池のなか

佐々井 サイジ

第1話

 実家の駐車場で、ひっくり返ったクマゼミが風に吹かれて左右に揺れていた。酒井は最初、落ち葉かアスファルトの染みかと思った。実家の駐車場のアスファルトは元々白かったが二十余年の月日が経ち、雨風に晒されたせいで老人斑のような汚れが、あちこちについていた。擦っても取れず、やがて取ることを放棄した結果、白かったアスファルトは、夏にゲリラ豪雨をもたらす雲のような灰色をしている。近づいてみるとクマゼミの肢は縮こまって一点に集まっている。お盆も後半に差し掛かり、短い寿命がつき始めた頃だったのだろう。酒井は隣の空き地の隅に移動させようとクマゼミをつまむと「ジジジ」と怒鳴って飛び立った。だが、飛行能力が衰えているのか、空中で輪を描きながら隣の家の壁に激突し、ガレージの上に落ちた。酒井は汚れを払うように指先同士をこすり合わせ、家の中へ戻っていった。

お盆休みにX県の南部にある実家に妻の亜美と五歳になったばかりの娘、優月ゆづきと一緒に帰省していた。亜美のおなかはかなり張ってきており、実家に顔を出すタイミングはお盆を過ぎるともうしばらくなさそうだった。

「おなか大丈夫か?」

「うん、食欲が止まらん方がやばいかも。絶対お義母さんのご飯食べすぎてまうわ」

 母がキッチンの右端にある冷蔵庫から二リットルのペットボトルをつかみ取ってすでに氷をいれてあるコップに注ぎだした。氷がガラスコップにあたって心地よい音が響いてくる。

「父さんは?」

「いつも通り、や。どうせ夜まで帰ってけえへんわ」

 酒井家で目の運動といえばもっぱらパチスロのことだった。初めて亜美を連れてきた日も、父はパチスロに行っており、目の運動という言葉が母と酒井の間で飛び交っているときに亜美が視線を彷徨わせていることにしばらく気づかなかった。

「どうせ当たらんのに。当たってもしょうもないお菓子ばっかや。それ食べてぶくぶく太ってわけのわからん健康食品買いよんねん」

母は父に対する愚痴をぶつぶつこぼしながらお盆を持ち上げた。亜美が立ち上がって手伝おうとすると、母は声を裏返しながら手を振った。

「亜美ちゃんはおなか大きいねんからゆっくりしといて。あんたは見てんと手伝いいや」

 はいはい、と酒井は腰を上げると、先に優月が母のもとに駆け寄った。

「ばあば、ゆづ手伝うよお」

「ゆづちゃん、おりこうさんやなあ。お前の娘とは思えへんなあ。お前は全然あかんな。やっぱ亜美ちゃんに似たんやろうなあ」

 母が優月の頭を強く撫でまわすと、優月は酒井に視線を送ってきた。家を出る前に優月に話していた通りだった。

「ばあばは、言葉では『手伝うな』って亜美とか優月に言うけど、ほんまな手伝わったほうがいいよ」

「なんで?」

「ばあばはな、正直な気持ちがなかなか言えへんタイプやからな」

 それで鬱憤をため、とつじょ癇癪を起こして家を飛び出したことが三度ある。三度目は父も酒井も慣れてしまい、探すことすらしなかった。自然と母は帰ってきて、今度は探しにもいかなかった父と酒井を一ヶ月以上糾弾し続けた。そういう母の複雑な性格もあって、父は定年退職後もシルバー採用として同じ企業で働き続け、休日は目の運動に行き、できるだけ家にいる時間を少なくしている。

また酒井は父が二十年以上、同じ女と不倫していることも知っていた。酒井が中学生のとき、リビングでテレビを見ていた。父の携帯電話が鳴った。メールの受信を告げる音だった。父は入浴中で母は夕食の準備で誰も酒井を見ていない。興味本位でメールを確認した。小林紀子という女性からだった。

『来週はいっぱいエチしようね♡』

 酒井は鼓動が大きくなった。いったん携帯電話をテーブルに置き、風呂場の前に行って、父がまだ上がってこないのを確認し、再度携帯電話を開いた。

『昨日はめっちゃ気持ちよかった♡またしよね』

『次はあんなもんじゃすまへんぞ、気絶させたる』

『気絶したい♡』

『一緒にしよ』

 鼓動はすぐに収まっていった。目の運動と偽ってどこかで女と欲望を吐き散らしている自分の父親。良い歳して気色の悪いメールを送りあっていることは目を背けたいものの、失望や悲しみといった類の感情はどうしても出てこない。ヒステリックな母親と愛想のない自分のことを考えたら家にいるよりちやほやしてくれる女の方を選ぶのは自然だった。

 父は機械音痴でメールが既読になっていたことも気づいていなかった。母は父に勝る機械音痴で、極力機会に近づこうともしない。それが父にとっては幸運だった。

 年始に届いた年賀状には小林紀子から届いていた。

『結婚して姓が大森になりました。木が多くなりました』

手書きで添えられていた字は丸っこく、端正とは言えなかった。紀子と腕を組む夫は、紀子が自分の父と不倫していることを知らないまま結婚し、さぞかし可哀想だなと思ったことは覚えている。

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