血濡れ姫にご用心 Bloody maid
血濡れ姫にご用心I
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と
店頭に並んでいたお試し用の知恵の輪を見ていた記憶がある。金色の部品が、まるでカバンの奥から出てきたイヤホンケーブルのように絡まっている金属の輪っか。
何だか昔、こういう知恵の輪のような携帯ストラップもあったな、と恵美は思い返す。だが、過去にはあまりいい思い出はない。あの時使っていたお気に入りのピンクの携帯電話は、画面が割れて使えなくなった。
「恵美さん!」
恵美の目の前で、
恵美の背後には一人の男がいた。背後、というのは若干
恵美は、男に羽交い絞めにされていた。
出来るメイドの朝は早い。いや、出来ないメイドはそもそも
道中に軽い朝ご飯を買い、車内で済ます。まだ仄かに暗い車道ではついスピードが出てしまうが、曲がり角や物陰には細心の注意を払った。有栖川家に到着したのは午前五時半。就業時間の三十分前だった。
昔とはまるで真逆の生活だ、と恵美はメイド服に着替えながら考える。以前の、学生だった頃の恵美は昼夜逆転は当たり前で、学校には冷やかしでいく程度だった。それなのになぜいま、こんなにかしこまった場所で仕事が出来ているのか本当に謎である。全ては、まだ幼かった有栖川みれいの鶴の一声によるものだったが、その時のことは今もなお鮮明に覚えている。
恵美は着替え終えて部屋を出る。いわゆるヴィクトリアンメイド服と呼ばれるロングスカートのメイド服は、最初こそ着させられている感が拭えなかったが、年齢も三十路を越えてからようやく様になるようになってきた。
有栖川家には恵美以外にも
朝礼、というほどではないが互いに今日の予定を話し合い、共有すべき事項を述べていく。美園さんは普段通りの洗濯や炊事などの家事全般。望月さんは掃除と庭の手入れ、午後からはご主人様と出かけるらしい。すぐに解散かと思ったが、高齢の美園さんがしわがれた声で恵美に質問してきた。
「みれいお嬢様は、お元気になされていますか?」
美園さんは有栖川家の離れに住まわせてもらっており、膝が痛くてあまり遠出はできないのだと言っていた。ほとんど家出同然に飛び出していったみれいのことを、孫のように思っている節があり、こうして一日おきぐらいにみれいのことを訊かれるのは、よくあることだった。
「変わらずですよ。美園さんに教えてもらったレアチーズタルトのレシピを、そのままお伝えしたら、すぐに作られたそうです。出来はまぁ、想像通りだと思います」
「そうですか、そうですか。きっと少し焦げてしまったぐらいのほうが、可愛げがあるというものです。またみれいお嬢様が何か頼まれましたら、ぜひお力添えするとお伝えください」
少しどころではなく、消防車に救急車も呼び寄せたレアチーズタルトだときいていたが、とても柔和な笑みを浮かべる美園さんには伝えられなかった。恵美はぎこちない笑みを浮かべて、頷く。
「はい、それはもちろん」
「では先ほどもお伝えしたとおり、今日は買い出しをして家のことを手伝っていただいたら、夕方にはあおいお嬢様の御付きを頼みますね。外出されるということですから」
「かしこまりました」
恵美は美園さんから買い出しのリストを受け取る。買い出しに行くにしてはまだ早い時間帯だったが、有栖川家には
外に出て、飛び石を渡り犬小屋へ向かう。まってましたとばかりに伊三郎は恵美に飛びついて、尻尾をぶんぶんと振った。昔は伊三郎とみれい、あるいはあおいを引き連れて散歩したものだったが、今ではすっかり恵美の担当になりつつある。伊三郎もそれが分かっているのか、すぐに大人しくリードをつけさせてくれた。
門の方へ向かっていると、脚立にまたがった望月さんがいた。手には巨大な
「伊三郎の散歩ですか。最近この辺りは物騒ですから、用心なさってください」
「はい、ご忠告感謝します」
望月さんはそれだけいうとすぐに手入れ作業を始めるようだった。いつも、必要最低限の会話しかしたことがないが、普段あの人は休みは何をしているんだろうな、と恵美は不思議に思った。指には結婚指輪がはめられているのを知っているので結婚はしているだろうが、なんだか休みの日も庭の土いじりなどしていそうだ。
のんびり歩いていると、伊三郎が急に路地のほうを注視して、方向転換する。毎度決まったコースだが、ときおり伊三郎の気まぐれで知らない道に入り込むこともある。今日もそのパターンだった。もう何度目かのマーキングを終えた伊三郎を先頭に、恵美は路地に入る。
路地は薄暗かった。エアコンの室外機は唸りをあげ、そこかしこに空き缶が転がっている。伊三郎にはしっかり教育してあるので変なものを口に含んだりはしないが、少し心配ではあった。
伊三郎に気を取られていてすぐに気が付かなかったが、路地の奥にある自転車の横に、人がいた。それは大学生ぐらいの女子二人。一人はオーバーサイズのパーカーを着て帽子を被ったアメカジっぽいファッションで、もう一人はショートデニムのセットアップで、大胆にもへそ出ししている。この時間帯では肌寒いのでは、と恵美はいらぬ心配をした。
二人は伊三郎を最初に見てから、恵美を見る。路地裏で柴犬を連れたメイドに出会うとは思わなかっただろう。目のやり場に困っている様子だった。だが二人にはそれ以外にも、何か後ろめたさというか、戸惑っている雰囲気がにじみ出ていた。
「おはようございます」
恵美が声をかけると、二人は「ざす」とも「らす」とも取れる小さな挨拶を返した。伊三郎は意に介さぬように、二人の足元をうろうろとしている。
「ここに居たか」
すると突然、奥の曲がり角から男が現れた。派手な金髪に黒いサングラスをしている。ジーパンにはウォレットチェーンがだらりと垂れ下がっていた。路地に落ちているゴミを鬱陶しそうに蹴り飛ばしながら、こちらに近づいてくる。へそ出しの女の子がぶるり、と身震いした。
女子二人は互いの手を握りながら男をみたあと、どこか縋るような目つきで恵美をみた。
「あの男の人は……お知り合いですか?」
恵美は昔から、こういった子たちを見て見ぬふりはできない性格なのだ。女子二人はお互いの顔を見合ってから、振り絞るような声で「助けてください」といった。
その声が聞こえたのか、男が舌打ちして早足に女子たちに近づく。それを、伊三郎が吠えて牽制した。
「なんだよ、この犬!」
男が躊躇なくポケットからナイフを取り出す。サングラスで視界が悪いのか、それを投げ捨てたかと思うと前へ進み出てくる。
「ひっ」
二人の女子のうちどちらかが、息を呑む。恵美はゆっくりと前へ進みながら、男の視線を確認した。まだその視線は、伊三郎に向けられている。メイドなど眼中にないのだろう。
男の意識が伊三郎にいっている時点で、もう勝敗は決まったも同然だった。
恵美は邪魔なロングスカートをたくし上げて、ひらりと回る。容赦、という言葉を持ち合わせていない美しい弧が描かれて、足先が男の顎をほとんど掠めるように打ちつけた。途端、男はたたらを踏んでその場に座り込んだ。目を白黒させて、手に持ったナイフを地面に落とす。トドメに、伊三郎が何度目かのマーキングをして、決着となった。
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