第20話 行き先はクラシックコンサート
ある休日に桜子は、久しぶりに母親と一緒に出かけることになった。行き先はクラシックコンサート。母親からの突然の誘いに、少し戸惑いながらも「たまにはこういうのもいいかも」と思い、受けることにした。仕事に追われる日々の中、親子でゆっくり過ごす機会はほとんどなかったからだ。
寒さが厳しい冬の日、二人は手袋をはめ、暖かいコートを羽織って会場のアクトホールへと向かった。母親が嬉しそうに話すのを聞きながら、桜子も自然と心がほぐれていく。会場に到着すると、外の冷たい空気とは対照的に、中は温かく、穏やかな雰囲気が漂っていた。クラシックの優雅な響きがホールに満ち、桜子は「たまにはこういう時間も大切だな」と心から感じた。
コンサートホールの重厚な扉をくぐり抜け、桜子と母親は華やかなロビーへと足を踏み入れた。大きなシャンデリアが天井に輝き、エレガントな雰囲気が漂うその場所には、すでに多くの観客が集まっていた。桜子は、母親と並んで歩きながら、少し緊張した表情を浮かべていた。
「ここに来るの、久しぶりだね」と、母親が微笑みながら桜子に話しかけた。
「うん、そうだね。最後に一緒にコンサートに来たのは、たしか数年前だったかな?」桜子は少し思い出しながら答えた。
母親はふと考え込み、「そうね、あの時も楽しかったわね。今日はまた特別な演奏会だから楽しみだわ」と嬉しそうに言った。
ロビーでしばらく待った後、二人はチケットを確認しながら座席へと向かった。客席は徐々に埋まり始め、やがてホール全体が期待感で満ちていた。桜子は自分たちの席を見つけると、母親の手を引きながら席に着いた。
「この席、けっこういい場所ね。舞台がよく見えるわ」と、母親が少し目を輝かせながら席に座り、周囲を見渡した。
「うん、いい場所が取れてよかったよ。今日は特に楽しみにしてたし」と桜子も微笑んで答えた。
二人はプログラムを手に取り、出演するオーケストラやソリストの名前、演奏曲目を確認した。母親は少し目を細めながら、「今日は特にショパンの演奏が楽しみね。あのピアニストの演奏、テレビで見たことがあるけど、実際に聴くのは初めてなのよ、あとね浜松出身のバイオリニストもいるのよ。昔ね演奏聞いたことあるけど素晴らしい演奏だったから今回も楽しみにしているの。」と話し出した。
「そんな人が出ているのだね、私も楽しみだな。ショパンのノクターンとか、すごく優雅で綺麗だから、きっと生で聴いたら感動すると思う」と、桜子は同じ期待感を持ちながら母親に答えた。
母親は少し微笑んで、「昔はよく一緒に音楽を聴いたわね。あなたが小さい頃、ピアノを練習していた頃を思い出すわ」と、懐かしそうに話した。
桜子は少し恥ずかしそうに笑い、「あの頃はただ弾ける曲をひたすら練習してただけだったよ。今ではピアノからも遠ざかっちゃったけどね」と答えた。
「でも、音楽が好きなのは変わらないでしょ?」母親が優しく桜子を見つめながら尋ねた。
「うん、それは変わらないね。こうして一緒にコンサートに来れるのも嬉しいし、特に生の演奏はいつ聴いても特別だよね」と、桜子は少し照れくさそうに言った。
会話が続く中、客席はほぼ満席となり、周囲には少しずつ緊張感が漂い始めた。ホール全体が静かになり、まもなく演奏が始まることがわかる。桜子は、母親と顔を見合わせながら、「いよいよだね」と静かに呟いた。
「そうね、静かに楽しみましょう」と、母親は微笑みながら桜子の手をそっと握りしめた。
やがて、ステージ上の照明が少し暗くなり、指揮者とオーケストラのメンバーがステージに登場する。ホールは静寂に包まれ、演奏が始まるその瞬間を、二人は息を飲むように待ち続けていた。
演奏が始まり、桜子は心地よい音色に身を委ねた。疲れがたまっていたこともあり、彼女は自然と瞼が重くなり、次第にうとうととし始めた。
夢の中、桜子はいつもの洋館に立っていた。木の廊下、差し込む柔らかな光、そして遠くから聞こえてくるバイオリンの音色。今までに何度も見た夢だったが、この日は特別に音楽が鮮明に聞こえた。そのメロディーは、どこか懐かしく、心に深く響く。
しかし、今回の夢ではその音がまるで現実のように近く、彼女の周囲に広がっていた。バイオリンの旋律が、洋館の廊下を響き渡り、彼女の心に何かを呼び覚まそうとしているかのようだった。
「この曲…」桜子は夢の中で呟いた。これまでずっと聞いてきたこのメロディーが、何か大切なものを思い出させようとしているのは感じていたが、その正体がつかめずにいた。
その時、現実の世界に意識が戻り、コンサートホールの音楽が彼女の耳に鮮明に響いた。バイオリンの演奏が、夢の中で聞いていた音楽と同じメロディーを奏でていたのだ。桜子は驚きとともに、曲の美しさに引き込まれ、思わず目を覚ました。
「この曲…夢の中で聞いていたのと同じだ…」桜子は、自分の中で湧き上がる不思議な感覚に包まれた。
曲の演奏が終わり休憩時間になるとすぐに、桜子は並んで座っている母親の方を振り返り、小声で尋ねた。「ねえ、あの曲って、何ていう名前なの?」
母親は微笑みながら答えた。「あれは『愛の挨拶』よ。エルガーの有名な曲で、昔からよく演奏されているわね。」
「愛の挨拶…」桜子はその言葉を口にしながら、どこかで聞き覚えがあるような気がした。けれど、どうしてそのメロディーが夢に出てきたのか、その理由まではわからなかった。
すると、母親が懐かしそうに語り始めた。「桜子、あなたが小さかった頃、この曲が大好きだったのを覚えてる?よくこの曲をかけてせがんでいたのよ。
お母さんもレコード盤でクラッシックよく聴いていたからね、桜子が小学校に上がったあたりから友達と遊ぶようになり、だんだんレコード聴かなくなっていったわよ」
「私が…?」桜子は驚きの表情を浮かべた。小さい頃の記憶は薄れているが、母親の言葉が妙に納得できた。「そうだったんだ…。なんだか、不思議な感じがする。」
母親は頷き、「そうね。あなたがこの曲を聞くと、いつも楽しそうに笑っていたのを覚えてるわ。それに、バイオリンの音が好きだったみたいで、コンサートに連れてくるといつも楽しそうにしていたのよ。」と続けた。
桜子は母親の言葉に耳を傾けながら、心の奥で何かが結びつくのを感じた。なぜこのメロディーが夢に出てきて、彼女の心に響いているのか。その理由が少しずつわかってきた気がした。
「不思議だね…小さい頃に好きだった曲が、こんな風に夢に出てくるなんて。でも、なんだか懐かしくて、安心する感じがするよ。」桜子は、幼い頃の自分がどれだけその音楽に心を寄せていたのかを思い出し、少し微笑んだ。
母親は、「音楽って、時を超えて心に響くものだからね。きっと、あなたの中で大切な思い出が、この曲とともに残っていたのかもしれないわ」と言い、温かく桜子の手を握った。
桜子はその手の温もりに包まれ、ふと安心感を覚えた。「お母さん、ありがとう。なんだか今日のコンサートに来てよかった。昔のこと、少し思い出せた気がする。」
「そうね、たまにはこうしてゆっくりと音楽に浸るのも大事だわ」と、母親も穏やかな笑みを浮かべた。
コンサートを満喫した帰り道、桜子と母親は近くのカフェに立ち寄った。夜の静かな雰囲気が漂う中、温かな灯りが差し込むカフェは、コンサートの余韻に浸るにはぴったりの場所だった。二人は木製のテーブルに座り、注文したホットコーヒーが運ばれてくるのを待っていた。
「今日の演奏、素晴らしかったわね。特にショパンのノクターンは胸に響いたわ、バイオリニストの方も昔聞いた時よりもすごく成っていたわよ」と、母親がコンサートの感想を口にした。
「うん、本当に。ピアニストもバイオリニストの表現力がすごかったね。音楽があんなに心に届くとは思わなかった」と桜子も頷きながら答えた。
母親はカップに手を伸ばし、一口コーヒーを飲んでから、「それで、最近の仕事はどう?忙しそうだけど、無理してない?」と優しく尋ねた。
桜子は少し肩をすくめて、「そうね、確かに忙しいけど、なんとかやってるよ。でも、プロジェクトが詰まってて、残業も多くなってるかな。何とか効率よく進めたいんだけどね」と、少し疲れた表情で話した。
母親はそんな桜子を見つめ、「頑張りすぎないようにね。あなたは昔から責任感が強いから、つい自分一人で抱え込んでしまうところがあるけど、たまには周りに頼ることも大事よ」と、柔らかい声で言った。
桜子はその言葉に少し驚いたように笑い、「そうかもね。昔からそう言われてたっけ?一人で何でもやろうとしてるって」と言った。
母親は微笑みながら、「そうよ。小さい頃から、ピアノの練習でも自分で全部やり遂げようとして、誰にも頼らなかったでしょ。わからないところがあっても、あまり助けを求めなかったわね」と昔を思い出すように語った。
「そんなこともあったっけ…」桜子は少し照れながらも、遠い昔のことを思い返す。「でも、今は仕事だから余計に責任感じちゃうのかもしれないね。やっぱり、失敗できないって思うと、つい一人で抱え込んじゃうんだよね。」
母親は静かに頷き、「大切な仕事なのはわかるけど、全部を自分一人でやろうとするのは、逆に周りに迷惑をかけることもあるわよ。人に頼ることは悪いことじゃないし、チームでやることの大切さを忘れないでね」と、優しくアドバイスした。
「そうだね、最近、チームの中でも助けてもらうことが増えたんだけど、まだまだ自分でやらなきゃって思っちゃうことが多いな…」桜子は少し考え込むように答えた。
母親はカップを置き、「でもね、桜子。そうやって悩むのも成長の証よ。今のあなたは、あの頃の自分よりずっと成長している。だからこそ、もっと自分を信じて、周りを信じてもいいのよ」と、桜子に安心感を与えるように話した。
「ありがとう、お母さん。何だかそう言われると、少し気が楽になる気がする」と桜子は、ほっとした表情で微笑んだ。
二人はしばらく静かにコーヒーを飲みながら、暖かなカフェの雰囲気に包まれていた。コンサートの余韻が心地よく残り、母親と過ごす穏やかな時間が、桜子の心を癒してくれたようだった。
「また一緒にコンサートに来ようね」と桜子が微笑みながら言うと、母親も「ええ、もちろん。いつでも誘ってちょうだいね」と優しく答えた。
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