夢の中の君へ

鏑木 翼

 名前も知らないし会話したこともない。けれどもよく見かけるし、顔は知っている。誰にだってそんな人がいるだろう。もちろん僕にだっている。それはただの、知っているけど知らない人。だけどときには、そんな人が自分の運命を変えてしまう、なんてこともあるのかもしれない。人生というのは本当に、何が起こるか分からないものなのだから。




 「……僕と彼女ははじめ、毎朝の通勤途中ですれ違うだけの関係でした。僕は別に彼女のことをじろじろ見ていたわけではありませんが、毎朝すれ違うのです。顔くらい覚えたって不思議ではないでしょう。当時の僕が彼女のことをどう思っていたのかについては、今となってはあまり思い出せませんが、おそらくは特に何とも思っていなかったのだと思います。僕が彼女になにか特別な感情を抱きはじめたのは、たぶん、あのときからなのです。

 

 そのときの僕は毎日、同じネクタイを締めて仕事に行っていました。ところがある日、僕はそのネクタイを失くしてしまいました。僕は少し残念には思ったけれども、ものを失くすこと自体はよくあったし、ネクタイは替えもあったからあまり気にはしていませんでした。

 

 その次の日の朝、僕は彼女に突然話しかけられました。

 

「これ、昨日帰りに拾ったんですけど、見覚えがあったのでもしかして……って思って。そしたら今日は違うネクタイをつけていらしたから……」

 

 彼女は少し照れくさそうにそう言って、カバンからネクタイを取り出しました。それは間違いなく僕のネクタイでした。僕は仕事帰りに歩きながらネクタイを外す癖があったから、その時に落としてしまっていたのでしょう。僕は純粋な感謝の気持ちを込めて「ありがとうございます」と彼女に言いました。そして彼女にネクタイを渡してもらうと、足早に仕事へと向かいました。

 

 しかし実のところ僕は、彼女にもっと深く感謝しなくてはならなかったのです。僕がそのことに気が付いたのは、その日の午後になってからのことでした。なんとネクタイの裏側の、ほつれていたはずの縫い目がとても丁寧に補修されているではありませんか。

 

 焦った僕はその日の仕事帰りに、ちょっとした菓子折りを持って、毎朝すれ違うくらいの場所で彼女を待つことにしました。彼女はすぐに現れました。「せっかくネクタイを直してくれたのに気が付かなくてごめんなさい」と僕は彼女に言って、手に持った菓子折りを渡そうとしました。「いいんです」と遠慮する彼女の手に半ば押し付けるように菓子折りを渡して、僕は何度もお礼を言いました。彼女は困り果てた様子でしばらく僕を見ていましたが、やがて僕に向かってこう言い放ちました。

 

 「もしよければ、一緒に食べます?」

 

 僕は驚きました。驚いたけれど、でも、きっとこれは彼女なりに気を使った結果なのだろうと考えて、僕はその提案を受け入れることにしました。こうして僕らは一緒にお菓子を食べることになりました。


 西日に照らされながら近くの公園のベンチに二人で座って、僕らは菓子折りのクッキーを食べはじめました。食べながら、彼女は「篠崎佑亜です」と名前を名乗りました。僕も「桐谷蓮です」と同じように名乗りました。初めのうちは何を話していいのかがお互いに分からず、ぎこちない会話が続きましたが、でもそれは初めのうちだけでした。辺りがすっかり暗くなり、彼女の顔を照らす光が公園の電灯しかなくなったころには、僕らはすっかり打ち解けていました。そんなに大した内容の会話でもなかったのですが、彼女との会話はとても楽しいものでした。彼女と話しながら僕はときどき、周囲に迷惑がかかってしまうくらい大きな声で思いっきり笑いました。こんなに楽しい会話はこれまでにしたことがないと心の底から思ったし、それはたぶん本当なのでしょう。しばらくして彼女と解散してからも僕は幸せな気分でいっぱいでした。このときはまだ気が付いていませんでしたが、僕が彼女に特別な思いを抱きはじめたのはたぶん、このときからなのです。


 それから僕らは仕事帰りに会って話をするのが日課となりました。僕はやっぱりたくさん笑ったし、彼女も楽しそうに会話をしていました。

 

 やがて僕は、仕事をしながらも彼女のことを考えてしまうようになりました。何をしていてもどこにいても僕は彼女の顔を思い浮かべました。そして実際に会ったときには、まるで何かに取り憑かれたかのように彼女の顔をじっと見つめてしまうのです。彼女の細やかな表情の変化や些細なしぐさだって、僕にとってはどうしようもないほどの尊い宝物となりました。




 そうした日々をしばらく過ごしてから、僕は彼女をデートに誘ってみました。デートと言っても休日に会う約束をしただけなのですが、これは僕らの関係にとってはとても大きな進展でした。一か月前にはほとんど他人だった僕らが休日に会おうというのです。デートの前日には、僕はまったく眠れませんでした。


  その日、僕らはショッピングに出かけました。僕は彼女と過ごしながら、一日中緊張を隠すのに必死でした。それに対して彼女はいたって自然体のようでしたから、僕はそんな彼女を少し羨ましく思いました。関係を持ちはじめて間もない僕らにとっては当たり前といえば当たり前だったのですが、彼女とのデートは、まさに驚きの連続でした。彼女は思いつきで動くタイプの人間でしたが、しかしあまり衝動的にはなりすぎずに、いい具合に買い物を楽しめる人でした。そして彼女はカワイイものを見つけると、まるで子供のようにはしゃぎたてました。普段の彼女は、おしとやかな佇まいをしていましたから、目をキラキラと輝かせながら興奮している彼女の姿は、僕にとっては本当に意外な光景でした。でもそれを見た僕は、ますます彼女から目が離せなくなっていました。

 

  そうして時は過ぎ、気がつけば夕方になっていました。帰り道にて、勇気を出して僕は彼女に交際を申し込みました。彼女は僕の言葉を聞くなり、クスっと笑って言いました。

 

「もう付き合ってるようなものじゃない?」

 

 僕にはそのとき、その言葉が冗談のようにも本心のようにも聞こえたのです。僕は返す言葉に困ってしまいました。そんな僕を見ていた彼女は、いきなり僕の手をとって、いわゆる恋人つなぎというやり方で自らの手を僕の手に絡ませました。彼女の手はひんやりとしていて、でもとてもあたたかかった。僕は安堵しました。さっきの言葉は冗談でもあり本気でもあるのだと、僕はようやく理解することができたのです。僕は強く優しく、彼女の手を握り返しました。


 そんなこんなで、僕らの関係は恋人にまで発展しました。そしてそのまま一年ほどを、彼女と過ごしました。相変わらず彼女と一緒にいる時間はとても楽しいものでした。僕らはたくさん笑って、たくさんの思い出をつくりました。彼女と僕は同じ屋根の下で眠り、同じご飯を食べるようになっていました。毎朝目を覚ますと、そこに彼女がいる。ただそれだけで僕の世界は光で溢れました。毎晩布団の中では、この希望に満ち満ちた日々に感謝しながら僕は眠りにつきました。

 

 やがて僕は、残りのすべての人生を彼女と共に過ごしたいと考えるようになりました。そう、僕は彼女にプロポーズをしようと決心したのです。


 プロポーズの場所はちょっと高級なレストランにしました。日にちは、僕らが付き合いはじめた日。指輪と花束も用意しました。頭の中で、何度も何度もシミュレーションをしました。断られるかもしれない、なんてことは想像もしませんでしたが、僕はとても緊張していました。ふたりにとって忘れられない思い出になるはずの日を、台無しにする訳にはいかなかったのです。僕は少し焦りながらも胸を高鳴らせて、その日を今かいまかと待っていました。


 せめて、もう少し早くすれば良かった。僕は今では、そう思っています。でもこれは結果論で、どうすることもできなかったし、誰も悪くないのです。いったい誰が、僕のプロポーズが叶わないなんてことを予測できたでしょうか。そう、これは単に、運が悪かったというだけの話なのです。運命はどこまでも、どこまでも残酷に、僕をただ貫いてゆくのです。


 それは、プロポーズの前日のことでした。僕はいつものように道を歩いていました。横断歩道に差し掛かり、左右を見て車がいないことを確認してから、僕は道を渡りました。そのときでした。一瞬にして、僕の右側に車が現れました。僕はしまったと思いましたが、しかし、もう遅かったのです。僕はその車に撥ねられたかと思うと、体がふわっと宙に浮くのを感じました。そして、視界がぐるりと回転し、僕の頭は固い地面に激突しました。僕は一瞬だけ、自分の頭がぐにゃりと変形するのを感じて、そして次の瞬間、僕はもう何も感じなくなっていました。……」

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