第1話 山奥の蠍爺
第霧が立ちこめる山深い場所に、ひっそりと一軒家が佇んでいる。そこに住むのは、年老いた男、弥助。年齢は70を過ぎているが、その動作には無駄がなく、体は驚くほど鍛えられている。
弥助は、山での生活を一切苦にすることなく、毎日のように農作物を育て、静かに暮らしていた。しかし、彼の表情には深い皺が刻まれ、その背中にはかつて背負った重荷がまだ残っているかのようだった。
ある日の朝、弥助が畑で作業をしていると、いつものように静寂を破る音が聞こえてきた。遠くから、足音がこちらへと向かっている。弥助はすぐに気づく。稲葉隊長だ。
「先生、また来ちまったよ。」
防衛軍の隊長、稲葉がいつものように笑みを浮かべながら家の前に現れた。弥助はその声に反応せず、作業を続けている。
「よく来るな、稲葉。俺は引退した身だと言ったはずだが。」
「ええ、わかってますよ。でも、そうも言ってられない状況なんです。」
稲葉は顔を曇らせる。弥助は手を止め、振り返った。その鋭い眼差しは、一瞬で稲葉の真意を見抜く。
「何があった?」
「ザウドがまた動き出したんです。今度は、南の村を襲った。数十人が…戻らなかった。」
「ザウド…か。」
その名が口にされた瞬間、弥助の眉が一瞬だけ動いた。ザウド――かつてはただの人間だったが、今では不死身の怪物と化し、各地を脅かしている極悪人。その冷酷さは噂を超え、伝説となりつつあった。
「防衛軍は何もできなかった。どれだけの攻撃を加えても、あいつは蘇る。人間の手に負える相手じゃない。」
稲葉は拳を強く握りしめた。彼自身もザウドとの戦いで大きな傷を負っている。戦いが終わった後の、無力さ――その屈辱が、稲葉の心を縛り付けていた。
「先生、あなたの力が必要です。毒針だけが、あいつを倒せる。俺たちじゃ無理だ。」
弥助は一瞬、黙り込んだ。彼の目は遠くを見つめるように虚ろだ。ザウドの名前が呼び起こす記憶が、彼の胸に重くのしかかっているようだ。
「俺が再び戦いに戻ることは望んでいない。」
「でも、先生、あなただけが…」
「わかっているさ。」
弥助は静かに言い、再び作業に戻った。だが、稲葉はその後ろ姿に気づく。彼の肩には、再び戦うための決意が宿っていることを。
「稲葉、あと少し待っていろ。準備が必要だ。」
その一言に、稲葉は希望を見出した。そして、弥助が毒針を手に再び立ち上がる時が近づいていることを悟った。
その日、弥助はいつもより早く畑仕事を終え、自宅に戻った。作業台の上には、彼の唯一の武器である「毒針」を生成するための材料が揃っている。
「まだ、使えるかどうかはわからんが…」
弥助は静かに、丁寧に針を一本ずつ手に取り、その表面に毒草を塗り込み始めた。その手の動きは熟練の技であり、まるで芸術家が作品を仕上げるかのように慎重だ。
「ザウドか…またお前と相まみえる時が来たか。」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ独りごちるように発せられた。そして、静寂の中、蠍爺と呼ばれる老人は、再び死闘の場に戻る準備を進めていた。
次回、彼が再びその毒針を手にする時、戦いは避けられない。
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