1553年 家操20歳 大野の戦い 三河騒乱(前編)

 1553年 家操20歳


 今川義元 分国法の今川仮名目録を制定(これにより動員兵数爆増 効果は再来年から)

 武田信玄 信濃制圧

 三好長慶 足利義輝を京から追放(これで義輝が京を離れるのは二度目)

 川中島の戦い(第一次)

 畿内、日本海で記録的な大旱魃





 年が明けて2月、北条との小競り合いを和睦して戦闘状態が終了した今川家が三河に更に2000の兵を送り、山口親子と合わせて4000名で三河東部の織田方の城を攻撃開始。


 俺も動員されて、250名を率い、織田方は総勢9000名、大将は柴田勝家で今川軍が陣を敷く本宮山で決戦となった。


 天候は霧で視界不良の中、山中を進んでいた織田軍に突如今川軍が側面を攻撃し、奇襲を受けるが、柴田勝家は自らの部隊を率いて奇襲した今川軍の側面を奇襲。


 二重奇襲状態となり、織田軍は部隊を率いていた林通具と後方の部隊を率い、この戦が初陣であった丹羽長秀が奇襲の衝撃から素早く立ち直り、今川軍を半包囲の状態となる。


 俺は自分の部隊を大回りで遠江側の山の中腹まで移動させる。


 数が劣勢かつ奇襲が失敗したことで今川軍は撤退となり、部隊を2つに分けて移動を開始した。


 そのうちの1つが俺の部隊が潜んでいる中腹付近の道を通り抜けようとしたので、部隊が半分ほど進んだ所で射撃を開始。


 伏兵が潜んでいるとは思っていなかった今川軍は狭い山道で右往左往してしまい、将棋倒しで亡くなる者や射撃の餌食になり、500名近くの兵がこの撤退戦で戦死することになり、その中の多くは今川方の遠江国衆の家来達であった。


 織田軍も2000名近くの兵を失ったが、今川は3000近くの兵を失い、織田軍が勝利したに思えたが、吉良が今川に付いて岡崎に軍を動かし始めたと報が入る。


 柴田勝家は今川軍の追撃を打ち切り、反転して矢作川の桜井村に軍を進める吉良軍と交戦状態に入る。


 吉良軍は3000、こちらは7000であるが、ここで旧松平家臣が奥三河で決起し、田峯城と長篠城を奪還し、三河豪族の酒井衆の酒井村(幡豆郡)も松平旧臣の決起に参加。


 以後国人一揆衆と呼ぶが、三河北部を制圧し、4000の兵を集めて岡崎を目指して進軍を開始した。


 水野様が吉良討伐に援軍として兵3000を出すが、水野と内葉が留守と判断した佐治為景率いる佐治衆1000名が今までの友好関係を破棄して北上を開始。


 尾張も尾張で斯波義統が信長と内通をしていたとして清洲織田家の家臣に斬殺される事件が発生、鷹狩りをしていた息子の斯波義銀はそのまま信長様の所に転がり込み、清洲織田家攻撃の大義名分をゲットした為に三河の防衛戦をやっている間に親衛隊と織田信光叔父様を率いて清洲城への攻撃を開始していた。


 そこに佐治衆が北上……つまり熱田か留守の水野本拠地の緒川城どちらを攻撃するか分からない状態となる。


 ただ最悪な事に今清洲織田家への軍を知多半島に向ければ織田信長は主君である斯波義統の仇討ちもしない武士の風上にも置けないというレッテルを貼られてしまうため、織田信光様の軍を急遽佐治為景討伐に組み込まれることになる。


 俺は所領が危険にさらされていることを忍び衆から聞いて三河防衛部隊から離脱し、知多半島へと全力で駆け抜けた。


 ここで状況を整理しよう。


 まず三河南部で水野、三河織田連合軍約8000が吉良率いる吉良衆3000と対峙。


 三河中心部の岡崎城には兵1000名が詰めて織田信行が守っている。


 三河国人一揆衆は三河北部で兵4000で岡崎目指して南下、今川方は兵1000で東三河の城に詰めている。


 佐治衆が知多半島を北上、それを織田信光率いる兵1500が討伐に向かう。


 内葉領内では守将中村鹿之助、一門内葉伊達、内葉大和、木下秀吉、木下秀長率いる兵250名が家操の残した防衛計画を元に領内に入られる前に迎撃する構え。


 こうして今川侵攻を起点とした三河騒乱が本格化する。











「一方も領内に入れるな! 弓を扱える者は弓を持て! それ以外の者は円匙(スコップ)と盾を構えろ! 矢に当たらぬ様にするのだ!」


 鹿之助の号令で町民や農民達が徴兵されて村や町を守るために立ち上がった。


 女や子供達は城に避難し、奉行衆の指示に従って防衛の準備を進める。


 即席の柵を作り、その後ろで鉄砲や弓を構えて佐治衆を待ち構える。


 防衛準備が出来たのは忍び衆により探り、いち早く情報を伝えたのが大きい。


 佐治為景が攻め始めたのは兵を集めて2日後であり、内葉守備隊は防衛準備を整えていた。


「撃て!」


「かかれや!!」


 佐治為景の号令と鹿之助の号令で大野の戦いが始まった。


 200丁の鉄砲による掃射と弓を扱える者150名による射撃が行われ、次々に佐治為景の兵が減っていく。


 しかし犠牲よりも突破を優先し、屍を踏み越えて突撃を続ける。


「第二陣まで下がれや!」


 伊達の掛け声で第一陣を放棄して川を挟んだ第二陣へと防衛線を下げる。


 第一陣の柵を越えるのに手間取っていたり、迂回しようとすると容赦なく川を越えた場所から弾丸や矢が飛んでくる。


 ボンと川にかかっていた橋が爆弾を使って落とし、第二陣の防御を更に高める。


「突っ込め! ……クソ! 想像以上に硬いではないか! 家操だけでなく内葉の兵の練度が高い!」


 第一陣を突破するまでに500名の兵を失い、統率するのも限界になった所に佐治為景のこめかみに矢が深々と刺さる。


「内藤殿が佐治為景を射抜いたぞ!!」


「「「おお!!」」」


 大将を失った佐治衆は瓦解し、逃げるために背を向けた所に弾丸や矢が撃ち込まれ次々に討ち取られていく。


 佐治衆は785名もの兵を失い、当主を失ったことでガタガタであった。


 大野の戦いの翌日に家操が慌てて帰ってきたが、ほぼ死傷者の出ない一方的な戦で勝利したことを褒め称え、弾薬の補給を済ませるとMaxの約500名の兵を率いて佐治の常滑城の攻撃を開始し、城兵は150程度であり、一気に落とすために臼砲を実戦で初披露。


 3門から合計45発放たれ、城の壁は崩れるは館に直撃して悲鳴と炎上するわ、櫓が当たった拍子に倒れるわと絶大な威力を発揮し、常滑城は1刻(2時間)もせずに陥落し、佐治一族は自害、佐治水軍も一旦解散させられて、援軍に来た信光様に報告をした。


「大義である! 俺はすぐに信長の元に戻る。家操も来い!」


「は!」


 俺は佐治の領地を占領できる兵200名を置いて、約300名を引き連れて清洲攻めの信長様の元に向かった。


「遅かったな! こっちはこっちで終わったぞ」


 信長様は清洲の内通者を使い、城門を開けさせてそのまま城に雪崩込み、清洲織田家一族や家老達は切腹。


 城兵を解散させて清洲を支配下に組み込んでいた。


「このまま本拠地は清洲に移す。家操、褒美は後日とする」


「は!」


 一方その頃三河では吉良と水野織田連合軍の決戦となり、水野織田連合軍が勝利、吉良の軍を撃退させて、岡崎城を囲んでいた国人一揆衆に攻撃を開始するが、国人一揆衆は数的劣勢の中粘り強く戦い、水野織田連合軍を跳ね返してしまう。


 ここで背後から三河一向宗が蜂起、水野織田連合軍を攻撃し始め、水野織田連合軍は総崩れ、織田家重臣の林通具が戦死、8000いた連合軍は2000まで兵をすり減らして散り散りに逃げてしまう。


 で、国人一揆と三河一向宗がここで結託して岡崎城を攻め続け、岡崎城は力攻めを受け落城。


 不満を爆発させた三河武士達により織田信行等の岡崎城に詰めていた織田家一門は信長の母親である土田御前や美少女とされたお市の方、お犬の方、信行の息子等を含めて脱出に失敗し、斬首され、城下に晒される事となる。


 三河騒乱、まだまだ続きます

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