第86話

「――――」




その時何故か頭の中で、『相良さん』と呼ぶ彼女の声が聴こえた。





「阿部!!」



今まで此処で、会社内で出したこともないような大声を出したのは自分の姿を見た彼女が今にも泣きだしそうな表情を残してその場から走っていったから。




「貴章くん」


名前を呼ばれて初めて顔を見たけど、殴る気にもならなかった。


「…シね」


「!」



触れもしないで阿部を追いかける。




阿部には申し訳ないくらいあっという間に追い付き、細い腕を引き寄せる。嫌がる顔を自分の方へ向かせると、可哀想なくらい怯えた表情を見せた。



「い、いや……っ!」


「阿部」

「嫌です!離してくださ……っみないで……きたな」


「汚いのがお前じゃないってことくらい判る」



両頬を片手で掴んで、既に泣きじゃくっている彼女を見つめる。




すると彼女は、空いた片手で自分の唇を強く擦り始めた。


「……!!」



「相良、さ、ごめんなさい」


「阿部、血が出――」


「ごめんなさい……っ」


「やめろ!!」


「ごめんなさい…っただでさえ貴方に釣り合うような人間じゃないのにこんなことも守れないで何が、『彼女』――――っ」




頭にきて、



噛み付くように彼女の唇へ舌を這わせた。





「……ん、ぅ、……ヤ…ッ」


「うるさい」



ジ…と血を掬った後、ちゅう、と音がするように深くくちづける。



「ひ、痛……っ」



力の入らないらしい阿部は座り込もうとしたけど逃さず腰を持って立たせた。


いやだいやだと顔を背けようとするから余計に苛立って圧し掛かるようにひとの咥内を侵す。




「お前…すげーむかつく」

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