⓾ なかよし枢老院と英雄のなかよし組合員
しゃら、と庶民ではまず手にできない上質の漉き紙が置かれ、二色の色油壺と筆が並ぶ。
「えぇと?・・・・どうしたらいいのかしら?」
旧『ファウナ』とシクボ側教会系との間で交わされた同盟ではややこしい手続きなどこなしたことがなかったのだ。
「シクロロン、ここに貴公の信念と願いを書けばよい。
署名は枢老院が議決し賛同を得た後、代表として院長の名が記される。貴公はその時に院長名へ少し重なるように書くのが一般的な手順となるな。
しかしカセイン・・いやカセイン相談番か。貴公の本気がよく伺える。
この上白紙といい文面一任の形式といい、ふふ、こういっては角も立つだろうがまるで枢老院が『なかよし組合』に適従しているかのような丁重ぶりではないか。」
一夜明け気もはやる中とはいえ「文面一任」という、いわば「あんたの考えを書いて。可否ニ択で決めるから」という協議ではない形式を取られれば応じる時間はあった。
通常は当然両者が折衝を重ねて承服できる文言へと研ぎ澄まして署名、という流れなのだが思想信条や条件その他が一方の主張から反れない場合、そして相手側に重心がある場合はこの形式が採られる。
つまり議会のメンツだけは保てるよう「可否ニ択」を採決するものの、文面を一任した相手側の要求を丸呑みにする、という平伏にも似た合意なのだ。
しかしこれも立派な正式文書、というわけで慣例の色油が用いられている。
乾くまでに時間の掛かる色油を連名で署名する際、前者の名前に少し重なるよう違う色で名を連ねると色が混ざるため、偽造防止が見込めるという昔ながらの作法だった。
「口は慎んでもらわねばなスナロア。クク、だが喩えは間違っておるまいよ。
今の枢老院にスナロア御意見役やシクボ相談番がいる『なかよし組合』より伸ばされた手を払う度胸などありはせぬ。
またシクロロン組合長に共鳴した村の民の生の声はためらいすらも許さぬだろう。
とはいえ向こうも歴史と威厳があるからな、花を持たせる意味でもこれくらいの手間は掛けてやらねばなるまい。
保身の保守で尻込みに慣れたああいう連中からきちんと変えていかねば遠くない将来にどこかで袂を分かつことにもなろう。
「護る保守」の枢老院と、「守る保守」の『フロラ』のようなつまらぬ分断でこれ以上ユクジモ人を離れさせてはならぬはず。もう、まとまらねばならぬ時なのだ。
まとまり、そしてファウナ系人種と共にあれる未来へ散ってもらわねば。」
伝統や慣習、風習や信仰。
他種他部族と交わればそれらはやがて消えてしまうものかもしれない。
だが、それらを護る者たち「そのもの」が消えてしまうのとどちらが大切だろうか。
消されずに居残り、「護るだけに拘泥するユクジモ人社会」から出てゆく者たちをどれだけ食い止めることができるだろうか。
外へ出てみたい者が疎まれず、しかし自文化だけは強硬に守る、といった奇跡の一手などありはしない。
だから賭けてみるしかないのだ。
他と分かち合ってなお残る確かな伝承が、確かに残していけるものと信じて。
「・・・いいのかしら。私なんかで、・・・スナロア御意見役が書かれたらいいのに。」
完全にわかり合ったわけでもない状況下で、わかり合うために示す文面を前に不安を覚えるシクロロンは油筆を置く。
「シクロロン、手を取り合うこととは、相手のために片手を失うことです。
今まで両手で抱え、手に入れ、支えてきたことを、その後は片手だけで行うということなのです。そこには当然、不具合が出ますね?
しかし、使えなくなった片手は機能を失いますが、相手と繋がれたことで新たな世界を報せます。
あたたかい、ということ。
力強い、ということ。
心強い、ということ。
ひとりではない、ということ。
それは、決して両手を用いても触れられない世界です。
シクロロン、あ、シクロロン組合長。
決断なさい。
必ず不自由が生じること、必ず不都合が生じること、必ず不具合が生じること、そして必ず不和が生じることを知って。
それでも、決断なさい。
私はもとよりスナロア御意見役もカセイン相談番もそれを承知で、しかしその先にある「なかよし」の世界を信じ、そしてあなたに託しているのです。
重責です。
ですがあなたは必ずそれを背負い歩き通せるはずですよ。
ふふ、シクロロン。大丈夫。私たちが信じたあなたです。大丈夫。」
これまでが「お遊び」だなどとは思っていなかった。
だがシクボの諭す本当の、本来の、そして手を取り合えない最大の根源である「なかよくなれない可能性」にシクロロンは臆する。
それでも、自分を、その夢物語のような理想を信じてくれる者が確かに目の前にいる。
「両手」を使えば拒める話。
誰かがやってよ、と「両手」で拒めば済む話。
『なかよし組合』のスナロアにでも任せ、一介の少女に戻れば済む話。
しかし、重責が勝手についてくるその手を、理解者たちと繋がれたその手を離したくはなかった。
やってのけたかった。
繋がれた意志を、想いを、願いを込めた
頼りない「片手」ひとつで。
「はい・・・・・・はいっ!」
そう言ってユクジモ社会で重宝されている木の実の油を使った真っ青なインクに筆を浸けると、シクロロンは逞しく、雄々しくその決意を書き下した。
だが。
「・・・字は、苦手のようなのだな。」
「・・・行が脈打つのは、いかがかとは思うが。」
「・・・シクロロン、その下に署名を二人分も入れるんですよ?」
捕れたての魚のように元気いっぱい踊る文字におじーちゃんたち大心配。
それでも本人はノリノリだ。
「できたぁっ!」
そして、えっへん!と突き出したのは目を細めると絵に見えなくもない「作品」だった。
「・・・多少の誤字は、まぁ、なんとかなるか。」
「・・・文脈で読めば、まぁ、なんとか。」
「・・・詰めて書けば、まぁ、なんとかなるでしょうかね。」
せっかくだからしゃべり方まで揃ってくる三賢人。おもしろくなってきたのだろう。
「それにしてもこの色油はするするしてて書き心地がいいですね、村の特産かしら―――」
とそこへ。
「失礼しますっ! こ・・・こちらに、『フロラ』が向かっていると・・・」
どたどたどた、っと走り込んできた青年は息を切らせて声を絞る。
「なんと! シクロ・・・いや、まずあのハネっ返りに知られると事が面倒に―――――」
別室にてボロウと待機しているルマを懸念してカセインが応えると同時に、
「クックックックック。あーっはっはっはっは。そうか。やはり俺のツキは失われたわけではなかったということだなぁーっはっはっはっはっ!」
出てきちゃう。
「こら反抗期っ!・・・っつ、すみません御意見役、村を歩くって聞かなくって、そこで・・・」
ルマの面倒を見るハメになっていたボロウがその後に続くも、これから確実に巻き起こる「面倒」はもう総力戦で見るしかなさそうだ。
「大丈夫です、ボロウお手伝い長。もう心配はいりません。
見てくださいよこの正式文書っ! きれいに収まったでしょ? ちょっと途中から字が小さくなっちゃったんだけど、ほら、ココとかちょっと間違えたけど、ね? 別に変じゃないでしょ?
というわけですっ! これから『フロラ』に会って連名で署名させますっ!」
どのスペースにっ!との心の大合唱が無音の世界に響く中、シクロロンはぴらりとその妥協とゴマカシの結晶を振り翳す。
「・・・な、なんと、議決無視でその上『フロラ』も、ということか?
・・・ククク、ハっハっハっハ。これはいいっ!
もうわかった、それでいくことにすまいかっ!
スナロア、シクボ相談番、ハっハっハっハ。ならばワタシの責務は決まったな。」
吹っ切れてしまったのか、本邦初公開のカセインがバカ笑いして席を立つ。
「何をする気だカセインっ! この俺を得た『フロラ』に『なかよし組合』が――――」
「どうなるか見させてもらうぞ。ハっハっハ。」
そう言ってルマとボロウの間を抜けるカセインはそのまま枢老院議会へと歩いていった。
「はは、気のせいかみんなよく笑うよなぁ。笑うようになった、ってことなのかな?」
そう呟くボロウの視線の先にはなんのこっちゃよく分かっていないシクロロンがいる。
「フン。笑いが平和の象徴とでも言うつもりか? くだらん。」
ルマとしては『フロラ』と合流できるかどうかも怪しい中、『なかよし組合』と協定を結ぶ予定の枢老院との対峙は難局でしかない。
この状況下であってもスナロアはおろかカセインすらも味方に付けられていないのだから、今の自分はハクが言っていたように捕虜でしかないのだ。
「わかっているではないかルマ。ただカセインの場合はちと・・・
さておきシクロロン組合長、その決意に淀みはないのであろう?
ならば迎えるとしよう、我らの長の信念を胸に『フロラ木の契約団』を。」
まだまだどーんと見せびらかす書面には
「みんなでなかよくげんきにたのしくいっぱいわらってなかよくくらせるようにします」
と書いてある。
これほど短い文章に二度も同じ表現を使うわ、大きな紙にもう余白がないわとかなり自由奔放に文字が暴れていたものの、内容が実にシンプルなため首を横に振らせないという点ではこれに勝る誓約書はないだろう。
「スナロア、急ぐのでは?・・・いえ、なんでもありません。私も出ましょう。」
ユクジモ人独立組織『フロラ』との協定はどうあれ、枢老院とはほぼ決着したようなものだ。
だが、敵対する、と言って過言ではない『フロラ』との話し合いは枢老院よりもっと掘り下げた禍根との対峙になる。
できれば後回しにしたい事態なのに、シクロロンもスナロアも目の前に立ちはだかる壁を一枚一枚突き破って進むと決めているようだ。
「あれは厄介だから」「これは根深いから」「それはこっちを片付けてから」で棚上げにされた果てが「今」なのだ。
面倒でも億劫でも大変でも大義の前の細事でも、目を反らし退けては、いつか見た将来である今と同じものを将来に見なければならなくなる。
変えたいのならば、慣例から手順から定説から常識まで丸ごと変えねば叶うはずもない。
「言うまでもないけどね、君も来るんだルマくん。わずかな間とはいえ君が見たもの触れたもの、感じたものは紛れもない真実だろう?
それを抱いて、そして君は君の役割を果たすんだ。
少なくとも君は愚かではなく、知らなかっただけなんだからね。ふふ。」
会議室を出るスナロア・シクボを見送り、ボロウがルマの背を押してそう告げる。
「知らなかった」で済ませるには目に余る言動と行動も、今それを裁いて吊るし上げたとて何ももたらしはしない。
旧『ファウナ』と『フロラ』の和解交渉決裂や、アヒオ・タチバミを見殺しにしなければならなくなった「リドミコの素性の暴露」。それも今のルマならば意味と重みを理解できると信じ、誰もルマを拘束せよとは言わなかった。
「フンっ! 情けで解決が図れるはずもない。
・・・俺は、俺の信じるやり方でユクジモ人を救ってみせるだけだ。」
懐にはまだ短剣がある。
しかし最後に出てきたシクロロンとすれ違う距離で放ったのは、攻撃の一手ではなく決意だった。
「ルマさん。情けだけで解決へは導けません。信じるものを共に信じ合わねば。できぬことでもできると信じ抜かねば。
私も私の信じるやり方で救ってみせますよ。ユクジモ人も、困ったヒトたちも。」
彼女に余裕などなかったが、そこにはうっすらと笑みに似た朗らかな表情がほどかれている。皮肉にもルマと同じセリフを口にするとはシクロロンも思っていなかったのだろう。
「さ、行くぞルマくん。これから目にする舞台は後に「歴史」と呼ばれるものになる。
おれでは立ち入れない。それは赦された者だけが言葉と結末を残す領域だ。
そのつもりで来るんだ。」
そう言い放ち、ボロウはシクロロンの後を追う。
「・・・当然だ。」
なぜか自分を気に掛けるように話すボロウの背に、小さくぼそりとやる。
どれもこれも、思っていたのと違いすぎて。
ざっざっざ・・・
「うーわー。こりゃハクさんがいたら間違いなく「おうちに帰ろう」宣言が聞けたな。」
ユクジモ人の村で『フロラ』による武力行使はまずあり得ないことだったが、だからこそ住民には退避を敢えて言い渡さず遠巻きに聴衆となるようそれとなく伝えておいた。
また同じユクジモ人とはいえ過激派である『フロラ』の突然の来訪に、枢老院議員もカセインに連れられ事態を注視している。
この交渉がどう転ぶかまだ読めないながらもこうしてヒトを集めたのは、こちら『なかよし組合』としては裏切る確率一〇〇%の組合員を除くとシクロロン・スナロア・シクボ・カセイン・ボロウの五人しかいないという点がネックになってしまうからだろう。
「なに、案ずることもあるまい組合長。兵は兵。率いているのはキビジ一人で他に知恵を貸す者もない。
有利しかないこの状況も、しかしそれがそのまま成功を意味するわけでもないのがヒトとヒトのかかずらい。
・・・とはいえ逃げ帰ってきた者とこれから立ち向かう者との覚悟の差は歴然だな。」
枢老院も村の民も味方と呼んで間違いはない。
だが、だから『フロラ』も仲間になるとは限らない。
追い払うだけなら容易くとも、おめおめ戻ってきた劣等感ばかりの相手と心を通わせるのは難儀とカセインも思ったのだろう。
「シクロロン、私はあなたの思いはヒトの心に届くものだと知っています。聞き及んだシオンでの和平交渉も彼らには何かを伝えていたはず。巨岩をも穿つのが水。巨岩をも削るのが風。
この日に叶わずとも、あなたの連ね束ねた千の万の言葉は必ず水のように風のように形を変えてその壁を貫き内奥へと光を運びます。
私は、それを知っているのです、シクロロン。いえ、シクロロン組合長。ふふ。」
たった四人を背に進み出るシクロロンへ、支えるようあたためるようシクボは言葉を選ぶ。
「シクロロン、私たちにすがらぬ強き者よ、ただ信じよ。疑う者であっては神でなくとも見限りたくもなる。
羽ばたけ、シクロロン。その大きな翅は私たちを理想の園へと導く翼なのだ。
・・・さ、準備はよいな。」
凛と佇むスナロアがそっとシクロロンに声を掛ける。
「はい。」
縮こまっていた心と同様に折り畳まれた翅はしかし、そこで大きく伸びをする。
「・・・うむ。
清聴願いたいっ! 私の名はスナロアっ! そなたら『フロラ木の契約団』との交渉を望む者っ!
これにあるシクボ、カセイン、ボロウも同じっ! 私たちは『ファウナ革命戦線』より袂を分かち新たな意志と願いで繋がれた『なかよし組合』っ!
突然の無礼を承知で我が長・シクロロンとの対話を求めるっ!」
再びザワザワとどよめきが立つ。
民衆はその圧倒的でありながらもどこか心地よい声の主に改めて畏敬を覚え、存命であることをキビジより聞いていた『フロラ』は状況からその男が本物のスナロアであることに気遅れする。
「ならばわたしが応じようスナロアっ!」
そこで怖気づく兵の動揺を感じたキビジが間髪入れずに前へ出る。
背の割に大きく自信に満ちた声は彼らにとっても最後の砦だった。
なによりスナロアの隣で何も言わずただ腕を組むだけのルマを取り返すには、そして同時に『フロラ』の正義をユクジモ人に再認識させるには、民衆が、枢老院が、スナロアが、カセインが、シクボが見つめるこの機に乗じるしかなかった。
「相手は私です、キビジさん。・・・さ、ルマさんもこちらへ来て。」
なにっ?と怪訝な顔をするキビジとルマ。
カードとして使えるものを片っ端から捨てて丸腰になってから話を始める、というスタイルがシクロロンの信条と知るスナロアたちは微動だにせずただ彼らの長に目を向ける。
「フンっ!・・・・見ての通りだキビジ。俺は捕虜。・・・何も言えん。」
そう放つルマの姿に驚いたのはむしろ『フロラ』やキビジだった。
黒も白と言い張る自信家のルマが、およそ恥でしかない己の立場を兵の前で告げるなど今まででは考えられなかった事だから。
「いえ、ルマさんは『フロラ』へ戻ってくれてかまいませんよ。
確かに現・連絡長のハクがあなたを「捕虜だ」とは言いましたが私はそう思っていませんから。・・・ええ、かまいませんよ。」
コイツどこまで自分を不利に立たせるんだ、と疑うルマにシクロロンは一歩下がって道を譲る。
情けで返されては帰れないであろうルマへの、それはシクロロンの配慮でもある。
「・・・後悔するぞ、シクロロン。」
迂闊ながらもなぜかするりとその名が口を伝い、それを隠すようにルマは『フロラ』へと歩き出す。
このせっかくの「総代の帰還」にも『フロラ』はただただ唖然とするばかりだ。
「・・・ふぅ。これでちゃんと長同士の話し合いができますね、ルマさん。ふふ。
申し遅れました、『フロラ』のみなさんっ!
私はこの『なかよし組合』の組合長であるシクロロンと言いますっ! 前回は『ファウナ』の総長でしたがスナロア御意見役が説明したとおり今は別の組織として声を広げていますっ!」
なるほどキビジを説き伏せても「長の代理」で反故にされては二度手間だな、とおじーちゃんズとボロウは感心する。
一方の『フロラ』はスナロアに付けられた微妙な肩書きが無性に気になる模様。
「思っていたより利口なようだな元・『ファウナ』総長。
しかしルマ様を拘束し名の通った者たちを寄せ集めたとて所詮は付け焼刃。見ればユクジモ人までも節操無く抱き込んだようだが信念で結ばれる我らとは志が違うのだっ!
あの時と同じようにベタベタと慣れ合えと申すのならこれにて終いだファウナ人っ!」
敢えてシクロロンの以前の肩書きを用いるあたりが反感浮揚の典型か。
しかし手垢のついた常套句でも紋切り型の罵詈雑言でも今は手繰って引き寄せて使い回さねば苦しかった。
なまじ『なかよし組合』の側に付いたスナロアたちをヘタに辱める言動を取れば民衆が敵意を持ち「枢老院票の獲得」が遠ざかるだけなのだから。
「いいえ。あの時と同じように私は言います、キビジさん。何度でも何度でも。
ルマさんはもう知っていますね、私たち『なかよし組合』は枢老院より文面一任を仰せつかっています。まだどうもこれでは不完全らしいのですが、議会とか面倒なのでここで署名してほしいと思っています。
そしてだから『フロラ』にも、ルマさん、あなたにも名を連ねてほしいのですっ!」
ばーん、ともう一人も名前が書けそうもない生乾きの書面をシクロロンは空に翳す。
ただ他の者、とりわけ議員たちは「面倒なので」の一言に意気消沈気味だ。
「ククク、事もなげに言ってくれるなシクロロンっ! 文面一任を預かったとはいえ枢老院をこうまで軽視するお前になど誰が信用をくれてやれるっ!
お前は昨日聞いていたはずだっ! ユクジモ人が背負ってきた史実をなっ!
ひと時の感情に訴え民を惑わしたからこその枢老院よりの歩み寄りを、お前は自分で踏みにじっているのだぞっ!
まったく、何様だと思っている。枢老院が頭を垂れたのはお前ではなく民だっ!
そして民はやがて気付くだろう、俺たち『フロラ木の契約団』こそがユクジモの未来を誰より考えその地位を、その風土を、その高潔を、その心を守り抜くことができるはずだとなっ!」
しゃがれた邪悪な声は、だからヒトの心を熱くたぎらせる響きがあった。
心を駆らせる昂揚を与えるならばルマの声はうってつけだ。
「ルマよ、そろそろ気付いてはどうだ。枢老院はひと時の感情に溺れた民の票欲しさに愚かな判断を下すほど呆けてはおらぬぞ。」
「キビジが出るならおれも出るもん」みたいな感じでスナロアも後ろから声を張る。
しかしそれはまるで焚きつけられた炎を朝露で勢いを削ぐように響き、静謐な美声は次の言葉の布石となる。
「そうですねスナロア御意見役。でも私の言葉が軽はずみだったのであれば謝ります。すみません、枢老院のみなさん。
ただ、私は枢老院の方々の議決も大事ですけど、それよりもユクジモ人のみなさんの決定にこそ従いたいのです。
例えばもしこれがひと時の感情であったのなら、やがてここにいるみなさんの心が離れたのなら、その時は「枢老院が良しとしているのに、民が悪しと判断している」状態になりますよね? 一時的であっても。
私はそんな信用はいりません。
書面は大切ですが、それで縛ってそれに縛られていては変わりゆくヒトの営み、その将来に足並みを揃えることはできないと思うのです。
だから私、いま思いついたのですけど、ここにみなさんの署名をするってどうですか?
ふふ、きっとどこに誰が書いたかなんてわからなくなってしまうけれど、でも「書いた」ってことは憶えているでしょう?
反対、と思うならそう書いてください。結局は多数の意見や署名に呑まれてしまうでしょうけど、書いたことは憶えているし、他の方も知ってくれているはずです。
みんなが意見を言って、反対もあって、でもそうやって知ることが大切なんじゃないでしょうか。
ふふ、そうすればルマさん、あなたもここへ署名できるでしょう?
反対でもいいんです。みんなでやることが大事なんです。」
もうカセインすらも頭を抱える大提案。
思わず噴き出すシクボや堪えるスナロア、そして「みんなも」と呼びかけられ瞳に光を灯す民衆を見渡すボロウには、
それは夜明けに思えた。
「何を呆けたことを申すのだっ! ただでさえ署名の余白もないそのような戯言の踊る落書きに何の意味があるというっ! 枢老院が文面一任を、というのも大方はそこにいるスナロアやカセインの働きかけではないのかっ!
そのような思い付きの世迷言で民が守れるものかっ! 恥を知れっ!」
薄々はキビジも、『フロラ』兵も感じていた。
燃やすように急かすように吹き込む荒く尖らせた息を、シクロロンという少女はそよ風のように浴びてほほ笑むだけ。
焦るようにバタバタするこの毛羽立つ翼を、力まずとも風に乗るようやさしく撫でて諌めるだけ。
それはまるで、地団太を踏むわが子を慈しむ母親のようだと。
「世迷言かもしれませんね、キビジさん。
でも、そんな私を信じてくれたヒトがいることは知ってください。
確かにスナロア御意見役やカセイン・シクボ両相談番はその名でヒトの心に訴えられる存在感があるでしょう。
しかし彼らもヒト。神徒や枢老院長になれたのは、なってみんなから信を預かれたのはその心があったらからこそ。
みんなが「信じたい」と思える方だったからこそであって、その役職名や肩書きが彼らの言葉の価値ではありません。
私のような未熟者に、叶いそうもない夢を語る私に、彼らは知恵を貸してくれます。
そしてそこにいるボロウお手伝い長は私の知らない、でも知らなければいけない忘れな村のことを教えてくれます。
私ひとりでは何にもできないのです。
それがわかるから、あなたたちの力も貸してほしいのです。
先ほどルマさんは言いましたね。「俺たちこそがユクジモの未来を誰より考えている」と。
だったらなおさらなんですよ。
誰よりもユクジモの未来を考えるあなたたちとだからこそ、私は手を結びたいのです。
きっと『フロラ』と同じ自負を枢老院も持っていることでしょう。それでいいのです。
特定の団体や組織が民を引っ張るのではなく、民自身が選べるようにすればいいだけなのですから。
キビジさん、枢老院長も同じようなことを言っていましたよ。
「民を守らねばならない」って。
でも本当に守る必要があるのかな、って思うんです。
民は弱いもの、とどこかで決めつけているのではないかなって。
私はそうは思いません。
昨日、私はそれを確信しましたから。
今日のようにみなさんがこうして集まっていた中、誰もみじろぎもしない中、私にお菓子をくれた子がいました。
彼は少なくとも自分の意志で「元・『ファウナ革命戦線』総長」の私の前まで来て、そしてお菓子をくれたのです。・・・すごくうれしかった。
それから、みなさんから色々なものを頂きました。たくさんの言葉も頂きました。
「危険なファウナ」である私に、「気持ち悪いハルト」の私に、敵である『ファウナ革命戦線』にいた私に、みなさんは自分で選んで近付き、自分で決めて声を掛けてくれたんです。
一人では大変なことはたくさんあります。だから「支える」必要はあると思うのです。
でもそれは「守る」こととは違うはずです。
私はこうやって少しずつユクジモの方を、民というものを知ってゆくのでしょうし、知らなければならないと思っています。
触れ合えば見える景色が必ずあります。
あなたたちにも知ってほしいし、私も知りたいのです。
ルマさん。
手をとってください。私ではなく、私の見る理想と。」
そして、
す、とまた差し出される手。
視線を上げればやはりまたそこにはにっこりと笑む少女がある。
「性懲りもなくまた同じ――――」
「鎮まれキビジ。 私たちの長は貴公ではなく長であるルマと話している。」
珍しくぴしゃりとスナロアが放つと、ていの悪くなったキビジはふて腐れたようにあたりを見回す。
そこには、静寂があった。
淀みなく注がれた民の
枢老院の
『なかよし組合』の
そして『フロラ』の視線がただ一点に集まる
静寂があった。
「・・・。」
シクロロンの細いその手に、いつかの震えはなかった。
あるのは
「ルマさん。」
自信。
「・・・。」
そこでルマも気付いてしまう。
「一緒に。」
ガタガタと震える己の手に。
「・・・。」
振り払うように、だから振り切るように、
「ルマさん。」
強く強く強く強く強く強く強く強く
「・・・ひ・・・」
目を瞑り歯を食いしばり
「・・・退くぞっ!」
振り返り『フロラ』へ青年は声を上げる。
「・・・ルマさん、待ってますから。」
全身を震わせる青年に、
だからシクロロンはそっと囁く。
「待ってますから。いつまでも。」
でも。
だから。
「・・・くっ! 俺たちは俺たちのやり方でいくっ!
フンっ!・・・・・・そ、手を、貸してほしかったら・・・言ってこい、シクロロン。」
そして、いくぞーっ!といななきのような叫びにも似た声を張り上げ、
「・・・ありがとう、ルマさん。」
青年は『フロラ』を率いて去っていく。
「ありがとうっ! ルマなかよし組合員っ!」
お前それちょっと待てぇぇぇいっ!と去りゆく団体の向こうの方で声が聞こえた気がするがシクロロンはニコニコしながらてきぱきと既成事実を作り上げる。
「・・・舌を巻くな、シクロロンさ・・・組合長には。特に最後とか。」
呆れながらも、なにか、なにかこう、膨れ上がった気持ちがボロウの呟きで弾けると、
「クク・・・ハっハっハ、まったくだっ!
まったく、まったく我が組合長には・・・ククっ!」
幾度も幾度も説得し、『フロラ』をルマをなだめよう落ち着かせようと計らってきたカセイン元・枢老院長が笑い、
「ふふふ、水を風を凌駕するのは、やはりヒトの想いなのですね。
神徒と褒めそやされて何もできなかった自分が情けなく感じますよ。・・・はぁ。ふふ、はっはっはっは。」
人種・部族を問わず信奉する者たちを従えてなお貫けなかったものが砕け、そして拓けるとシクボもつられて笑い出し、
「ふくくく。神徒の名はヒトを集められても、それが故にどこか上から降らせるような言葉だったのかもしれん。
だがシクロロンは違う。あの者は聞く者の心の内から芽を吹かせる不思議な魅力を持っている。
ふくく。出てきて、よかったぞ。シクロロン。」
署名していーかいネエちゃん、や、わたしもやるー、などの声に、誰もが耳を傾けたいスナロアの独白さえ搔き消されてしまう。
「あは、ちゃんと並ん・・・あはは、もう字が見えなくなっちゃった。
ふふ、ねーカセインさーん、もっと紙と筆はないですかーっ? ふふ、ちょっと待っててね、ん? 違うのよ、ここは間違ったわけじゃないの。え? 筆順? ふふ・・・・・・早くここに名前を書いてね。重なるようにね。見えなくなるようによ。わかった? どうしたの? 返事は?」
一部やや子どもに指摘されてシクロロンが真っ黒になった場面はありながらも景色は昨日と変わらなかった。
「もの珍しさだけで二度目となるこのような光景は説明できませんな、スナロア様。・・・いや、スナロア御意見役でしたかな。
ふふふ。議決は、・・・省略ということでもよろしいですかな?」
屈伏させられた昨日とは異なり、今度は愉しむように眺めて近寄る枢老院長は諦めながら尋ねる。
「守る」のではなく「支える」。
そう宣言した少女を、「守る」と奢った枢老院より『フロラ』より、民は選んでいた。
それぞれの意志で選び、託していた。
「判断は任せる。我が組合長によれば反対でも構わぬとのことだからな、そう書いてもよいのではないか。
・・・枢老院長よ、悲しいか?
慣例が崩され、常識を塗り替えられてしまった今が。
それを遂げたのがヨソ者のシム人少女であることが。」
スナロアとても思いもよらなかったことだ。
他文化に閉鎖的だと感じていたユクジモ人がしばらく目を向けない間に寛容になっていたという変化は、民を見つめ続ける元神徒なるプライドを打ち砕き、そして恥じ入る契機にもなってしまったのだから。
「ふふ、正直に申せば、半分、ですな。
変わってしまう切なさや侘しさはあります。しかしそれも民が望み民が選んだもの。代表を誇示し従わせるのが我ら枢老院ではありませんゆえ。
どこか親であるかのような錯覚をしていたのかもしれませんな。
巣立ち、一人立ちする民というものを守り続けたい親であったかのような。
でも、違うのですな。
育つうち、いつの間にか様々を知り、様々に目を向けていることに親が気付けていないかのように。
そんな寂寥感はありますが、親を自負するならばやらねばならぬことが出てきます。
だからこそ、もう半分は民と自分たちへの期待、それから責任とは異なる「やる気」とやらに満ちております。
気付けていなかった民の願いを知ればこそ、そこへ向かわせてやりたい、支えてやりたいという気持ちで今はいっぱいなのです。
くふ、「いつまで過去に縛られ未来に怯えて―――」とはまったく、はぁ。
まったく、返す言葉がありませんな。くふふ。
スナロア御意見役、変わりますかな。
・・・・いえ、変えてゆくのでしょうな、これから。」
変化とは未知。
だから怖れ、二の足を踏むことは決して過ちや罪ではない。
それでも未知なる変化のその「兆し」が、昨日は笑えなかった枢老院長にも訪れた笑顔にあるのなら踏み出してもいいかと思えたのだろう。
踏み出す一歩の方角を、そしてその時期を決断できる座標にヒトビトは今あるのだから。
「ああ。私たちで、な。
ここにいるすべての者と、これから意を共にする者たちとで変えてゆくのだ。
ふくく。明日も笑えるといいな、枢老院長。」
その前ではカセインの呼びかけで具材屋にある安物の紙と色油、それから筆が、手伝うシクボやボロウたちによって振舞われている。
おれちょっと反対って書いちったー、とか、あたい名前まちがえちゃったよ、などの他愛ない声は終わりを知らずに続いていった。
己の手で書き、言い放ったその決意は議会でまとめて下されたそれより重く、そして残る記憶となる。
村の民もだからきちんと感じていた。
決断というものの責任と、そこに託す希望の重みを。
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