第2話 明らかな盲点

 この黒パンは間違いなく大岡さんだ。


 そして俺はさっき、大岡さんの尻を叩いてしまった。


 学年でもトップクラスに可愛いギャルの”尻“を、この手で……


「って、興奮してる場合じゃないだろ……!」


 こんなの訴えられて俺の人生詰みパターンだ。


 バレないためには今すぐにここから退散する以外に手はない。


 一応大岡さんの尻に俺の上着をかけておき、缶箱を回収する暇もなくこの場から去った。


 異性の同級生の生尻を目撃したことに対する謎の罪悪感と、その尻を叩いたという明らかなギルティー行為を胸にしまって帰宅した。


『……お兄、遅い』


「いやその……ごめん、ちょっと寄り道してた」


 玄関を開けてもらえずインターホン越しに真宇に謝った。


 アイスの季節とは程遠いため、アイスが溶ける心配はなかったが真宇の機嫌を取るのは大変だった。


 翌日になり登校すると、教室にはさっそく友達と談笑する大岡さんの姿があった。


 昨日は尻だけで彼女の顔は見えなかった。


 草木に隠れていた彼女の顔はいったいどんな表情をしていたのだろうか、なんてキショい想像をなんとか人間の尊厳で抑えながら自席に着席した。


 彼女は昨日、自らの尻を叩いた犯人が俺だとは知らないはず。


 ただ俺が一方的に大岡さんの尻を叩いたことを知っている。


 叩いた直後の声も確かに彼女のものだったし間違いはない。


 スマホを見ながら、たまに彼女の方へと視線を向けてみるが、今日はまだパンツは見えない。


 だがまだ大丈夫、一日は長い。


 学校での時間をフルに活用した日課なのだから。


 ………そう思っていたのだが、気づけば六時間目が終了して放課後になってしまった。


 まだ大岡さんのパンツの色を確かめていないのに帰るわけにいかない!


 だからと言って見せてもらえませんか、なんてことを言えるはずもなく、むしろチラ見えにこそ価値がある。


 見えない日があったっていいじゃない。


 それでこそパンチラに更に希少価値がつくというものだ。


「……なんか今日はいつもよりスカートが長かったような………」


 下駄箱まで来て、外靴に履き替えるためにロッカーを開けた先に俺は驚愕の光景を目にした。


 そこには、入れた覚えのない上着がきれいに畳まれた状態で置かれていた。


 しかもそれは、昨日俺が来ていた部屋着であり、確か尻に被せて手放したものだ。


 もう帰ってこないと思っていた上着が返ってきたことが嬉しい、はずもなく俺の心臓はいつにも増して鼓動のリズムを速めていた。


 ゆっくりと上着を手に取り広げると、ふわりと柔軟剤の香りが漂ってきた。


 家の柔軟剤の匂いではなく、彼女とすれちがう度に漂ってくるものだ。


「終わった………バレたー…………」


 昨日の人物が俺であるとバレた上に、ご丁寧にも上着を洗って返された。


 上着の前側、左胸あたりには俺の苗字である『佐伯』の文字がしっかりと刻まれていた。


 ガンッッ!


 ロッカーに両手をつき、途端に後悔の念に襲われた。


 中学を卒業してからずっと部屋着として使っていたがために、自らの名前が入っていることを完全に忘れていた。


 名前が書かれた中学のジャージを被せておいてバレないわけがなかった。


 佐伯という苗字はそこら中にいるものでもないし、すぐに佐伯真という阿呆だと確信したのだろう。


「……あっ、でも大岡さんが俺のことを認知していたということか………?だとしたらそれはそれで嬉しいかも」


 冷静さを取り戻し、ひとまず中学のジャージをバッグへ入れる。


 そうしてこの場から一歩も動くことなく周囲の気配を探り始めた。


 俺へ向けるただ一つの視線を感じて、ゆっくりと背後を振り向いた。


 するとロッカーの端から顔を半分だけ出してこちらを覗いている人物──如何にも大岡さん──がいた。


 俺と目が合いビクッと身体を震わせた彼女はその場から一目散に逃げ出した。


「あっ、ちょっ…──!」


 急いで後を追うと、長い廊下を走っていく姿が目に映った。


 瞬時の思考の末に、俺はここで大岡さんを逃すことが危険であると断定した。


 何より、いつ彼女がこのことをバラすのか気が気ではない。


 口止め……はできないが、なんとか説得して尻を叩いたことを許してもらい、そして最終的には和解して事なきを得たいのだ。


 しかし半端な呼び止め声など無意味に終わってしまうのは目に見えている。


「っ………、お尻をぉぉ……叩いてごめんなさぁぁぁい!!!」


 校内の廊下で人生一の声量を出して叫んだ。


 己のプライドなど気にしている場合ではない。 


 おそらくはギリギリ二階にまで届いているであろう、俺が出せる限界の声だ。


 当然ながら廊下を歩いていた生徒は一斉に俺の方を振り返り、聞き間違いなのか本当に「お尻を叩いてごめんなさい」と言ったのか分からないような表情をしている。


 廊下を走っていた大岡さんは気がつけばこちらへ引き返すように全力で走って向かってきていた。


「あ、あの大岡さん。少し話を……───」


「〜〜〜〜っ///」


 言葉にならないような声を発して、ゆでだこのように赤面している。


 腕を掴まれそのまま後ろ向きの状態で引きずられた。


 大岡さんのあんな焦った表情は初めて見た。


 校内の人目につかない場所に連れられ、彼女が足を止めた。


「なんでっ……あんな恥ずかしいことを言うの……っ!」


「確かに俺は大岡さんに向かって言ったけど、周りの人はそう捉えられないと思うよ。誰かも分からないモブが人気の金髪ギャルの大岡さんのお尻を叩けるはずない、ってさ」


「………っ、私は恥ずかしいの!!」


 怒ったような表情で迫ってくる大岡さんの目には涙が浮かんでいる。


 俺は思うのだが、これほどピュアな人物がなぜ夜中の公園で尻を丸出しにしていたのだろうか。


「えっと……、ジャージ……ありがとね。ちゃんと洗ったから安心して!」


「い、いや……そこはむしろ洗わなくても良かったというか、ご丁寧にどうも。それで……俺としましては、昨日の件で和解をしたいのですが……」


 昨日の件、だけで伝わるだろう。


 俺が尻を叩いてしまった件について訴訟を起こすことなく和解をしたい、なんて言えない。


「和解だなんてそんな全然………、えっと、なんの和解をするの?」


 キョトンとした表情でなんのことか理解できていないといった様子だ。


「だからその……、俺が叩いてしまったことについて……」


「………あっ、やっそれは……あれはどっちかと言えば私が悪かったっていうか、全然怒ってるとかじゃないし……むしろありがとうというか………」


 今度は俺のほうが、彼女が言っていることに対して理解できないでいる。


 尻を叩いたことで悪いのは100パーセント俺なわけで、というかこの人今「ありがとう」って言わなかったか、聞き間違いか?


「一つ聞きたいんだけど、なんで公園で尻を出していたの?突然叩いてくる人がいれば、もっと危ないことをする人もいるかもしれないんですよ。」


「うぅ……だって、漏れそうだったから…………ごめん、忘れてぇ…………」


 恥ずかしさに耐えられず両手で顔を隠している。


 耳の先端まで真っ赤に染まっている。


「もしかして本当にトイレに先客がいたとか……?」


 そうだとすれば俺の推測がドンピシャで当たっていたことになる。


「えっ、トイレなんてあったの……?」


「えっ……?」


 あの建物をトイレと知らなかったとは、さすがに当たりようがない。


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