第2話 後輩と嘘
「そういえば先輩、この前のテストどうでした?」
ある日の放課後、退屈の中でポツポツとくだらない話をしていた折に、至って何気なく
今日はテスト明けの最初の月曜日だ。つまり、答案の大半が返ってくる日である。
テストの結果を人に訊ねるのは、ある種の暴力に近いものなんじゃないかと俺は思うのだ。これは別に、俺の点数がいつも低いからどうだとかいう話ではなく、広く周知されるわけでもない個人の評定をむやみに暴こうとするのはいただけないものだなという立派な道徳観念からくる持論である。俺、きっと道徳のテストがあったら満点なのに。
「先輩、聞いてます?」
己の素晴らしい精神性に打ち震えていると、少し怪訝そうな
確かめるように視線を送ってくる鹿波の仕草や声音はちゃんとかわいげがあるのに、そこに込められた意図がまったくもってかわいくなかった。そう、この後輩は自分の明晰な頭脳と俺の普段の悲惨な答案を理解しているうえで、明確な悪意を持って俺の点数と自分の点数を比べようとしているのだった。俺が道徳の成績上位者なら
「ん、ああ。テストね。そういえば今日返ってきてたな」
ぼうっとしていて聞いてませんでした、みたいな顔を作ってそう返す。
こうして鹿波と話すのは少し久しぶりだった。この無意義すぎる時間は天文部の部活動という名目で成り立っているので、テスト期間中は鹿波と顔を合わせる機会がめっきりなくなるのだ。そうして訪れたテスト明けは、休止していた期間の分を取り戻すように好き放題言われてしまうのが俺の常だった。言葉にしてみると先輩としての威厳がどこにも見当たらなくて涙が出そうになる。
だが、今回の俺は一味違う。いつものように低い点数を晒して小馬鹿にされ、ご丁寧に後輩から問題の解説をされるだけの俺ではないのだ。「おお、そういうことか。鹿波、教えるの上手だな」とかつい言っちゃってそれはもう楽しそうにくすくすと笑われる俺はもういない。
俺はこの日のために絶え間ない努力を積み重ねてきた。連日徹夜で勉強をしようというモチベーションを朝から一日かけて練り上げ、そんな最高のモチベーションを保ったままぐっすりと就寝してしまう健康優良児な自分に呆れ果て、俺はついに重ねたのだ。
自分の点数がまともだったという風に、上手に見栄を張る努力を。
頬杖をつき、退屈そうに手元の漫画に目線を落としながら気怠げな顔を作る。
「今回は……まあぼちぼちだ。平均くらいは取れたんじゃねえの」
決まった。イメージトレーニングの甲斐もあり完璧である。今の俺は、どこか憂いを帯びた無気力系隠れ秀才キャラそのものであった。漫画ではなく純文学を読んでいて、虚勢が見抜かれないかひやひやしていなければもっと完璧だったのに、と内心で独り言ちる。
長机の右斜め前の席に座る鹿波がはあ、と小さく息を吐いた。
「嘘ですよね。先輩のことですから、どうせまた赤点をぎりぎり回避したくらいの点数でしょう。そして何故か数学だけ点数が高いんです」
「なんで? なんでわかるんだよ」
即答だった。俺の渾身の演技は鹿波に対して微塵も効果がなかった。スカした感じで「まあぼちぼちだ」とか言った自分が恥ずかしすぎる。そもそもどうして具体的な点数の内訳までバレてるんだ……。
「ちなみに私はいつもどおりの点数でしたよ。たぶん学年で二十番くらいのはずです」
「訊いてない」
「はあ、また先輩に勉強を教えてあげるはめになるなんて……面倒です」
「頼んでない」
「私が二年生の分の勉強も進めている優秀な後輩でよかったですね。まったく、残念な先輩を持つと大変です」
「言い返せない」
言い返せないし、ついでに先輩として情けないしみっともなかった。
うだつの上がらない自分を放り出したくなって、盛大に溜め息をつきながら項垂れた。斜め前の席に座る鹿波は俺と違い先程からずっと同じ姿勢で本を読んでいて、俺が読書の片手間であしらわれた感が凄まじいことになっている。伏し目がちな彼女の長い睫毛に縁取られた綺麗で非情熱的な黒い瞳がつまらなそうに活字を辿っていく。
「なあ、鹿波」と名前を呼ぶと、彼女が少し顔を上げてこちらへ目をやる。相変わらず見透かすみたいに透き通った目だな、なんて思いながら訊ねた。
「……あのさ、俺ってそんなに嘘が下手か?」
「下手ですね」
「えー……まじか……」
ラノベとかでよくある、教室の隅でニヒルを気取っている男子生徒は意外と心理戦が強い、の法則はどこにいってしまったんだ。ああいうのはここぞという場面で機転を利かせるからかっこいいのに、心理戦が弱く、そもそもここぞという場面が訪れてくれない俺はどうなってしまうんだ。
ただの皮肉屋かつ日陰者であるところの俺は苦し紛れに返す。
「……まあ、出ちゃうんだよな、嘘が苦手な正直者の心が。嘘をついてるとき心苦しいもん、俺。なんか胸がこう……ズキっっとするというか、ちくちくと痛むんだよなぁ。まるで……まるで小さな棘が埋まったみたいにさ」
「…………。…………そうですか」
物凄くめんどくさそうな顔をしながらも、最後に一応相槌を打ってくれるところが鹿波のいいところだと思いました。俺は自分の発言の嘘くささに乾いた笑いを零すしかできなかった。
「先輩、私を騙したいならもっと訓練が必要ですよ。……そう簡単に騙されてあげるつもりはありませんから」
何も気負わずさらりと鹿波は言う。
俺が鹿波に嘘をつく訓練をするというのはつまり、鹿波が俺の嘘を見抜く訓練を積んでしまうということと同義だ。もしかして俺は、隣で涼しい顔をして読書をしている鹿波の鉄仮面をいつまで経っても崩せないままなのだろうか。
「……不服そうですね、先輩」
「今、心の中で鹿波に対しての敗北を認めそうになってるからな」
そう口に出してしまったらもうそれは実質的な敗北宣言なんじゃないか、と言ってから思った。
「……よし、わかった」
「何がわかったんですか?」
不意に妙案が浮かんだ俺に、つらつらと小説の文字を追っていた鹿波がこちらを見て訊ねてくる。その視線を正面から受け、俺は言った。
「鹿波、俺に嘘をついてみてくれ」
「……」
呆れるみたいな沈黙の後、鹿波ははあ、と溜め息をついた。
「どうしてそうなるんですか……もしかして、互いに嘘も通じないくらい親密な間柄だという証明がしたいんですか?」
「違う、全然違うから。鹿波の言っていることが嘘か本当か言い当てて、俺が一方的に見透かされてるわけじゃないっていう証明がしたいだけだ」
「面倒ですね……まあ、いいですよ。私に嘘が通じなくて落ち込んでいる可哀想な先輩への救済措置としてつきあってあげます」
仕方がない、という感じを全身で醸し出しながら鹿波は言った。
「……今朝、朝食に目玉焼きを食べたんですけど、塩コショウをかけるか醤油をかけるかで少し迷って、結局醤油をかけて食べました。美味しかったです。……これは嘘と本当、どっちだと思いますか?」
「……そんなしょうもない二択を見抜いて俺になんの得があるっていうんだ。もっとこう、人が隠してる内心や秘密や真実を暴きたいんだよ俺は」
あくまで俺は心理戦をしたいのであって、決して、朝食の調味料に何を使ったかという家庭的でほのぼのとした事実を追求したいわけではない。
「……まあ、俺にはわかる。醤油を選んだのは本当だろ?」
「いえ、嘘ですよ。残念でしたね。私は塩コショウ派なので」
芽生えかけていたジャーナリズム精神が音を立てて崩れていった。こんなしょうもない二択すら暴けないのか俺は……。
「鹿波、次だ。もうちょっとまともな嘘をくれ」
「仕方ないですね。じゃあ……私が本を読んでいるときは、なるべく先輩と話したくないなと思っているときなんですよ」
「嘘だよな!? それが本当だとしたらお前はずっと俺と話したくないと思ってることになるんだが、それは嘘なんだよな!? 嘘だという答え以外聞きたくない! 嘘であってくれ!」
もしそれが嘘じゃないならあまりにも世界が残酷すぎて咽び泣いてしまう。
「ええ、もちろん嘘ですよ。先輩と話すのが嫌だったらそもそもここに来てないです。正解ですね、おめでとうございます」
少しも表情を変えず、人の気も知らない鹿波は軽く拍手をする。
鹿波がそんな奴ではないと知っているが、それでも些か心臓に悪い嘘だった。それに、今のは俺が推察して本当か嘘か当てたというより、嘘であってほしいという俺の切実な願いがなんとか叶っていただけだ。これでは嘘をついてもらっている本分を少しも果たせていない。
気づくと、一人で騒いでいる俺を放っておいて鹿波はまた文庫本に目を落としていた。これ以上俺と話したくないという意思表示だろうか……。黙々と、けれども冷めた目で読書をする彼女に、非常に申し訳ないと思いながら声をかける。
「あの、鹿波さん。もうちょっとこう、退屈じゃないくらいに刺激的で、かつあんまり俺が傷つかないような心に優しい感じの嘘とか、ついてもらえないでしょうか……」
なんだか、非常に情けない構図になっているような気がしてならないのだが気のせいだろうか。気のせいであってほしいな……。
「ええ……なんですかその注文は。適当な嘘を考えるのも一苦労なんですよ。まったく、これだから先輩は……」
到底先輩を見ているとは思えない眼差しで鹿波が呆れていた。
「先輩は本当に仕方のない人ですね」
「う……まあ、はい……」
それくらいの酷評は甘んじて受け入れるしかない。全ては鹿波の嘘を見抜くためだ。それに、残念ながら相当面倒なことをしている自覚もあった。
それから、さらに鹿波が口を開く気配を感じたので、どんな罵倒が飛び出してくるのかと俺は身構える。
そんな俺の様子に気づいて、鹿波はふと、少しだけ笑った。そして、「でも」と続けた。
「先輩は仕方のない人ですけど、私はそんな仕方のない先輩と過ごす時間が案外気に入っているんですよ」
何も飾らず、何気なく、本当にぽつりと鹿波はそう言った。
「このまま……そうですね、このままずっとこんな時間が続いてくれたらいいなと思っているくらいです。たまに、先輩との会話を思い出して少しだけ笑っちゃうことだってあるんですから」
いつも退屈そうで冷たいその目が、ほんの少しだけ温かみを持って優しく細められる。
上手く言葉が出なくて、息苦しいみたいな感覚に襲われた。苦しいくらいに恥ずかしくて、それでも嫌ではなかった。首に体中の熱が集まったみたいな感覚がする。
「……さて。先輩、これは嘘と本当、どっちだと思いますか?」
僅かな悪戯っぽさだけをその瞳に湛えて、無表情のまま淡々と鹿波は言った。
「う、嘘だろ……うん、嘘だな……」
それはもはや、推量という体裁すら保てていなかったかもしれない。
「惜しいですね。部分的に嘘、ですよ。先輩、不正解です」
残念でしたね、と心なしか楽しげに鹿波は呟いた。その時点で、鹿波に嘘をつくのも鹿波の嘘を見抜くのもどうでもよくなってしまった。もう一生心理戦で鹿波に勝てない気がしたし、それでもどうせ、愚かで仕方がなく面倒な人間であるところの自分は、そんな後輩との時間を結局は楽しんでいるのだろうから。
「部分的って……そういう嘘のつき方もあるのか。……まあ確かに、この時間を思い返して鹿波が一人で笑うはずがないしな」
苦笑しながら俺はそう言って、くすぐったさを誤魔化すみたいに窓の外の夕陽へ目をやる。
「けどまあ、少なくとも、この時間が続けばいいと思ってくれてるのは本当だろ? ……それならよかったよ」
そう言ってしまうのが妙に照れくさかった。素直に言えてよかった、とも思った。
「……勝手にそうやって納得していてください、嘘が下手で間抜けな先輩」
「あれ!? なんで不機嫌になったんだ!? 俺ちょっといいこと言ってなかったか!?」
何故か機嫌を損ねてしまって、鹿波はしばらく目を合わせてくれなかった。いい雰囲気で放った俺の名言より小説のほうが遙かに魅力的なようだった。泣きそう。
◇◇◇◇◇
「じゃあ、私の嘘を見抜けなかった間抜けな先輩は罰として勉強をしてください。わからないところがあったら私が教えてあげるので」
「罰があったのか……それ、もし俺が嘘か本当か見抜けてたらどうなってたんだ?」
「ご褒美として勉強を教えてあげていました」
「どのみち勉強から逃れられねえじゃねえか……」
「嫌でしたか?」
「……まあ、どのみち勉強はしなきゃならないし、鹿波が教えてくれるのはありがたいからな。全然嫌なんかじゃないさ。ただちょっと嫌なだけだ」
「どっちですか……」
しばらく互いに本や漫画を読み耽っていた後、本を読み終えたらしい鹿波との間でそんな会話があって、俺は鹿波に勉強を見てもらうことになった。
「じゃあ先輩、お隣失礼します」
そう言って向かいの席から立ち上がった鹿波は長机のこちら側へ回り、隣の椅子を引いた。そして、スカートを抑えながら丁寧な所作で座ると、俺が積んでいた数冊の漫画をずらしてスペースを作った。
ふわりと、自然に好ましい香りがした。鹿波が自分の手入れを欠かさない綺麗な女子なのだと、改めて強く意識する。バレないよう少しだけ身を捩る。
「いつも言ってますけど、先輩、要領が悪いってわけじゃないんですからちゃんと勉強したらどうですか? それとも、毎回私に教えてもらうためにわざと勉強してないんですか?」
「まずその俺がお前を好きだという前提の解釈をやめろ。……けど、そうなんだよな。別に俺は愚かってわけじゃないんだ。……いつも勉強したいのは山々なんだけどなぁ。こう、取り掛かるまでが大変というか、いざ机と向き合ってもすぐに眠くなってくるというか……」
「その反省を活かして眠気の対策をしたらいいじゃないですか」
「俺は宵越しの悩みは持たねえ」
「愚か者じゃないですか。念のため言っておきますけど、かっこよくないですからね、それ」
「えー……」
そんな会話をしながら、教科書やら問題用紙やら、テストの復習などに必要な物を長机の上に並べていく。
「……ふふ。先輩の答案用紙、わからないなりに頑張って空白を埋めた感じが溢れてて面白いですね」
「おい、人の努力を笑うんじゃない」
ちなみに、努力というよりは悪あがきだという自覚はある。
「馬鹿にしたわけじゃないですよ。一応諦めずに考えてみるのが先輩らしいなと思っただけです。偉いですね、先輩」
隣の席に鹿波がいるというのはいつまでも慣れない。「ああ」と「おう」の中間みたいな生返事をしてから、俺と鹿波は勉強に取り掛かった。
勉強を教えてくれているときの鹿波は至って真面目だ。少なくとも、俺の集中が続いている限り、向こうからそれを乱してくることはない。俺が何か質問をすればわかりやすく説明してくれるし、適宜教科書に書かれていないような解説までしてくれる。しばらくの間、部室には真面目に問題と向き合う会話やペンの走る音だけが響いていた。校庭から届くバッティング音や体育館のホイッスルは全部遠い世界の喧騒みたいだった。
やがて、下校時刻のチャイムが鳴った。それをきっかけに、俺も鹿波も肩の力を抜いた。
「お疲れさまでした、先輩」
「いやいや、こっちこそありがとう。わかりやすくて本当に助かった。そうだ、一緒に昇降口まで行こうぜ。飲み物でも奢らせてくれ」
「はい」
一緒に帰ろう、とは言わなかった。真逆というほど違うわけではないが、帰る方向が別だ。それに、並んで下校ができるほど俺たちの関係値は強固じゃない。俺と鹿波は友達でもなく恋人でもなく、この部室に身を寄せ合うはぐれ者同士でしかなかったから。一緒に帰る適切な理由が見当たらなかったのだ。
広げていた漫画やプリントなどを鞄の中に仕舞い、帰り支度をしながら適当な話をする。
「俺、次のテストはいける気がする」
「たったこれだけの勉強でいけると思わないでください」
「いや、次は反省を活かして事前に勉強するから」
「宵越しの悩み、しっかり持ってるじゃないですか……」
荷物を纏め、窓の戸締りをして、部室の鍵を閉める。
「まあ、勉強をするのはいいことです。先輩はもっと学ぶべきだと思いますよ、乙女心とか」
「……もしかして、俺がモテないっていう悪口?」
「もしかしなくても悪口ですよ」
すっかり人気のなくなった校舎の外れで、西日に染まる廊下を並んで歩く。部活終わりの生徒たちが校門を出て散らばっていくのが窓から見えた。こうして関係のよくわからない毒舌系後輩少女と過ごす変な青春を今一度変だと自覚して、別にいいか、なんて開き直った。
「それと、言い忘れていたんですけど……先輩が思ってるより、もっとずっと部分的だと思いますよ」
「……ん、部分的? 何が? あ、テスト範囲の話?」
「……先輩の察しが悪いという話です」
「え!? あれ!? なんでまた不機嫌になったの!? 鹿波さん!?」
すたすたと歩いていく鹿波を追うこんな時間も、自販機の前で律儀に待っていた彼女を見て笑ってしまってまた怒らせてしまう時間も、それはそれで楽しかったから。
俺たちの青春はこれでいいのだと、そう思った。
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