろん、どうぞ」と席を勧めてくれた。


二人は並んで座り、仕事の話や最近の出来事について軽い会話を交わし始めた。だが、佐伯はその会話の流れの中で、どうにかして桜子に対してもっと自分の気持ちを伝えたいという衝動を感じていた。彼女と一緒にいる時間が好きだ、もっと話したい、もっと近づきたい――その思いが強くなっていく。


「初詣の時のこと、覚えてる?」佐伯はふいに口を開き、桜子に問いかけた。


「うん、もちろん覚えてるよ。今年の運勢を占うおみくじ、楽しかったよね」と桜子は笑顔で答えた。


「そうだな。でも、俺、あの時おみくじを引いてちょっと思ったことがあってさ…」


「何?」桜子は彼の言葉に耳を傾けた。


「俺、今年はもっと自分の気持ちに素直になろうって思ったんだ。なんか、ずっと周りのことばかり気にして、肝心なことから逃げてた気がしてさ。でも、それじゃダメだなって気づいたんだよ。だから…」


佐伯の言葉は次第に途切れ、彼は自分の胸の中で沸き起こる緊張感を感じた。桜子にどう伝えたらいいのか、言葉を選びながら、次の言葉がなかなか出てこなかった。


桜子は彼の表情をじっと見つめ、「佐伯くん、どうしたの?何か言いたいことがあるなら、遠慮しないで言ってくれていいんだよ」と、優しく問いかけてきた。


その瞬間、佐伯は勇気を出して続けることにした。「俺、峰木ともっと…話したいって思ってる。なんか、同期だからっていう以上に、もう少し…こう、近づけたらいいなって…」


桜子はその言葉に少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかい笑顔に変わった。「佐伯くん、そう思ってくれてたんだね。私も、もっといろいろ話せたらいいなって思ってたんだ。お互い、あんまり話す機会なかったもんね。」


その言葉を聞いて、佐伯の心に少しずつ安堵感が広がった。彼女も自分と同じように感じてくれていたのだ。


「じゃあ、これから少しずつ、もっと話す機会を増やしていこうか」と、佐伯は少し照れながら言った。


「うん、そうしよう」と桜子は微笑んだ。


その瞬間、佐伯の中で何かが少しだけ動いた気がした。小さな一歩かもしれないが、桜子との距離が確実に縮まったのだ。彼はトランペットを吹いた時と同じように、心の奥底に眠っていた感情が目を覚まし、未来に向けて動き出していることを感じていた。


ある日、会社の社内掲示板に「社員交流イベント」の案内が貼り出されていた。その内容は、社員が持っている特技や趣味を披露する場を作り、互いに親睦を深めるための音楽イベントだった。佐伯は掲示板を何気なく眺めていたが、ふと自分の部屋に眠っていたトランペットのことが頭をよぎった。


「そういえば、久しぶりにトランペットを吹くって決めたんだったな…。」


高校卒業以来、ずっと封印してきたその楽器を思い出し、心の中にかすかに響くものがあった。イベントは数週間後に開催される予定で、社内で演奏する人を募っていた。佐伯はその掲示を見つめながら、しばらく悩んだ。昔は音楽が大好きで、トランペットを吹くたびに心が晴れ渡るような気分になっていたのを思い出す。


「もう一度、やってみようかな…」


佐伯は意を決して、イベントのエントリーに自分の名前を書き込んだ。久しぶりにトランペットを吹くことへの不安と期待が交錯していたが、何よりも彼は自分にとって大切なものを再び取り戻すために、この機会を逃したくないと思ったのだ。


家に帰った佐伯は、実家から持ち帰ったトランペットケースを持って河原へ移動した。ここに来たのはアパートでは鳴らすのは迷惑になってしまうからだ。

はやる心を抑えつつケースから楽器を取り出し、そっと手にした。年月を経た金属の感触が、懐かしい感覚を呼び覚ました。口にトランペットをあて、久しぶりに息を吹き込む。最初は少しぎこちなかったが、次第に音が出始め、かつての感覚が体に戻ってくるのを感じた。


「まだ、吹けるんだ…」


何度か音階を鳴らしているうちに、彼の中に眠っていた情熱が再び目を覚ました。高校時代に習った曲の一つを思い出しながら、トランペットを吹き続けた。音が自分の体のすみずみにまで響き渡り、佐伯の心にも音楽が流れ込んでくる。


その後、佐伯は仕事の合間を縫って練習を続けた。昔の感覚が戻るたびに、音楽が再び彼にとって大切なものになっていくのを感じた。練習の中で、少しずつ自信も取り戻していった。


そして、いよいよイベント当日。会社のロビーには、社員たちが集まっていた。緊張しながらも、佐伯は自分の番を待っていた。トランペットを持つ手が少し汗ばんでいたが、心の中には、昔感じたあの音楽への愛情が満ちていた。


桜子も、同期たちと一緒に観客席に座っていた。彼女は佐伯がエントリーしているのを知っていたが、トランペットを演奏する彼を見るのは初めてだった。


「どうなるかな…」と、桜子は少し期待しながら彼を見つめていた。


佐伯の番がやってきた。静かな緊張がロビーに漂う中、彼はトランペットを唇にあて、深呼吸をした。そして、吹き始めた。


最初の音が響いた瞬間、佐伯の心に広がったのは、久しぶりに感じた自由だった。音楽が彼の体を通じて流れ出し、ロビー全体に音色が満ちていく。曲はかつて彼が大好きだったメロディーで、練習の成果がそのまま表れていた。


観客の中には、佐伯の演奏に聞き入る人たちが増え始め、桜子もその音色に心を動かされていた。彼の真剣な表情と美しい音が、桜子の心に深く刻まれていく。


演奏が終わると、会場は拍手に包まれた。佐伯は少し照れながらも、深くお辞儀をして感謝を表した。そして、その瞬間、彼は自分の心の中で何かが吹っ切れたような感覚を覚えた。


「また、トランペットを吹いてよかった…」


その日、佐伯は自分が何を大切にすべきかを再確認した。桜子との関係も、そして自分自身との関係も、少しずつ前に進むための一歩を踏み出した気がした。








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