第2話

 優月がお盆をテーブルに運び終わってもなお、母は酒井に対して愚痴を止めようとしない。たまに「お前の旦那二十年不倫してるぞ」と言いたくなるが、唇を内側にしまい込んで我慢している。それを言うのは母が死ぬ直前にしようと決めていたからだ。

「あんた、今回は大輔くんの墓参りと家に線香あげに行くんか。行くんやったら連絡しときいや」

「わかってるって」

 優月が慎重にグラスの載ったお盆を両手で掴んで運ぶ動画を見て苛立ちを抑えていたのに、またふつふつと熱が沸き上がる。

 大輔が亡くなって二十五年が経った。大学生まで毎年お盆に行っていた墓参りと線香は社会人になってから途切れてしまった。

 小学五年生の夏休みも終盤に近付いていた頃だった。お盆に入ったことで酒井と大輔は一緒に倣っていたテニスが連休になり、大輔の家の近くにある乗行寺へと遊びにいくことになった。乗行寺の敷地内には寝待月のかたちに似た大きな池があり、『釣り禁止』という看板がそこかしこにありながら、釣り糸を垂らす大人が多かった。池の周りは林のようになっており、当時の酒井の膝丈に及ぶ草むらやクヌギの木があり、早朝にはカブトムシが捕れることもあった。だが、小四のときに嫌というほど昆虫採集に明け暮れていたため、そのときの酒井と大輔は、目下釣りに夢中だった。

その日もまっすぐな枯れ枝を拾ってきて、砂利道に落ちている釣り糸や釣り針、おもりを探すところから始まった。釣りスポットに行けば苦労せずに見つけられる。まず絡まった釣り糸を解いていくところから始まった。細い枝や小指の爪を差し込めば容易に解くことができる。木の枝の先端に釣り糸を括り、糸の先に釣り針とおもりを結びつければ自家製の釣り竿が完成する。当然餌も買うお金がないので、大きい石を捲って一斉に逃げ出すダンゴムシを捕まえて釣り針に刺すことで代用した。

「竜也、来て。いっぱいおるで」

 大輔が手招きしながら、池を覗き込んでいる。手作りの釣り竿片手に酒井は大輔と同じように池を覗くと、やや濁ってはいるが石の間に潜むアメリカザリガニやブルーギルが水面に見えていた。連日晴れが続いており、水位がいつも以上に下がっていた。

 大輔と一緒に釣り糸を水面に垂らすと、すぐにブルーギルが食いついてくる。全くしならない木の枝を持ち上げると、池の水が陽光に反射して輝き、その中をブルーギルが浮き、酒井と大輔の立つ砂利道にべちゃりと落ち、必死に体をしならせている。

大輔は、境に顔を向け、鼻の穴を大きくした。酒井は「早いな」とつぶやいてすぐに水面に視線を戻した。ほどなくして酒井もブルーギルを釣り上げ、入れ食い状態となったが、どこか退屈が付きまとう。

 右端の方から水面を大きく跳ねる音がした。

「ブラックバスかな?」

「たぶんそうちゃう? あの人が釣ったんかも」

 奥の細い道で立って、本格的な釣竿を持っていた男がしゃがみこんでいた。水草でなかなか見えないが、やはりしゃがみこんだところがぴちぴちと大きな魚が動いているのが見える。

「ええなあ。俺もブラックバス釣りたいなあ」

 大輔がぽつりとつぶやいた。

「こんな釣り竿やったら無理やって。糸も短いし」

 酒井はずっと立っているのが疲れてベンチにあおむけになって寝転んだ。真上にある太陽が酒井を焼いている。あまりにも眩しいので頭を横に向けると、大輔が砂利道と池を仕切りロープをくぐって水位の下がった池に降りようとしていた。

「何してんねん」

「奥の方やったらブラックバスいるやろ。今、水位がかなり低いから、ちょっと下歩けるようになってるし、やってみよっかなって」

「やめとけ、サンダルやろ? 滑って池にはまるで」

「大丈夫、水泳習ってるしな。余裕や」

 大輔はロープを跨ぎ切り、背丈のある草を手でかき分けながら池へと近づいていき、姿が消えていった。酒井は動く気にもなれなかった。激しく喉が渇いた。家から水筒を持ってきたらよかったと後悔していた。砂利道の池と反対側にあるベンチで寝そべって顔を手で覆った。途端、水が大きく弾ける音がした。酒井は跳ね起きて池を覗き込むと大輔が池に足を取られて深いところにはまってしまっていた。

「だから言ったやん」

 濁った池をバシャバシャと手足をばたつかせる大輔が滑稽だった。

「助けて、竜也」

「泳げや」

 大輔は悪ふざけをしているのかと思い、なおも笑っていると、どんどん奥の方へと流されていく。

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