第2話 証し、神様と出会った瞬間

僕の牧師は、少し変わった経歴を持っている。

家は代々仏教の家系で、普通の短大を卒業し、接客業をし、その後、再度看護学校を働きながら卒業、いくつかの病院を転々としながら、最後の職場にたどり着いたのだとか。

そこで出会った堺 恵さんという少し年上の同僚との出会いが僕の牧師の人生を大きく変えた。

仕事の休憩中に、「私の周辺に子どももいないし、彼氏もいないから、今年のクリスマスも一人です。」と若かりし頃の市原が言うと、

「じゃあ、うちのクリスマス会に来ますか?でも、うちはクリスチャンだから、少し思っているクリスマス会じゃないかもしれませんが。」と堺が言う。

「行って良いんですか?」と行って出会ったのが、尊敬する樫原牧師だった。ユーモアに溢れ、壺やネックレスを買っても神様の救いはない、毎日の平安を感謝し、穏やかに過ごせることこそ神様からの恵みです、と宗教のあり方を新人信仰者に教えてくれたことがきっかけで、キリスト教に興味を持ったのが始まりだったとはなしていた。


「おはようございます。時子さん、いつも美味しい朝食をありがとうございます。今日も、みんなと一緒に温かい食事を食べられることに感謝いたします。主イエス キリストの名前を通してお祈りいたします。アーメン。」

私たちの教会は、本来の教会と少し異なっている。本来、教会は、仏教と同じように宗派というのがある。簡単にいえば、浄土真宗と真言宗が違うように、少しずつ違いがある。最も日本でわかりやすいのは、カトリックとプロテスタントでしょうか?

もちろん、すごく違うわけではない。カトリック教会はイエス様が十字架にかけられており、神父様がおり、修道女や修道士が、自分のすべてを神様に捧げるという考えと言えばわかりやすいでしょうか?逆に、プロテスタントは牧師という職業で、結婚や普通の暮らしの中に神様のために働く、というような感じでしょうか?

つまり、プロテスタントの教会には、十字架はありますが、イエス様はそこにかかっておらず、すでに復活され、わたしたちとともに生きておられる、という考えである。

そして、そのプロテスタントもたくさんの宗派があり、教会を建てるということは、大変な資金や信徒の方が必要だったのです。しかし、この淡路ビリーブ教会は、牧師がいない状態で、数年経過していたこともあり、別の宗派の教会から了承を得て、住むこと、礼拝や催事などを行うことなどしながら、今の状態になっているのです。

牧師がいない教会は、田舎の方は、この状態の無牧の教会が増えています。


今日は、昼食後にモーニングセットを行います。時子さん、総ちゃん、無理のない程度でお願いします。


僕の牧師は、高齢の独居のかたなどに声をかけ、トーストとサラダ、コーヒーのシンプルなモーニングに少しだけお祈りを入れた、その名もモーニングセットをしている。価格は、その人達にお任せで、献金という形でしている地域ボランティアをかねた生存確認みたいなことをしている。始めた頃は、宗教も絡んでいるので、近隣の人からの評判はいまいちだったが、時子さんに救われた。

時子さんは、一人暮らしの女性でこの地域に知り合いが少なく、独居の高齢女性だった。子どもはいるものの車で3時間以上かかる県外の人だった。独りでいることで不安が増し、今のはやりの老年期うつ病と不安障害が大きかった。時子さんは、年齢はいっているものの、足恋は丈夫だったので、介護保険が使えない状態だった。あまりの不安で、夜間によく教会に電話がかかっていた。そこで、私達は時子さんに教会の使っていない一室を不安なときにだけ使用することを提案したのだが、私はクリスチャンになる気はないと怒られた。教会は、クリスチャンだけで集まらなくて良いのでは、ということを説明し、不安なときにだけ夜間でも昼間でも来ることを説明した。すると、翌日から毎日のように来るようになった。私達は、彼女に伝えた。もしよければ朝のご飯だけでも一緒に食べませんか、と。彼女は、それ以来朝食を準備してくれるようになり、少しずつ自分の居場所になっていき、やがて空室に泊まるようになっていった。時子さんは、周辺の高齢者に挨拶し、自分の経緯なんかを話すようになり、やがて教会は、高齢者の集まれるところとして開放するようになった。教会で、コーヒーを飲み、みんなでお菓子を持ち寄り、それを皮切りにモーニングセットなるものを始めた。

その時には、近隣の人やその知り合いなる人達が集まるようになり、喫茶店のような状態にまでなってきた。

僕の牧師はこう言った。「いつも扉は開かれています。」と。

いつも来てくれる最高齢の白瀬のおじいちゃんは、もちろんクリスチャンじゃないが、モーニングセットを楽しみにしてくれている。

「和紙が生きてるか、牧師の先生が確認してくれてるので、安心して一人暮らしができるよ。感謝している。」と笑いながらパンをかじる。そして、ここに来てくれる高齢の人から、何で牧師になったのか聞かれるのが日課のようになっている。

「私は、夜勤の後に、よく見ていたテレビがあったんです。そのテレビの中で、神様はあなたに期待しています。でも、偉そうにしたり、出しゃばったりしてはいけません。いつも縁の下の力持ちでなくてはいけません。また、時が来たらとか機が熟したらといって、待つのでは、今できる範囲の最大のことをすることを望まれています。という言葉が、その番組の中で流れてきました。私は、この言葉こそが、神様が私に語りかけてきた最初の御言葉だと思いました。しかし、私の尊敬する樫原牧師に聞いてもそれは聖書の言葉ではない、と言われました。その後出会った別の牧師からは、それは有名な外国人牧師の著書に出てくる内容によく似ていると教えてもらいました。つまり、これが私の本当の始まりの神様の言葉なのです。聖書は正しく、奇跡であり、真実です。でも、初めて聖書を手に取った方ならわかるはずです。どうやって読むのかわからない、と。だからこそ、牧師がその正しい聖書の理解の仕方を教えていくべきなんです。本当の素晴らしい牧師ならば聖書は素晴らしいものだと言うでしょう。でも、私は、私を導いてくれたこの言葉こそ、神様のkと場だと信じています。だから、私は今ここに皆様と一緒に過ごすことができているんです。」

僕の牧師は、いつもこの話をすると、幸せそうな表情で思い出しなが微笑むのです。このことで、初診を思い出しているのでしょうか?

「これが私の証しです。」と締めくくり、いつか、誰かの証しが聞けるのを楽しみにしているのかもしれません。僕の牧師は、モーニングセットを楽しんでいるみんなに囲まれて、時子さんと一緒に下膳した食器を洗っている。

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