⑦ 枢老院と民意
ぱからん、ぱからん、ぱからん。
「しかしこの行動力は若さだけが理由とは思えぬな。」
馬に乗れないカセインがルマに手綱を任せてぼそりとやる。
「元気はこれまでもありましたがこれからはその使う方向が違う、といったところでしょうかね。」
同じく乗れないシクボはスナロアにカニ馬を委ねる。
「フンっ、元気だ行動力だで事が片付けば戦など起こるはずもない。」
組合長の号令に従うつもりはないものの、『なかよし組合』に残されては堪らない。
「それを起こさぬのがシクロロン組合長なのだろう。戦が解決策ではないぞルマ。」
先の会議を経た翌朝には馬を駆らせていた。
もうじき枢老院のあるユクジモ人の村へ着くだろう。
「おーよしよし。おまえたちも頑張ってるもんなー。おまえたちがこれから動く歴史の「足」だったって自慢してやれ。はは。」
貴重な馬はすべてメトマ率いる『ファウナ』に連れてかれていた。
なので日巡り一つと休んでいないイカ・タコ・カニ馬だからか、背にシクロロンを抱くボロウとしても着いた先でゆっくり休ませたかったようだ。
「あの、馬さんもそうですけどボロウさん大丈夫なんですか、左足。なんか添え木どころじゃ・・・あぁ、そうですか痛みが・・・ならいいのですけど。いや、よくないですよもうっ!・・・でも、でもあとちょっとで終わらせられるかもしれな・・・
あ、あれですかカセイン相談番っ!」
自分のセンスがキラリと光るネーミングに気をよくしているシクロロンはとにかく新たな役職名を使った。そして、使わせた。
「ええ、あすこですな。・・・ふー。ここへ来るのは久しいか。」
いくつかの獣道を曲がって出た先にはヒトの声が風に乗っていた。
梢に霞む奥を見遣ればなるほど、散在するユクジモ人を束ねる枢老院があっておかしくないほど活気のある村がその姿を現してくる。
「でもそうなると大騒ぎになるでしょうね。ユクジモが誇る英傑が三人もいっぺんにやってくるのですから。
ふふ。それを取りまとめている組合長をさて、どう導いたら皆さんにその立ち位置を示せるものでしょうかね、スナロア。おっと、スナロア御意見役。ふふふ。」
これから始まるのは平たく言えば枢老院の懐柔だ。
本来ふれあうことのないファウナ社会からの、しかも「アポなしの同盟申請」など平時であれば見向きもされないはず。
しかしスナロアとカセインを連れた今回ばかりはその慣例を貫こうものなら民衆から反感を買うのは必至だ。
ただそこで問題になるのがシクロロン組合長という存在になる。
ユクジモの民が従い手を伸ばそうとするのはスナロアやカセイン、よくてもシクボかルマ止まりだ。元『ファウナ革命戦線』総長のシクロロン、では別組織となったと添えても言い訳にしか聞こえないだろう。
この交渉に知恵を貸し、優位に持ち込むのがスナロアたち役員とはいえ、同盟そのものを締結するのはシクロロンという年端もいかぬ少女なのだ。
シクボでなくとも不安は拭えない。
「神徒シクボ、言葉を返すようだが俺は取りまとめられたりなどしてはいないっ! 流れが我ら『フロラ』に傾けば枢老院を取り込むだけだっ! フンっ!」
そこで一行は村の門衛に止められることなく中央に位置する広場を目指していった。スナロアを知らずとも、カセイン・シクボ・ルマは顔パスの重要人物でしかないから。
「ったく永遠の反抗期はまだ大人になれないかーもう。
しっかしまぁーエラい騒ぎになってきましたよ大師、おっと、御意見役。
あーあー、あんなに走っちゃって。」
事の重大さに気付いた門衛は血相を変えて枢老院へ報告に走る。
そして村の入口からやってくる「異変」を感じた者から、まるで磁石に吸い寄せられるように集まり始めていた。
「でもこの賑わいもカセイン・シクボ両相談番とルマなかよし組合員の威光でしょう?
スナロア御意見役のことまで話したら私、取り残されてしまうかもしれませんね。」
重役や責任者と室内で会合するもの、と思っていたシクロロンも、この圧倒的な熱狂には少々怖気づいてしまう。
「案ずるなシクロロン組合長。貴公はただその気高き信念を語ればよい。私はそれで枢老院を納得させられると信じている。
ふくく、まずはこの御意見役に仕事をさせてもらおうか。・・・走らずともよいものを。」
走っていった門衛が議場に着いた途端、これでもかと駆け寄ってきたのは枢老院の議員たちだ。
熱望するカセインと反りが合わないルマのセットというだけでも事件なのに、そこへきて最後の三神徒・シクボまでが登場すれば走らないわけにはいかなかった。
「こ、これはカセイン様っ、これは、どういう・・・」
次々と現れる者たちを見下ろすように未だ馬から降りない一行へ、あちらこちらから同じような問いが降り注ぐ。
「こりゃ見ものだな。・・・君もそう思うだろ、ルマなかよし組合員くん?」
そこであらかたの議員が揃い、今か今かと待ち詫びる。
一方、年を召した議員からは「スナロア」の単語も聞こえてくる。
「だから俺は・・・まぁいい、お手並み拝見といこうか。」
集まるヒトの群れは勢いを増し、この村すべての民が集ったかのように広場は過密地帯と化していた。
そこへ。
「私は元・神徒、スナロアという者っ! どうか静粛にしていただきたいっ!」
それで
それですべてが鎮まる。
もう、囁きも呟きもこだまするほど
ヒトに溢れ、森を破くほどに高まった高揚さえも
黙らせる。
それが、スナロアという伝説的な神徒の声だった。
「あ、か、・・・こ、これにあるのは、そ、わたくしは、枢老院の院長を務めさせていただいております若輩者。・・・そ、スナロア、様・・・ご健在で・・・」
身を退きたくなる圧力を分け、進み出た枢老院長は名を名乗ることさえ忘れしてしまう。
議員も民衆も、すべては今や膝をついて言葉を待つだけだった。
神徒スナロアの。
「出迎えご苦労、枢老院長。しかし貴公と話をするのはこれにある『なかよし組合』組合長・シクロロンだ。予約なく訪ねた無礼は承知だが、機は急ぐゆえ承服願いたい。」
もうアポなしとかそこの娘がどうとかじゃなく、なんだよ『なかよし組合』って!となる。ボロウとルマも、改めてそう思う。
「あ、さ、さようで。はい。なんなりと。」
下人みたいになっちゃう枢老院長。
とはいえそれは、スナロアを相手にしてのこと。
決してシクロロンを見ての態度ではなかった。
だから。
「交渉の準備はこれでよいかなシクロロン組合長。
・・・信じよ、シクロロン。貴公が誤っていたのならどうして私たちが付き従うというのだ? ふくく。
・・・さあ、シクボ・カセイン両相談番、組合長が降りるっ!」
そう声をかけたスナロアは先に馬から降り、
「そ・・・なにをっ?」
枢老院長が驚嘆に声を洩らす中、
「なるほど。さすがスナロア。・・・カセイン相談番、心の準備はよろしいですか?」
シクボとカセインを従え、
「くくく、スナロアがやるなら、従うまで。」
シクロロンの降り立つその地に、
片膝をつく。
「怯むなよシクロロン組合長。あなたがここへ何をするために来たのかだけ考えて、放ちな。」
シクロロンの手を取り体を支えて降ろすボロウがそう囁き、三歩下がって不自由に固定された左足を引き膝をつく。
「・・・リドミコちゃん・・・・・・お兄さま。・・・ニポさん。
力を、貸して。
・・・・っく、よしっ!
みんな、ありがとう。いってきますっ!」
言い聞かせるよう唱えた名前も小声で告げたその礼も、きりんと滑る静寂に鳴り渡る。
荘厳な景色とあって馬上にいられないルマも降りたが膝だけは付かぬよう踏み留まる。
「お・・こ、・・・あ、なた、さまは?」
さっき『なかよし組合』の組合長だと紹介されたのに忘れしてしまう。
それほどに、その広場は聖域と化していた。
降り立ち、頭を垂れるスナロアたちの作った「道」を歩み、
歴史を進む者として背筋を伸ばし、
すくむ心を落ち着かせるように、少女はひとつ息を吸い込む。
「私の名はシクロロンっ! 元『ファウナ革命戦線』の総長に就いていた者ですっ!」
なんだなんだとざわめき出す。
どうなってるんだと訝り出す。
あちゃー、としかめるボロウがその目を上げると、
「なんと、それはどういう・・・・っ?」
片膝をつく枢老院長の前に進み出たシクロロンは、
「・・・ふふ、なるほどね。」
両膝をつく。
「しかし、袂を分かち今あらたな組織『なかよし組合』を結成しました。
ここにあるのは皆、その賛同者です。
私たちは争いと悲しみを終わらせるために集い、そしてこの地へ来たのです。
枢老院院長さん、お願いがあります。
私たちと共に歩む道を選んでください。その先にある真なる平和のために。」
ケッ、と後ろで悪態づくルマ同様、シクロロンという素性に問題のある少女へ目を向けた枢老院長は顔を強張らせる。
「シクロロン殿、といいましたかな。
・・・ず、ずいぶん勝手な申し出に聞こえますが、あなたは一体ユクジモの何を知っておいでかな。
・・・振り返る史実の中で、我々がどれほど・・・どれほどファウナ系人種に虐げられ退けものにされ苦汁を嘗めてきたかご存じかっ?
耳に心地よい「平和」を引き合いに出せばすべて丸く収まるとでもお思いかっ! 我々枢老院は各地に隠れ住むユクジモ人たちを見守り導く最後の砦っ!
それがどうしてそなたのような夢遊者に未来を委ねられるというのかっ!
我々ユクジモ人を嘲りに来たのなら即刻お引き取り願いたいっ!」
あまりの軽率に、あまりの未熟に畏まっていた心も熱を帯びる。
シクロロンの言葉に嘘はないだろう。とするなら『ファウナ』の元総長だったこともまた然り。
敵対勢力の頭が新組織を旗揚げしたところで染み付いた「ファウナ優位」の先入観が消えることなどない。見せかけの「同盟」も内実は「隷属」としか思っていないはずだ。
小娘の言葉は愚弄でしかなかった。
「勝手な・・・? こんな大事な話をするのに、今すぐにでもそうしなければならないのに何が勝手ですかっ!
あなたの優先順位はなにっ?
まつりごとはどれも確かに大切です。でも最も先んじて取り組まなければならないのはヒトの安全の確保でしょう? 今までの悲しみを忘れろなんて言ってません。
でも今この時をもって未来の悲しみを払い除けられるなら手を伸ばせばいいだけじゃないっ!」
ぐ、と言葉は赤く燃える。どうしてこうも伝わらないのかと悔しくて。
「く、何を言っているのか分かっているのか小娘がっ!
たかだか十余円を生きただけのそなたに気安く触れられる歴史を背負っているわけではないのだぞっ!
手を伸ばせばいいだけ? ふっ、笑わせるなファウナ人っ!
我々が今まで手を伸ばさなかったとでも思ったかっ! 戦い憎んできただけだと思ったか痴れ者がっ!
我々とて手は伸ばしたっ! 過去に何度も試みたっ! それを払ったのはそなたらファウナ人ではないかっ!
過去は語っておるのだっ! もうそなたらファウナ人とは何も分かち合えぬとっ! 何も分かり合えぬとなっ!」
今を、いくつもの過去を重ねてようやく築けた今をまるで分かっていない小娘に気焔はとどまることなく鳴り渡る。
しかし
「いつまで・・・あなたたちはいつまで過去に縛られ未来に怯えて背を丸めて今日を明日を生きていかなくちゃいけないのっ?」
それを浴びて、息もできない声の炎を浴びてなお、シクロロンは呼びかける。
「黙れファウナ人っ! そんな戯言でこの屈辱の歴史を―――」
ただ、呼びかける。
「私はイヤっ! そう凍えて縮こまるのも、それを見るのもっ!
どれだけユクジモ人を知っているかですってっ?
ではあなたはどれだけファウナ系人種のことをご存知なんですかっ? 彼らの中にも「劣等部族」と銘打たれて弾き出され疎まれているヒトがいるのっ!
ファウナ系人種は一人じゃないのっ!
たくさんいて、いろんな価値観を持ってるのっ!
中にはあなたのように「フロラ」だからと眉根を寄せるヒトもいるわっ!
でも決してそれだけではないのっ! どうしてわかってくれないのっ!
わかろうとするだけでいいのっ!
私はあなたの言うとおりまだまだユクジモ人のことをよく知らないわっ!
でも知ろうとして、わかろうとして歩いてきたっ!
あなたのようにひと所に居座って耳目を閉ざして未来を閉ざして心を閉ざして「民のためだ」なんて言ったりしないっ!
わからないのですかっ!
あなたはあなたの知る狭い世界の理でこれから羽ばたく民の可能性を踏み潰しているんですよっ!
一人立ちして巣立てばどんな生き物にだって危険や不安は付きまといますっ! 当然ですっ! それが生きるということなのですからっ!
だから守ることも大事ですっ!
でも、守ることを理由に囲んで覆って縛り付けてそれがどうして生きる者への畏敬であれますかっ!
ヒトは大なり小なり必ず傷つきますっ! でもそこから立ち上がるのがヒトなんですっ!
そこから学び、感じ、考えそれでもまた歩き始めるのがヒトなんですっ!
これまでの正義に寄りかかるなら誰にでもできることですっ! しかし時はうつろいヒトも心もその繋がりも変えてゆきますっ!
私たちがここへやってくることをいったい誰が予期できましたか? 「今までファウナ系人種が訪れたことがないからこれからも来ない」なんてただの詭弁でしょうっ?
誰にも何にも縛られず、誰ひとり予見できないのが未来っ!
鼻で笑われる理想を叶えられるのが可能性っ!
あなたたちが嘲笑で撥ねつけるキレイゴトの平和、でももしそれを叶えられたのならその表情は変わるはず。
もっと、ずっとやわらかくて素敵な、やさしい笑顔になれるはず。
私は、それを信じ叶える代行者。
ファウナ系人種の代表でもなければ争いに未来を委ねるでもない、ただの平和の信奉者。
・・・できたばかりの『なかよし組合』に、武器はひとつもありません。」
その体はもう、
誰の目にもわかるほどガタガタと震えていた。
怖さもあった。
悔しさもあった。
でも、祈りと願いが声だけは響かせた。
「・・・そなたの言いたいことはわかった。
だが、我々が民の未来を奪っているというのは理解しかねる。
そなたはまだユクジモ人については勉強中なのであろう? ならば出直してこい。広く世界を見聞し、その浅はかな見識がどれほど脆弱なものか知ってから来るのだな。
たった一人でユクジモ人が町へ出ればどうなるか知っておるかっ? 身ぐるみ剝され館で売られ尊い未来が奪われるのだぞっ!
何も知らぬヒヨっこがでしゃばるなっ!
我々が未来を守っていないだとっ? ふざけるな世間知らずがっ!
我々が守らずにどうして民が安心して暮らせようかっ! 誰がユクジモの民を守るというのだっ!
我々の他に誰がっ、ファウナの誰が守ってくれたというのだっ! おまえのような若僧に何ができると――――」
「違う違うっ! そうじゃないっ! 一人でなんかじゃないのっ! ファウナ系人種だって若い娘が一人で歩いていたら危険だわっ!
そうじゃないのっ!
私たちは、見てきたの。
出会ってきたの。
幼いユクジモの少女を娘のように愛するハチウのヒトを。
そのヒトは命を賭けて守ろうとして、死んでしまったわ。
そしてこのボロウお手伝い長は忘れな村のヒトよ。
悲しみも憎しみも怒りも無念もその体に染み込んで離れないはずなのに、いつもやさしく、そして強くある方なの。
ここにいるスナロア御意見役やカセイン相談番だけじゃないの、ダジュボイさんやモクさんというユクジモ人にも出会ってきたわ。
それだけじゃない。先日焼き滅ぼされたセキソウの村の黒ヌイのキペさん、ボロウさんと同じく忘れな村の出のニポさんやパシェちゃん、不思議な体に不自由しているローセイ人古来種のサムラキさん、チヨーの行商人のダイーダさん、ギヨの学者のヤアカさん。
それらはひとつの考えに囚われる『ファウナ』に所属したヒトではなく、市井のヒトたちなの。
その時は平和のためではなかったけれど、まったく別々の七人種がまったく同じ方角を向いて歩いたわ。
すごく楽しかった。すごくうれしかったの。
私はハルト。そして私は元・武闘派組織の総長。
閉ざされた組織の中ではあんな経験なんてできるはずがなかったの。
・・・お願いです、枢老院長さん。
拳をほどいて。
私たちの間に深く刻まれた溝を埋めるのは簡単ではないわ。
でも、フロラ・ファウナを越えて、シム人・ハルトを越えて、人種も部族もみんな越えて手を取り合いたいの。ひとりではいさせたくないの。
手を繋いで、手を取り合ってみんなで歩くの。
恐いものなんてもう、ひとつもなくなるから。
繋いだ手はぬくもりを教えてくれるもの。誰かが挫けたらみんなが支えにいくわ。
ここにいるユクジモの方々の誰かひとりでも困ったら、私たちが駆け付けるの。
枢老院だけよりも、ずっとずっと広く手を伸ばせるはずだわ。
私たちと共に闘って、と言いに来たのではありません。
私たちと共に生きましょうって、そう伝えに来たのです。
平和を望む者であれば誰でも気軽に取り合える手を、届けにきたのです。
この手に、ぬくもりを教えてください。
・・・どうか。
・・・・どうか、お願いします。」
言い切った手が、言い尽した手が、力なくぽとりと膝に落ちる。
「・・・。」
依然として歯を食いしばる枢老院長に、その手を伸ばす気配はない。
「・・・どうか。・・・お願い。」
院長を差し置いて議員が出てくるはずもなく、それを差し置いて前に出る民もない。
「・・・。」
だから。
「・・・お願い。」
しかし、
「おねーちゃん、ないてるの?」
沈黙を破り、
静寂を破り、
緊張を破り、
停滞を破り、
均衡を破って声を上げたのは
「おなかすいたの?」
今の今まで遊んでいたのであろう、泥まみれの少年。
「・・・っく。・・・・うっく。」
そのちいさな少年を、涙の出ないシム人の少女は見上げる。
「これあげる。おかーさんのてづくりだからおいしいよ。」
見ればちょっと食べかけの焼き菓子が差し出され、
そして何もない少女の手の上に、それはそっと置かれた。
「・・・・うん。・・・・うん。・・・・あり、がとうね。・・・ありがとうね。」
そこでぽたりと、決して滴ることのないと言われたシム人の涙が焼き菓子に落ちて、すうっと飲み込まれる。
まるで涙などなかったかのように。
何もなかったかのように、香ばしい匂いを無邪気に漂わせて、焼き菓子は震える。
体が、震える。
「ありがとう・・・」
うれしくて。
「・・・ありがとうね、坊や。」
うれしくて、うれしくて。
「はは、よかった。あ・・・おかーさーんっ、もっとないのーっ?」
ちいさな、日常に溢れたちいさな、当たり前のちいさな声に、
均衡は破られた。
世界は翻った。
広場に響くその声はだから
立場も役職も肩書も履歴も生い立ちもすべてを、
すべてを越える。
「お、あのよネーちゃん、おれぁこんなモンしかねーけどよ。」
採れたての果物がその手に載る。
「あ、じゃあわたしは、えっと、こんなのどうかしら。」
簡素な造りの髪留めが載る。
「ちょ、待ってな嬢ちゃん、おっちゃん飴餅つくってきてやっから。」
飴餅屋のおやじさんが店に走る。
「あーんと、こんな野菜まるごとなんてもらってもうれしくないかな?」
葉玉をごろんと丸々ひとつ胸に抱かせる。
「・・・あ、りがとう。」
それから
それから・・・
あっという間にヒトビトは「僕も」「あたしも」と手持ちの品、なければ言葉をかけてはその手にふれ、握り、震えるシクロロンの背に頭に肩に手をあてた。
「みなさん・・・」
飴餅屋のように店に家に走って食べ物を持ってくる者、季節を彩る花を摘んでくる者、まだ土に汚れたきれいな石を手渡す子どもが次々に跪くシクロロンの元へ駆け寄り、そして両膝をついて視線を合わせた。
「ありがとう。・・・ありがとうっ!」
もう誰も枢老院長のことなど気にも留めず、いつの間にか両膝をついてかしずくスナロアたちにも目もくれず、思い思いにシクロロンへ何か、喜んでくれる何かを探しに、届けに走り出していた。
「ふふ。こんなに、こんなに。・・・ありがとうっ! 私、私――――」
こぼれない涙の泣き顔は時に笑い、そしてやっぱり泣き顔に戻り、励ます声、讃える声、なんだかよくわかんないけどケタケタ笑う声に囲まれ続けた。
「・・・ケッ、とんだ物乞いだな。」
そんな声ももう響かない。
町は再び賑わい出していたのだから。
シクロロンのために。
「とんだ物乞いだろうね。ふふ。でも君にできるかい? ルマくん。」
フンっ、とそっぽを向くルマに立ち上がるボロウが皮肉をひとつ。
「さーて、おれは馬にメシでも食わせて休ませてくるよ、組合長さん。ふふ。・・・うぅぅ。」
なんつってカッコつけてみたけどもう泣いちゃうボロウ。
そして「もうなんなのよこの大団円!」みたいに馬をポカポカやりながら厩舎を村の民に尋ねる。民は、ユクジモ人は、嫌な顔ひとつせず足を引き摺るボロウに肩を貸してやり一緒に馬を連れて歩いていった。
「・・・これが、これがシクロロンというヒトなんですよ。
ふふ、わかっていただけましたかね、カセイン相談番。ふふふ。・・・・うぅぅ。」
だのでシクボも泣いちゃう。
同じく涙が出ない人種だったが流れてなくても見えるから不思議だ。
「・・・正直に言いますと、ワタシは期待してはおらなんだのですよ。
どうせワタシやスナロアが結実を導くものだと。
それに疑ってもおりました。アナタやスナロアがあの娘・・・いや、シクロロン組合長を担ぎ出したことを。お恥ずかしい限りですな。
今、ワタシはワタシの意志で、心で、シクロロン組合長を我が盟主と認め、そして誇ります。
巡り合わせて下さったアナタにも感謝ですぞ、シクボ相談番。」
すこし照れながら目をやれば、そこには有無を言わさぬ決定的な光景が繰り広げられている。
方角を示して連れ歩くのも指導者だが、導くべき民と心を共にしてはじめて信は得られるものだから。
「・・・枢老院長よ。民の声がまだ聞こえぬか?
ならば我ら『なかよし組合』は枢老院とではなく、この村の民と同盟を結ぶことになるが、かまわぬか?」
シクロロンの横を抜け、両膝をついて呆ける枢老院長の前にどーんと立ちはだかるスナロア。
もう、その顔を見上げる力もない。
「・・・この村の声だけがユクジモ社会の声ではありませぬ。それらを束ねる枢老院は広く散在するユクジモの声を聞かねば決定は下せませぬ。
しかし・・・しかし、これが答えなのでしょうな、スナロア様。
どの村へ赴いたとて、あのシクロロンという娘はこうしてヒトの心を掴んで離さぬのでしょうな。
あなた様が膝をついた時は驚きました。途中、勘ぐりもしました。
奇策なのではないかと。あなた様やカセイン様が偽者ではないかと。
今はもう、偽者でもいいかと、そう思っております。彼女が本物であり、彼女の言葉が民を動かし、彼女の思いが未来であると、そう思うからであります。
正式な署名はお急ぎですかな?・・・ふふ。参りました。民の声を、民の答えを読み違えて何が枢老院か。何が枢老院長か。」
ありがとう、ありがとう、と泣き笑うシクロロンがこんなに近くからでさえ人影に埋もれて見えないほど、この村はまだ若いその指導者を認めていた。
取り残された枢老院長に選べる答えはひとつしかない。
「貴公は間違っておらぬ。ただ、シクロロンの方が正しかっただけだ。」
村の中心の広場の中心のヒトの輪の中心に、両膝をつく若輩の指導者。
遠く眺めるだけのルマに一瞥をくれると、スナロアはカセインを振り見た。
「はぁ、だいたい察しはついておる。あとの手続きはワタシが引き受けようスナロア。
・・・枢老院長よ、ワタシがこの村に駐留する許しは得られるか? ワタシの最後の仕事はどうやら『なかよし組合』と枢老院の橋渡しになりそうなのだ。」
思いはみな同じでも、実現するには条項や制度の整備をはじめ内容の伝達とその普及も手掛けねばならない。一刻を争う急くスナロアより、煩雑な事務手続きは場慣れした者に任せる方が手っ取り早いだろう。
「ええ、それはもちろん・・・ということは枢老院には戻られないということですか、カセイン殿。」
芯のある為政者として今なお待望されるカセインはかぶりを振るだけだ。
「ユクジモ社会に軸足を揃える枢老院に他組織の幹部が入っては信は得られぬだろう?
ワタシはあくまで『なかよし組合』相談番として意思疎通を図るのみ。
とはいえ求められれば協力は惜しまぬつもりだ。」
もはや向き合ってはないのだ。
同じ世界を望む者である以上、そのうえ手を握り横一列に並ぶ者同士である以上、知恵を分かち合うことに異論が出るはずもない。
そんな余韻が心地よかったのだろう、カセインは慣れない笑みを浮かべて院長や議員を立たせ会議室へと向かっていった。
「・・・スナロア、急ぎますか?」
午後を回って陽は傾き始めている。
それでも枯れゆく季節の切なさを感じないのは、感じさせない民のはしゃぐ声が鳴り止まないからか。
「心は、な。・・・だが赦されるのなら、もう少し見ていたいな。ふくくく。
さて貴公ならこんな時どう言い訳を考える、シクボ。」
伝え蟲や紙鳥で連絡は取り合っていた二人の神徒も、会えば話し足りないことが指を折り返してもまだ余る。
しかし解り合えている者だからこそ要な言葉と不要な言葉がするりと振り分けられてしまうのだろう。若かりし日の思いや教会の意義、その将来を、茶請けにするのはきっと目指す地平に辿り着いた後になる。まだまだ隠居は遠そうだ。
「馬を休ませたい、では? ふふ、それとも私たちを、の方がよいかもしれませんねスナロア。
時の鈍る体になったあなたとて中身は私と変わらぬ歳なのですから。
あなたやモクは少々自分を大切にしない節が見られていけませんね。
・・・ふふ。こんな感じでどうです、神徒を棄てた二人目の神徒。」
コロナィを出るまでシクボ同様、走ることなどなかった男は自嘲気味に笑って宿を探す。
「機転に助言まで添えるとは相変わらずだなシクボ。
私など向こう見ずのモクの真似ばかりだというのに。
さ、我々も休むとしよう。ふくく。確かに節々が痛むようだ。浴して今夜は癒すか。」
促すようにシクボの肩に触れ、もう一度、目に焼き付けるよう、いつもは閉ざしている目を開けて振り見る。
「向かうは聖都ですかスナロア。・・・わかっています。
私は教会に戻り『なかよし組合』の指揮を取ればよいのでしょう?
まったく、歳は同じでも私はあなたと違って老衰の身なのですからね、その点お忘れなく。」
戦とならずとも、騒々しくなるであろうこの後の日々が今日の比でないことくらいシクボでも予見できた。
「また迷惑を掛けてしまうか。・・・とことん罪つくりなのかもな、私は。」
正しければそれでいい。
しかしそれが不確かだから困る。
「スナロア。・・・ふふ、虚勢でもいいから胸を張ってください。
私も、そしてカセイン相談番もそれで動き働きます。
花形には花形の、黒子には黒子の役割があるのですよ。
あなたやシクロロンが旗を振りなさい。私たちが全力で支えてみせますから。ふふ。
その代わりこの光景、アゲパンのすべてで見せてくださいよスナロア。
その誓いが対価なのですから。」
恨まれ罵られ続けた『ファウナ』の元総長が、ハルトのシム人の知恵も知識もない小娘が、ユクジモ人に囲まれ溶け込んでいる。
それは「キレイゴト」が見せた景色だった。
夢物語を信じた先の景色だった。
叶ったのだ。
開かれたのだ。
無理だと哂われた理想の扉が今、確かに。
「そうだな。・・・そうだなシクボ。
ならば誓おう。私たちが成し遂げよう。
こんな声の響く世界をあらゆる町で、村で、集落で叶えよう。
『なかよし組合』を頼んだぞ、シクボ。
・・・ふくく、「ひねくれてないで出てきなさい」か。
己で結わえた桎梏から、その牢獄から、私は出てきたぞシクロロン。ふくく。」
感情に任せた言葉など時の諌めの格好の餌食とばかり思ってきた。
冷静に紡がれた堅牢な言葉こそが褪せることなく残り続けるものだと。
「なんです? ずいぶんな言いっぷり・・・ふふ、そうですか。シクロロンですか。
スナロア、おもしろいでしょう?
キぺという青年、それからニポという少女に会うまでは戸惑うばかりの操り人形だったんですよ。
ふふ、それが「かのスナロア大老」に・・・ふふふ。
聞かせてくださいスナロア。私はシクロロンをもっと知りたくなってしまったようです。
ひっくり返すかもしれませんね、本当に。
ふふ、私はあの子のこれからが楽しみで仕方ないのです。」
メトマによる教会との同盟撤回を瞬時に取りまとめた時も、そして今回も、純粋だから放てる胸のすく思いの丈はしかし決して情に訴えるだけの美辞麗句ではなかった。
そして揺るがぬ信念が背骨にあるからこそその言葉は残り続ける。
きっと此度のくだりも時を経たいつかにはまた胸を熱くさせてくれるだろう。
「では私もいろいろ聞かせてもらおうか。ふくく。夜が長くなりそうだ。」
そう言って安宿を探す二人の老翁がその場を後にしても、きらきらと光るヒトの声は鳴り続けた。
視界の端で逃げるようにスナロアたちを追ったルマにも怒りや妬みの表情はなく、ただほどけそうになる口元を引き締める若者の複雑な心が映るだけだ。
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