第9話 夢の変化

桜子は「星辰と月夜の部屋」の重厚な扉をくぐり抜け、ふわりと漂うハーブの香りに包まれた。玄関ホールには昔ながらの石油ストーブが置かれており、心地よいぬくもりが館内を満たしている。石油ストーブの上でやかんがゆっくりと湯気を上げ、その音が静かな館内にリズムを刻んでいる。まるで時間が止まっているかのような、この落ち着いた空間に入るたび、桜子は少しだけ現実の喧騒を忘れることができる。


けれど、今日はそれでも心が落ち着かなかった。夢の中で見続けていた洋館に現れた新たな男性のシルエット。最近、その夢の内容が微妙に変わってきていることに、桜子は戸惑いと不安を抱いていた。何かが変わろうとしているのは感じ取れる。しかし、それが良い方向に進むのか、逆に何か悪い知らせなのかがわからない。夢が自分に何を伝えたいのか、日に日に深まる謎に彼女の心は揺れ動いていた。


「いらっしゃいませ、桜子さん。」スピカが笑顔で出迎え、桜子を奥の鑑定室に案内する。部屋には柔らかい光が差し込み、テーブルの上には彼女がいつも使うホロスコープを広げるためのノートパソコンが置かれていた。


「寒い中ありがとうございます。どうぞこちらへお掛けください。」スピカはいつもの優しい表情で桜子を迎えたが、桜子の顔色に少し不安が混ざっていることにすぐに気づいた。


「今日は少しお顔が硬いですね。何かあったのですか?」スピカが桜子の表情を見て静かに問いかけた。


桜子は深く息をつき、少し間をおいてから話し始めた。「夢の話を前回しましたよね。あの古い洋館の夢…最近、その夢が少しずつ変わってきているんです。」


スピカは桜子の言葉に耳を傾けながら、穏やかに頷く。「どんなふうに変わってきたのですか?」


「最初は、子供の頃の自分と男の子だけが出てくる夢だったんです。でも最近、大人の男性のシルエットが出てくるようになりました。彼の顔は見えないんですけど、なぜか懐かしさと切なさが入り混じった感覚になるんです。すごく不思議で…怖いわけではないんですが、なぜかその夢の内容が変わっていくのが不安で…」桜子は苦しそうに語りながら、目を伏せた。


スピカは真剣に話を聞き、「その夢の変化が、桜子さんの心の中の何かが変わろうとしている兆しかもしれませんね。」と言った。


「でも、どうしてそんな夢を見続けるんでしょうか?そして、あの男性は誰なんでしょうか…?」桜子は混乱した様子でスピカに尋ねる。


「夢は私たちが自分では気づかない、心の奥深くの声や、無意識のメッセージを伝えてくれることがよくあります。あのシルエットの男性は、桜子さん自身の過去や未来、もしくは心の中の重要な存在を象徴しているのかもしれません。」スピカは桜子のホロスコープを確認しながら話を続けた。


「あなたの金星が現在、かなり強い影響を受けています。金星は愛情や人間関係に深く関わる星です。そして、火星がその金星に干渉していることがわかります。火星は行動や決断を表す星ですが、時に迷いや葛藤を引き起こすこともあります。この夢の中で現れる男性は、桜子さんが自分の人生の中で大切に思っている人や、これから向き合うべき感情や状況を象徴している可能性が高いです。」


「でも、私は…正直、自分がどう感じているのか、わからなくなってきています。夢の中で感じる安心感と現実の不安が、どうつながっているのかもよくわからないんです。」桜子は、少し戸惑いながら自分の胸の内を打ち明けた。


スピカは優しく微笑み、「夢があなたに何かを伝えようとしているのは間違いありません。現実の不安と夢の安心感、それぞれが何か大切なことを示しているのでしょう。今はその意味を探るために、焦らず自分の気持ちと向き合っていく時期です。夢が何かを伝えたいのであれば、きっとその理由があるのです。」


「でも、もしそのメッセージが何か悪いことを暗示しているとしたら…どうすればいいんでしょうか?」桜子は不安な表情でスピカを見つめた。


スピカはその言葉を受けて、さらに真剣な表情を浮かべた。「星々が示しているのは、今は選択の時期だということです。確かに、未来に何が待っているのかは予測できません。しかし、夢の中の男性や音楽が、桜子さんの心を揺さぶるのは、何かを変えなければならないサインかもしれません。その変化が必ずしも悪い方向に進むとは限りません。むしろ、星々が示しているのは、新たな展開の始まりを告げる時期です。」


「新たな展開…ですか。」桜子はその言葉に少し戸惑いながらも、心のどこかで何かが動き出しているのを感じていた。


「そうです。夢に現れる音楽やシルエットの男性が、桜子さんにとっての重要な存在であることは間違いありません。それが過去からのメッセージなのか、未来への導き手なのかはまだはっきりしませんが、夢が続く限り、その意味を見つけ出すことが大切です。そして、星々もその助けをしてくれるはずです。」スピカは静かに桜子の手に触れ、安心感を与えた。


桜子は少し安心した様子で、「そうですね…少しずつ、その意味を探してみます。自分の気持ちに正直になって、向き合っていこうと思います。」と決意を新たにした。


スピカは微笑み、「その意志が大切です。星たちは、桜子さんが自分自身の心に正直でいられる限り、きっとあなたの進むべき道を照らしてくれるでしょう。」と、静かに語りかけた。


スピカと桜子が話を続けていく中、スピカはふと、佐伯との関係について触れるような質問を投げかけた。


「桜子さん、夢のお話ももちろん大切ですが…佐伯さんとの関係についてもお話ししていただけますか?前回、佐伯さんのことが気になるとおっしゃっていましたよね。その後、何か進展があったのでしょうか?」スピカの声は優しく、桜子に考える余裕を与えるようなトーンだった。


桜子は少し表情を曇らせた。「佐伯くんとは、特に何も変わっていません…。むしろ、全然進展がないんです。私がどうしても、自分から行動できなくて…いつも彼が声をかけてくれるのに、私のほうからは何もできないままで。」


彼女はスピカの前で言葉を選びながらも、自分の中で溜め込んでいた感情を少しずつ言葉にしていった。「彼が話しかけてくれると嬉しいんです。でも、いざその瞬間になると…何を話したらいいのか、どういう言葉をかけたらいいのか、頭が真っ白になってしまって…。それに、もし彼にとって私はただの同期でしかないのだとしたら、自分から距離を縮めるのが怖いんです。」


スピカはうなずきながら桜子の言葉を聞いていた。「それは、自分の気持ちを守りたいという自然な反応ですね。でも、佐伯さんに対してどんな気持ちを抱いているのか、自分の心の奥底ではもうわかっているのではないですか?」


桜子は少し戸惑った表情を浮かべながらも、目を伏せて静かに答えた。「自分の気持ちが、どういうものなのか…本当はわかっているんだと思います。でも、その気持ちを彼に伝える勇気がどうしても出なくて…。私がその一歩を踏み出すことで、何かが壊れてしまうんじゃないかって不安なんです。今の関係が崩れてしまったら…どうしようって。」


スピカは少し黙り、桜子の言葉を噛み締めるように考えてから口を開いた。「それは、桜子さんが佐伯さんとの関係を大切にしている証拠ですね。でも、時には現状を維持することが逆に負担になることもあります。進展がないという状況は、桜子さんにとってもお辛いでしょう?」


桜子は頷きながら、「そうですね…進展がないことが、かえって自分を苦しめているのかもしれません。何かを変えたい気持ちがあるけれど、どうすればいいのかがわからなくて…」と吐露した。


スピカは微笑みを浮かべ、「桜子さんが変化を恐れるのは自然なことです。でも、星の配置を見ても、今は変化の波が来ています。金星と火星が交差している時期は、新しいステージに進むための決断が求められることが多いです。それが、佐伯さんとの関係に影響しているかもしれません。自分の気持ちを抑え込むのではなく、少しずつでも向き合っていくことが大切です。進展がなくても、それはあくまで現時点の話。未来はまだ開かれているんです。」


「未来…」桜子は、その言葉に引っかかるような感覚を覚えた。


「そうです。夢の変化も、佐伯さんとの関係も、すべてが桜子さんにとって新しい未来に向けての道筋なのです。今はまだその意味が明確に見えないかもしれませんが、自分の気持ちを知り、次に進むことができれば、星々が桜子さんにとっての最善の未来を照らしてくれるはずです。」


桜子はスピカの言葉に耳を傾け、自分の中で少しずつ整理されていく感覚を覚えた。スピカの言う「変化」が、自分にとって避けられないものだとしたら、向き合うことから逃げずに、自分の気持ちをもっと明確にしなければならないという思いが湧き上がってきた。


「ありがとうございます、スピカさん。怖いけど、少しずつでも変わっていく勇気を持たなければいけないんですね。佐伯くんとのことも、夢のことも、まだはっきりとは見えていませんが…少しだけ前向きになれそうです。」桜子は微笑みながら、スピカに感謝の意を示した。


スピカは桜子の目を見て優しく微笑んだ。「その一歩が、未来を開く鍵になるはずです。何かに悩んだり、迷ったりしたときは、いつでもこの部屋に来てください。星々は桜子さんを見守り続けていますよ。」


桜子はその言葉に、心の奥底から勇気が湧いてくるのを感じた。彼女はまだ、佐伯に対する気持ちをどう伝えるべきか、どのように進展させるべきかはわかっていなかった。それでも、スピカとの会話を通じて、自分の心の声を少しずつ受け入れ、変化を恐れずに向き合っていく気持ちが芽生え始めているように思えてきた


館をあとにして寒い夜の街を歩きながら、心に少しばかりの温かさを感じていた。冷たい風が顔に吹きつけるたびに、現実の厳しさに引き戻されるような気がしたが、スピカの言葉と夢についての新たな見解が、彼女の心をそっと包んでいた。


夢の中の洋館、そこで聞こえるバイオリンの音楽、そして現れるシルエットの男性。それらが何を意味するのかはまだわからないが、スピカの助言を受けて、桜子は少しずつ自分の気持ちに向き合ってみようという気持ちになっていた。


スピカの占いで示された金星と火星の影響が、今の彼女に新しい選択肢を迫っていることを感じながら、桜子は一歩一歩前に進もうと決意を固めた。


桜子の頭の中では、まだ佐伯との微妙な距離感や、自分の気持ちをどのように整理していくべきかという悩みが残っていた。しかし、スピカとの会話で、焦らず少しずつ自分の感情と向き合うことが大切だということがわかった。星の導きは、彼女に一度にすべてを解決しろとは言っていないのだ。むしろ、心を落ち着けて、自分にとって何が本当に大切なのかを見極めるための時間を与えてくれている。


「少しずつでいいんだ」と桜子は自分に言い聞かせるように、夜の街を歩き続けた。


家に戻ると、彼女は暖かな光の下でコートを脱ぎ、静かに一息ついた。夢の中の出来事や佐伯との関係を頭の片隅に残しながらも、現実を生きる自分を感じる。夢と現実が交錯する中で、彼女は少しずつ自分を取り戻し、次の一歩を踏み出す準備が整ってきているように思えた。


「きっと、まだ時間が必要なんだ」と、桜子は心の中でつぶやいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る