第8話 毎朝同じように
桜子は、会社での一日を終え、淡々とした仕事に追われながらも心の中に渦巻く複雑な感情を整理できずにいた。佐伯とのやり取りは、いつも彼女にとって微妙な距離感を保ったままだ。仕事を通じて話すことはあっても、それ以上に踏み込むことができない。
そんなある日の昼休み、いつものようにデスクに座り書類に目を通していると、佐伯がふらりと近づいてきた。
「峰木、ちょっとランチ行かない?」彼は、いつもと変わらない明るい声で桜子に声をかけた。
桜子は一瞬、顔を上げて彼を見た。彼の笑顔は、冬の冷たさを忘れさせるような温かさを持っていた。心の中で「行きたい」という思いが浮かんだが、どうしても言葉が出てこない。彼の誘いに応じたい気持ちはあるのに、その気持ちを素直に表現することができない自分がそこにいた。
「うん、でも…ごめん、今日はちょっと仕事がたまってて、次にまた誘ってもらってもいいかな?」桜子は、心の中で湧き上がる感情を抑え込むように、口に出した。
佐伯は少し意外そうな表情を見せたが、すぐに「そっか、じゃあまた今度な」と優しく微笑んだ。その笑顔はいつものように明るく、彼女を気遣っているように見えた。だが、桜子はその笑顔を見つめながら、胸の奥が少し痛んだ。どうして素直に「行きたい」と言えなかったのだろう。彼にもっと近づきたいという気持ちがあるのに、どうして言葉が詰まってしまうのか。
佐伯が去った後、桜子は自分のデスクに戻り、手元の書類をぼんやりと見つめた。彼と話したい、もっと一緒に過ごしたいという思いがあるのに、彼女の中には常に「踏み出せない」何かがあった。その何かが、彼女の心を縛り付けているように感じた。
「私、どうしてこんなに素直になれないんだろう…」桜子はため息をつき、心の中で自問自答を繰り返していた。
その日の帰り道、桜子はまたカフェに立ち寄り、いつものようにホットコーヒーを頼んで窓際の席に座った。外ではクリスマスのイルミネーションが輝き、行き交う人々が楽しげに話している。だが、桜子はその光景をどこか遠いもののように感じていた。
「どうして私だけ、こんな風に何も変わらないんだろう…」彼女は窓の外を見ながら、静かに心の中でつぶやいた。佐伯との関係も、あの夢も、全てがどこか不安定で、変化が訪れないまま時間だけが過ぎていく。それが彼女をさらに焦らせ、孤独感を強く感じさせていた。
そんな中、次のプロジェクト会議の日がやってきた。桜子は佐伯と一緒に会議室に入る。二人だけの時間が少しだけあったが、その沈黙が逆に彼女を緊張させた。佐伯は軽く話しかけてくれた。
「峰木、最近忙しそうだな。大丈夫か?」
「うん、まあ…なんとかね。」桜子は、やはりそれ以上の言葉が出てこない。彼の優しさを感じながらも、その優しさをどう受け止めればいいのかがわからなかった。彼にもっと自分の気持ちを伝えたいのに、言葉がうまくまとまらない。
会議が終わり、二人は一緒にエレベーターに乗る。彼女はふと、佐伯の隣に立ちながら、自分が何を恐れているのかを考えた。なぜ、彼にもっと話しかけられないのか。なぜ、自分の気持ちを素直に表現できないのか。エレベーターの静寂の中で、その問いが彼女の中で大きくなっていく。
佐伯はふと、エレベーターのドアが開く瞬間、優しく声をかけた。「もし何かあったら、遠慮せずに相談してくれよ。俺はいつでも話を聞くからさ。」
その言葉は、桜子にとってとても温かく、安心感を与えるものだった。しかし、それと同時に、彼女は自分がどう返事をすればいいのかがわからず、ただ「うん、ありがとう」とだけ答えた。心の中ではもっと彼に近づきたい、もっと話をしたいという思いが渦巻いていたが、その言葉はどうしても口に出せなかった。
桜子は、心の中で彼への想いが少しずつ募っていくのを感じていた。だけど、その想いをどうやって伝えればいいのかがわからなかった。彼に対する気持ちが確かにあるのに、なぜこんなにも不器用なのか。なぜ、ただの「仲の良い同期」の枠を越えることができないのか。
そんなことを考える日が続く中、桜子はまたしても佐伯に声をかけられた。朝のミーティングが終わり、オフィスに戻る途中、ふと彼が隣に歩いてきた。
「峰木、この後ちょっと時間ある?」佐伯が軽い調子で言う。
桜子は驚きながらも、「ええ、時間ならありますけど…どうかしましたか?」と応じる。
「いや、ちょっと話したいことがあってさ。カフェで少しだけ時間をもらえないかな?」
その瞬間、桜子の心臓が一瞬ドキリと跳ね上がった。何か特別なことがあるのか、ただの仕事の話なのか…頭の中でいくつもの考えが駆け巡る。しかし、平静を装いながら「もちろん、大丈夫です」と答えた。
カフェに入ると、二人は窓際の席に座った。佐伯はコーヒーを注文し、桜子も同じものを頼んだ。佐伯がなぜ突然こんな風に誘ってくれたのか、桜子は気になって仕方がなかった。
「最近、どう?忙しいだろうけど、体調崩したりしてない?」と、佐伯は少し心配そうに尋ねた。
「はい、まあ…忙しいですけど、なんとかやっています」と桜子は笑みを浮かべたが、内心では彼の優しさに戸惑っていた。
「峰木、ちゃんと自分のことも気にかけてるか?」佐伯は真剣な表情で続けた。「仕事も大事だけど、無理しすぎるなよ。君、いつも頑張りすぎるからさ。」
桜子はその言葉に、またしてもドキリと胸を打たれた。佐伯が自分のことをこんなにも気にかけてくれることが信じられなかったし、嬉しかった。しかし、同時にその優しさが彼の性格そのものなのか、それとも特別な意味があるのかをはっきりさせられない自分に苛立ちを感じた。
「ありがとうございます、佐伯くん。気をつけますね。でも、佐伯くんだって最近忙しそうじゃないですか?」と、桜子は彼の気遣いに答えるように言った。
「まあ、確かにちょっと忙しいけど、こうして話せる時間があるのはいいリフレッシュになるよ」と彼は笑顔を見せた。その笑顔を見ていると、桜子はまたしても心が揺れた。
「峰木、こうしてたまには一緒にランチとかできたらいいよな。最近あんまりゆっくり話す機会もなかったし。」
「え、ええ…そうですね。でも、私…」桜子は言葉を詰まらせた。彼の提案に応じたい気持ちは強い。しかし、その気持ちをうまく言葉にできない自分がそこにいた。
佐伯はそんな彼女の様子に気づいたのか、優しく微笑み、「無理にとは言わないけど、いつでも声かけてくれよ。俺も暇じゃないけど、君との時間は大事にしたいからさ」と軽く肩をすくめて言った。
その言葉に、桜子はまたしても胸が温かくなるのを感じた。彼は本当に自分のことを気にかけてくれているのだろうか?それともただの友人として?様々な感情が交差し、心の中で何度も問いかけてみるが、答えは出ない
別の日、桜子が社内の廊下を歩いていると、またしても佐伯が声をかけてきた。
「峰木、今帰るところ?バスターミナルまで一緒に帰らない」彼は手に持っていた書類をサッとまとめ、軽く笑いながら桜子の隣に並んだ。
「え、いいですけど…」桜子は一瞬戸惑いながらも、彼に誘われることが嬉しかった。
エレベーターに乗り込むと、二人きりの静寂が訪れた。桜子はその沈黙に耐えきれず、何か話さなければと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。自分の心の中ではいくつもの言葉が浮かんでくるが、口に出すことができない。
二人とも話をするタイミングがつかめずに無言の時間が過ぎていく。
エレベーターを降り、社外に出ると、冬の冷たい風が顔に当たった。桜子は思わず身震いし、コートの襟を立てた。そんな彼女を見て、佐伯がふと気遣うように言った。
「寒いだろ?何か温かいものでも飲んでいかないか?」
桜子はまた一瞬迷ったが、今度は素直に頷いた。「…はい、ぜひ」と言いかけたところで前々から入っていた予定を思い出してしまった。
「…ありがとう、佐伯くん。でも、今日はちょっと無理なんです。」桜子は申し訳なさそうに顔を伏せながら言った。心の中では、一緒に行きたいという気持ちが渦巻いていたが、今日は母親との約束があったのだ。久しぶりに母親と出かける予定をしていた。何よりも、家族との時間を大事にしなければならない。
佐伯は驚いたような表情を一瞬見せたが、すぐに笑顔に戻り、「そっか、残念だけど仕方ないよな。また今度誘うから、その時は是非!」と軽く返してくれた。
その言葉を聞いた桜子は、少しほっとしたものの、同時に胸の中に湧き上がる残念な気持ちを隠せなかった。今日こそ彼と少し特別な時間を過ごせるチャンスだったのに、自分から断ってしまったことに後悔が残る。桜子は、再び彼を見上げることができず、何か言いたいけれど、言葉が出てこない。
「…ありがとう、本当にごめんね。また、次の機会を楽しみにしてます。」桜子は小さな声で言い、無理に笑顔を作ったが、その裏には本当に一緒に行きたいという気持ちが隠れていた。
「気にしないで。またすぐに機会が来るさ。」佐伯は変わらずに優しい声で応じ、桜子の肩にそっと手を置いた、桜子はその優しさが胸に染みた。
佐伯とのやり取りが終わるたび、桜子は自分を責める気持ちでいっぱいだった。彼の優しさに触れるたびに、心の中に温かさが広がる。それでも、自分から一歩踏み出す勇気が持てずにいる。
その夜、桜子は再びあの夢を見る。いつものように、古い洋館が現れ、顔の見えない男性が手を振る。夢の中では不思議と安心感があり、彼女の心が癒される。しかし、目が覚めた瞬間、再び現実の厳しさが彼女に襲いかかってくる。
「私、どうすればいいんだろう…」彼女はベッドの中で静かに目を閉じ、佐伯との距離をどう埋めるべきかを考えていた。
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