桐谷蓮はゆっくりと目を開けた。見慣れない天井だ、と蓮は思った。どこからか声が聞こえる。

 

「桐谷さん、わかりますかー?」

 

 蓮はゆっくりと頷いたが、意識はまだ朦朧としていた。体が鉛のように重く、思ったように動かせない。このまま、また眠ってしまいたい。蓮は朧げながらにそう思った。

 

 すぐにバタバタという足音とともに、若い男の医者がやってきた。

 

「桐谷さーん、おはよう。気分はどうです?」

 

 医者はまるで親友と話すような口調でそう言った。

 

「これから精密検査なんですけど、立てそうですか?」

 

 朦朧としていた意識は、徐々にはっきりしつつあった。蓮は上半身を少し持ち上げて小さく頷く。

 

「良かった。ゆっくりでいいので、立ってみましょうか」

 

 蓮は起き上がろうと試みる。体はまだ重たいが、なんとか動かせるようにはなってきていた。上半身が完全に起き上がったのと同時に、蓮は言葉を発しようと口を開いた。が。

 

「……!」

 

 言葉が、出ない。話し方を忘れてしまったようだ。声を出そうとあがいていると、看護師が水をくれた。蓮は水を飲み干し、慎重に声を出した。

 

「僕は……何を……?」

 

 医者が答える。

 

「大丈夫。すぐに思い出すよ」

 

 思い出す? なにを? 僕はここに来る前何をしていた? 思い出す……。思い出す……。そうか……たしか……僕は……。

 

「僕は……車に……轢かれて……」

 

 瞬間、病室の空気がカチリと凍りついた。誰も音を立てずに、全員が蓮の方を向いてその顔を凝視した。まるで時が止まってしまったかのようだった。皆、世界の終わりを目の当たりにしたかのような表情をしている。朧げだった蓮の意識はその緊張を感じ取ったかのように、急速に覚醒へと向かった。

 

 そうしてすっかりと意識が戻った瞬間、蓮は自分の置かれている状況をはっきりと理解した。蓮は静かに医者の方に向き直った。そして、病室にピンと張り詰める沈黙を、妙に落ち着き払った声で破ったのだった。

 

「先生、僕には記憶があります。夢の中の、記憶が」




 桐谷蓮は、金に困っている若者だった。仕事はしていたが、満足のいく給料は受け取っておらず、家計は常に火の車だった。蓮はある日、少しでも生活費の足しにしようと、治験バイトに参加することを決めた。昔から、身体が健康であることだけが、蓮の取り柄だったのだ。

 

 蓮が選んだ治験は、参加できるものの中で最も報酬金額が高いものだった。それも異常なほどに。理由は明らかだった。その治験は、期間がとても長かったのだ。


 その治験は、人工冬眠技術に関する治験だった。

 

 人工冬眠技術は、ここ十年ほどで急速に研究が進んでいる技術だ。その名の通り、人間を人工的に冬眠状態にする技術。この技術が確立されれば、人間の生き方に、まさに革命といっていいほどの変革がもたらされる。ゆえに、最近ではメディアでも頻繁に取り上げられるようになっている技術だった。

 

 一見簡単そうな人工冬眠だが、これを実現するために研究者たちはいくつもの難題を解決していかなければならなかった。彼らは試行錯誤を繰り返し、ほとんどの問題点を解決することができた。しかしたったひとつだけ、どうしても直接には解決できない問題点があった。


 長期間の人工冬眠の場合、人工冬眠をした人は冬眠前の記憶を失くしてしまう。それがその問題点であった。結局、長い苦心の果てにとある解決策が考案されたことで、この問題は、間接的にではあるが解決となっていたのだった。

 

 冬眠中の人に、人工的に夢を見せる。それがその解決策だった。蓮が参加した治験の人工冬眠技術には、まさにこの方法が採用されていた。


 こうして問題点が解決され、治験段階にまで至った人工冬眠技術だったが、この方法でどうして記憶の喪失を防ぐことができるのかは研究中であり、まだ正確には分かっていない。そもそも、冬眠中は脳の働きも抑制されているはずなのだが……。

 

「まぁ、脳はまだ分かってないことだらけですし、起きた時には夢のことはすっかり忘れているハズなんでね。心配する必要ないっすよ」

 

 蓮が冬眠に入る直前、蓮の担当になった医者はそう説明した。


 蓮はつい先ほどまで、冬眠をしていた。人工的に見させられた夢を見ていたのだ。つまり、蓮が佑亜と過ごしたあの日々は、現実ではない、作り物の世界での出来事だったということになる。


 彼女は、篠崎佑亜は……実在しない。


 蓮は目の前の非情な現実から目をそらすように、夢の中の世界で何があったのか、その全貌を医者に向けて語りはじめたのだった。

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