第22話 思い出のトランペット
佐伯は年末年始にかけて久しぶりに実家へ帰ることになった。彼は普段、アパートで一人暮らしをしているが、久々の帰省に少しだけ気持ちが浮き立っていた。都会の喧騒から離れ、懐かしい故郷の風景が広がる道を車で進みながら、心の中で何度も実家での過ごし方を思い描いていた。
高校を卒業してから県外の大学に進学し、その時からずっと一人暮らしを続けてきた。長い間、一人で生活していることには慣れていたが、実家に帰るたびに、かつての自分との距離を感じる瞬間があった
実家に到着すると、変わらない家の佇まいが佐伯を迎えた。両親も元気そうで、久しぶりの再会にお互い少しだけ照れ臭い空気が流れる。リビングで軽く談笑しながら、彼はふと自分の昔の部屋に行ってみたくなった。
実家の自分の部屋は、高校を卒業してからあまり足を踏み入れていなかった場所だった。ドアを開けると、そこには昔とほとんど変わらない光景が広がっていた。ベッド、デスク、そして本棚に並んだ本や、昔飾っていたポスターまでそのまま残っている。少し埃をかぶってはいるが、そのすべてが懐かしい思い出を呼び起こしてくれる。
佐伯は部屋の中を見渡しながら、ふとデスクの横に立てかけられているものに目が留まった。それは、かつて彼が夢中になって吹いていたトランペットだった。何年も触っていなかったが、なぜかその日、そのトランペットが彼の視界に入ってきた。
「懐かしいな…」と佐伯は小さく呟きながら、トランペットに近づいた。ケースを開けると、長い間使われていなかったにもかかわらず、トランペットは驚くほどきれいなままだった。手入れが行き届いていたのだろうか。それとも、母親が時折拭いてくれていたのかもしれない。手に取ると、その感触が昔と同じように彼の手の中に収まった。トランペットの冷たい金属が指先に触れる感覚が、遠い記憶を呼び覚ますようだった。
佐伯は幼い頃からトランペットを吹いていた。小学校の頃から習い始め、部活動では音楽部に所属し、吹奏楽の大会にも出場するほどの情熱を持っていた。しかし、高校を卒業すると大学に進学してからはすっかり手を離れてしまった楽器だ。ケースをじっと見つめると、昔の思い出が一気に蘇ってきた。同時に、彼はトランペットをやめてしまった。勉強や将来のことを考えるうちに、音楽を続ける道を選ばなかった自分。それ以来、トランペットを手に取ることはなかった。
「どうして、やめてしまったんだろうな…」佐伯は、かつての自分を思い出しながら独り言のように呟いた。高校の頃の自分は、将来に対する漠然とした不安と焦りに駆られて、音楽から離れてしまった。音楽に対する情熱はあったが、それを職業にするという選択肢はどこか現実的ではないと感じていたのだろう。
今、そのトランペットを手にした自分は、昔の情熱を少しだけ思い出していた。吹奏楽の仲間たちと練習に打ち込んだ日々、ステージに立って音楽を奏でる喜び、そして大会で感じた達成感や悔しさ。すべてが彼の心の奥底に眠っていた。
「なんで、急にトランペットのことを思い出すんだろう…」佐伯はそう呟きながら、トランペットケースの前にしゃがみ込んだ。高校時代、毎日のように練習していた日々。楽団での演奏、仲間たちとの時間、そしてコンサートの舞台に立った瞬間。あの頃の情熱は、今とはまったく違うものだった。
佐伯はそっとトランペットを置き、デスクに座り直した。「あの頃の自分に戻れるわけじゃないけど…」と心の中で思いながら、懐かしい部屋の雰囲気に包まれていた。音楽を手放してしまった自分と、今の自分を重ねながら、彼は静かに過去と向き合っていた。
佐伯が実家の自分の部屋でトランペットケースを眺めていると、階下から母親の声が聞こえてきた。
「拓斗、ちょっとお茶にしない?久しぶりに一緒にゆっくり話しましょう。」
佐伯はトランペットから目を離し、ゆっくりと立ち上がった。階下へ降りると、リビングには母親が用意したお茶とお菓子が並べられていた。父親はリビングの一角でテレビをみている。佐伯が椅子に腰掛けると、母親が微笑んで湯呑みを彼の前に差し出した。
「久しぶりに帰ってきたわね。どう、仕事は順調?」
佐伯は湯呑みを手に取り、少し笑いながら答えた。「まあ、忙しいけどなんとかね。特に最近はプロジェクトが多くて、休む暇もない感じ。」
父親が画面からこちらに視線を移し、少し頷いた。「社会人はそんなもんだ。慣れるまでが大変だろうけど、その調子で頑張れば大丈夫だよ。お前は昔から、なんでもコツコツと積み上げてきたじゃないか。」
「そうね、あんたは昔から一生懸命だったものね。」母親もにっこりと微笑んで、少し懐かしそうな顔をした。「トランペットも毎日熱心に練習してたし。今でも吹いてるのかと思ってたけど、やめちゃったのね?」
佐伯はその言葉に少し戸惑いながら答えた。「大学に入ってから、忙しくて練習する時間もなくてさ。気づいたら、もう吹かなくなってたんだ。」
母親は少し残念そうに、「そうだったのね。でも、また吹きたくなったらいつでもできるじゃない。楽器はあんたの部屋にちゃんと置いてあるし。」
「うん、そうだな。」佐伯はトランペットのことを思い返しながら、心の中で少しの罪悪感を感じていた。高校時代はトランペットが彼の一部だったが、今ではその情熱がどこかに消えてしまった気がした。
父親がテーブルのリモコンを片付けながら、軽く咳払いをした。「まあ、何事も続けるのは大変だよ。俺も昔は釣りに夢中だったけど、仕事が忙しくなってからはもう釣り竿を握ることも少なくなったもんだ。人生、いろんなタイミングがあるからな。お前が今やるべきことをやっていれば、それでいいんだ。」
佐伯は父親の言葉に頷きながら、ふと窓の外を見た。冬の寒い日差しが庭に差し込んでおり、静かな時間が流れていた。両親とのこうした何気ない会話が、彼にとってはいつも心の支えになっていることを改めて感じた。
「そうだな、今は仕事に集中してる。でも、もしかしたらまたいつか、トランペットを吹きたくなるかも。」佐伯は微笑みながらそう言った。
母親もその言葉に安心したように微笑んだ。「そうね、何事も無理せず、自分のペースでやっていけばいいのよ。」
その後、佐伯はしばらく両親と共にお茶を飲みながら、幼い頃の思い出や最近の出来事について語り合った。久しぶりの家族団らんの時間に、彼の心は少し軽くなったようだった。
帰りに自分の部屋に戻り、再びトランペットケースに目を向けた。
「また吹く時が来るかもしれないな…」
佐伯は心の中で呟いた。久しぶりに吹いてみたいという気持ちが、わずかに芽生え始めていた。音楽を奏でることで、何か新しい気づきが得られるような予感がしていたのだ。人生の中で大切にしてきたものは、決して完全には消え去らないのかもしれない。
トランペットをケースにしまい、彼は少し考えた後、それを持ち帰ることに決めた。ずっと部屋に置いておくだけでは、せっかくの思い出も朽ちてしまうかもしれない。今、再び自分の生活に音楽を取り戻すことで、新たな何かが始まるかもしれないという期待が、彼の心を動かしていた。
「持って帰るよ、これ。いつか、また吹くときが来る気がする。」
佐伯は母親にそう告げると、母親は驚きながらも嬉しそうに微笑んだ。「そうなの?それは良かったわ。あんたがまた吹いてるところ、久しぶりに見たいなぁ。」
佐伯は微笑み返し、トランペットケースを抱えながら、実家を後にした。再び手に取ったこの楽器が、彼の心の中に眠っていた何かを目覚めさせてくれることを願いながら。
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