暗号よりも気になる彼女Ⅱ
冴木賢は助手席で大きな欠伸をした。寝不足というわけではなく、ただただ退屈だったわけだが、運転する瀬戸茜は素知らぬ顔である。
後部座席には用途不明な品々が雑多に置かれており、四人乗りのはずが二人乗りになっている。開けたサイドウィンドウから入り込む午後の風は涼しげで、これがドライブならば気分も多少は上がるだろうが、行く先は開かずの金庫があるという宇津井邸である。
ミス研会長の萩原大樹は実家の柔道を口実に逃げていったが、有栖川みれいは迎えが来る手筈になっているのでその車で向かう、と言っていた。大学生にもなって送迎とは、随分なお嬢様ではないか、と冴木は少しばかり驚いた。だが、目的地に着いてしばらくしてから現れた白いポルシェから、みれいが出てきたとき、冴木は開いた口がふさがらなかった。
「では、連絡したらまたお願いいたしますわね。
みれいが、後部座席のドアを開けたメイド服の女に話しかける。
「はい、お嬢様」
ぺこりと頭を下げたメイドは、後部座席のドアを閉めると、もう一度お辞儀をしてから運転席に乗り込んで颯爽と去っていく。一部始終を見ていた冴木と茜は一度お互いを見やり、再び視線をみれいに戻す。みれいは何食わぬ顔で歩いてくる。
「お待たせいたしましたわ、さぁ参りましょう」
「そ、そうね。行きましょうか」
あの茜でさえ、予期せぬ出来事に動揺しているようだった。
少し歩くと目的地が見えてくる。生垣に覆われた木造の平屋建てだった。表札に達筆な字で宇津井と書かれている。ここで間違いはないだろう。
みれいがチャイムを押す。宇津井が出てくるのを待つ間に周りをみたが、玄関脇に原付が置いてあり、その奥に軽トラが停まっているのが見えた。
「やぁ、わざわざ悪いね」
宇津井が玄関から現れた。
「今は俺しか住んでないからさ、気にせずに入ってくれよ」
冴木たちは招かれるままにお邪魔する。
「おじゃましまーす」
先に茜とみれいが三和土にあがり、靴を脱ぐ。みれいはブーツだったので、若干時間を要した。草木が描かれた玄関マットがあり、スリッパが置いてあった。靴箱の上には小さな観葉植物が置いてあり、玄関周りは埃一つない。
「随分と、綺麗にしてるわね」
茜がスリッパを履きながら言う。
「男の一人暮らしとは思えないわ」
「爺さんに玄関は綺麗にしておけって口うるさく言われててな」
宇津井は後頭部を掻きながら照れ臭そうにしている。
「何でも、風水的に良くないんだとさ。詳しいことはわかんねーけど、そういうの好きなんだよ、うちの爺ちゃん」
「ふぅん、風水ねぇ。写真や似顔絵も、置いちゃダメなんだっけ?」
「そうそう、良く知ってるね瀬戸さん」
そう言ったあと、宇津井は廊下の先を指さす。
「あ、この廊下ちょっと進んだ左側が客間だから、そこにいってくれる?」
宇津井はそういって二人を先へ行かせ、背を見送ったのち、振り返る。
「お前、ほんとに来たのかよ」
最後に靴を脱いでいた冴木は口をへの字に曲げて応えた。
「まぁ、はい。別に来たくて来たわけじゃないですけど」
「あ、そう。何でもいいけどあんまり邪魔はしないでくれよ。俺は飲み物とってくるから」
宇津井はそういうと廊下の先へと歩いていく。冴木は居心地の悪さを覚えながら客間へと向かった。
客間は和室だった。中央に背の低い大きなテーブルがあり、入口から見て左右に座布団が四つ置かれている。入口と反対側にある障子は開いていて、縁側の先にある庭が一望できる造りになっていた。
問題の金庫は、蔵から移動させていたのだろう。テーブルの脇にちょこなんと置かれている。
茜もみれいも、座布団には座らずに金庫と対峙していた。
「一般的な、耐火金庫ね」
茜が確かに鍵がかかっているのを確かめながら言った。
「他にも種類があるんですの?」
「防盗金庫とかね。これは小型だし、最悪開けられなくても持って盗めちゃうでしょ。そう考えるとそこまで高価なものは入っていなさそうね」
「わぁ、早速中身の価値を見定めるなんて、名推理ですわね!」
みれいは興奮した様子で茜を見つめている。推理というより、ただの憶測ではないかと思ったがそもそも冴木は推理という言葉の定義をあまり理解していなかった。
冴木も近づいて、金庫を見る。確かにオーブンレンジを一回り大きくしたぐらいのサイズだ。周りには錆などの汚れが目立ち、いかにも蔵の奥にありましたと言わんばかりだ。金庫の扉にはシリンダーキーの差込口とダイヤルがあり、一から九十九まで細かくメモリがついている。
「指紋照合式でも、電子ロック式でもなく、ダイヤル式ね。見た目も相まって確かに古めかしく感じるけれど……」
茜はそこで一呼吸おいた。みれいは食い入るように金庫を見つめている。
「そんな古いものでもないわね。耐火金庫の耐用年数は二十年だっていうから、少なくともそれ以内じゃないかしら」
「え? 金庫もそういった期限があるんですの?」
みれいは首を傾げる。
「てっきり何百年ともつものだと思っていましたわ」
「うん、耐火金庫は中にある気泡コンクリートの水分が水蒸気になることで庫内の温度を保つ仕組みなわけ。それが時が経てば徐々に蒸発していって本来の耐火性能を発揮できなくなるから、二十年なわけ」
「そうなんですの……でも、お爺さんが私のように使用年数を知らなかったということも、無きにしも非ずですわ」
「いや、多分開けた扉の内側にシールかなにか貼ってあると思うんだけどなぁ。その線は望み薄かな。でもそうね、耐火性能が失われても構わず使っているパターンもあるかもしれないわね」
茜とみれいが白熱した議論を交わしているなか、冴木は一人座布団に座って船を漕いでいた。興味のない議論ほど眠くなるものはない。英語の授業のときも眠かったな、と冴木はぼんやりと考えていた。
「金庫もいいけどさ」
そこへお盆にタンブラーを四つ乗せた宇津井が戻ってきた。
「テーブルの上にある紙。それが暗号なんだよ」
「えっ、どれですの?」
みれいが素早く座布団の上に移動してくる。
宇津井の持ってきたタンブラーの中身は、黒い液体。他には、コーヒーフレッシュとスティックタイプの砂糖。ということは中身はアイスコーヒーだろう。そういえば豆がどうのと言っていた気もする。喉は乾いていなかったが眠気を打破するカフェインを摂取するために、冴木はアイスコーヒーを頂くことにした。
「宇津井先輩、砂糖とミルクもらっていいですか?」
冴木が言うと、宇津井は露骨に嫌な顔をして無造作にテーブルにフレッシュミルクとスティックシュガーを放った。そんなに嫌がられることをした覚えはないが、冴木は甘くなったコーヒーを啜りながら苦い顔をする。
渋面なのは、冴木だけではなく、茜とみれいもだった。二人は紙切れをじっとみつめている。
「分かります? 瀬戸先輩」
「これは……なんだろね」
その様子をみて、宇津井は少し機嫌を取り戻したようだった。
「まぁゆっくり考えていってくれよ。コーヒーのおかわりはまだまだあるぜ。そうだ、何か甘いものでも持ってくるわ」
冴木はコーヒーを半分ほど飲んでから、健気に女子に媚びを売る宇津井に訊いた。
「ところでその暗号とやらは、本当に金庫のダイヤルナンバーを示しているんですか?」
「ん? ああ……」
宇津井は冴木を見もせずに答える。
「そう思うけどな、金庫と一緒に置いてあったし……うちの爺さん、忘れそうなものってメモ書いて貼るんだよ。通帳とかにも、付箋で暗証番号が貼ってある。ほとんど意味をなしてないんだけど、何故かこの金庫だけ一目見て分からないようになってんだよな」
「ふぅん」
その様子では、銀行口座なんかよりも大事なものが入っているともいえるのではないか、と思ったが冴木は口には出さなかった。茜は金庫を見て高価なものではないだろう、と目ぼしをつけている。そこへ異を唱えれば、強制的に暗号解読捜査会議に参加させられそうだ。
「冴木先輩は、何か分かったんですの?」
みれいが冴木に意見を求めた。だがあいにく、冴木はまだ暗号をみてすらいない。というか、見る気すらなかった。それに気づいたのか、茜が無言で紙切れをこちらに見せてくる。いやでも視界に入ってくる紙切れに、黒いペンで文字が書いてあった。
『白羊は死に絶え、失われし九番目の凶星が道となる』
殆ど紙の中央に、達筆な字で書かれたそれを見て、冴木は鼻を鳴らした。何とも胡散臭い文面だ。
「これが、ダイヤルの番号の鍵ってこと?」
「何か分かったんですの!?」
みれいが腰を浮かせる。だが、冴木は首を横に振った。
「ダイヤル錠って、右に四回、左に三回、右に二回、左に一回と回して、開けるんだろう?」
「ああ、そうだ」
宇津井が代わりに答えた。
「シリンダーキーを差し込みながらな、そのカギはあるぜ」
「あ、そうですか。それはそれとして」
冴木は暗号の紙を指さす。
「この文が、八桁の番号になるのかと思って」
「言われてみれば、そうね……」
茜が再び紙を自分の方に向けて唸った。この暗号の中で唯一の数字は九番目、という文字だけだ。八桁全てが九、なんていう馬鹿げた答えではないだろう。
「なるほど、ケルクホフスの原理ですわね」
みれいが呟いた。
「え?」
宇津井がコーヒーを飲む手を止めて訊く。
「ケルク……なんだって?」
「ケルクホフス。十九世紀にアウグスト・ケルクホフスが提案した原理のことですわ。暗号方式は、秘密であることを必要とせず、敵の手に落ちても不都合がない、ということを指すんですのよ」
みれいはまるで講義でも行っているかのように
「暗号と一言で申しましても、スペクトラム拡散や、ステガノグラフィーなど多岐に渡りますわ。またミステリではダイイングメッセージなどもありますが、今回はそれらには該当しません。宇津井先輩のおじい様は、自分一人が解読できれば良いと考えてこのメモを残したはずですわ」
「な、なるほどね」
宇津井は
その理論でいくと、解読は不可能なのではないか、と冴木は思う。だがもちろん、解いてやろうなどという考えはそもそも持ち合わせていなかった。そこまでして自分以外の人間に見られたくないものなんてあるのか、と不思議に思ったぐらいである。
「これは、長丁場になるわよ」
茜はぐいっとアイスコーヒーを飲み干して、座布団の上で胡坐をかいた。
「一つ一つ、紐解いていきましょう。必ず、数字に結びつく何かがあるはず」
冴木は腕時計を盗み見る。午後四時。日が暮れるまでに帰れるだろうか。
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