第2話 梅の香微かに

 金五郎が、“うめ”と会った日から、早くも、五日が過ぎた。無口な面白味のない男が初めて会った童女に、よくもあの様に喋れたものだと我が事ながらに感心する。

 稚児髷を高く結った、邪気の無い子供、故に心を許すことができたのだろうと、金五郎は考えた。元服も済ませ一人前の男として、妻が居てもおかしく無い、金五郎としては“うめ”の立ち姿から目の離せなかった自分のことが訝しく思えて仕方が無かった。父もそうであったように、金五郎も修行に目鼻がつき、先の見通しが立ってから、所帯を持とうと思っていた。まだまだ、修行中、宮仕の身であればそこまで剣術に拘る必要は無いのだろうが、和田平助の倅として、この世にある以上此方でも名を成さねばならない。出来れば諸国を巡っての武者修行を思わないでも無かった。しかし、宮仕の不自由さが、それを許さない。気儘に国許を出るなど、家名を持つものに出来るわけがなかった。父は、十五の年に親と主君の許しを得て、諸国行脚のうちに、田宮流居合術に巡り会えた。既に、本道を得たと見做される金五郎には、諸国行脚の道はなかった。父に憧れることで、同じ道を辿りたいと思いはするが、父が見出し発展させた技を受け継ぎ、より高みへと至る為には、無駄な時間など必要はないと、父は言うのであった。金五郎もそれには頷くしか無かった。

 その意味であれば、早くに身を固める事も考えて良いのだろうが、そこは、気を配るべき母親のいないことが、ことを遅らせたかもしれない。また、命懸けの常軌を逸した修行の続く限り、女体の事を人並みに考える事は、滅多に無かった。この様な金五郎であれば、邪な気持ちで“うめ”を思うことなど無いと、自らも考えていた。只、父が、能く言う「考える事と、思う事、感じる事、似ている様で其々に違う」「何が正しいのか、分からない時は、感じたままに動くが良かろう」成る程とは思い、感じるのだが、考えてしまう己がいる。また、父が言う「感じたままに動いて、結果、驚く程に能く出来た」「此れを、そのままに受け容れても、身には付かない」「事の起こりと、行く末を、能く能く考える事だ、然すれば身にも付こうよ」

 なれば、此度の事は何かの意味の有るや、無しや、まだまだ、女子おなごにもならぬ女の童に魅入ってしまった。己の、尋常ならざるに恥じいるばかりであった。

 そして、又、今、金五郎は、朝比奈邸へと向かい、過日と同じ道の途中にいた。あの、四辻が見えると、僅かに心が浮き立つ思いのする。何々、何時も人と話す事など無いものだから、それが珍しく面白く思っているだけだろう。いやいや、今日も逢えるなどとは、定めもない事、ある筈も無い事だ。金五郎は考えながらに、辻を右に折れた。暫し、過ぎると「もし、金五郎様、和田様!」と、呼ばわる声が聞こえた。ふっと、右手の生垣越しに中庭を覗く。“うめ”が此方を窺うように笑んでいる。ほう、逢えたか。金五郎は思った。微かに、梅の香が香った。「おぅ、うめ殿でござるか?」 「はい、先日振りで御座います」「朝比奈様を、お尋ねですか?」

 「いかにも、して、母御のお加減は如何?」 「大事、御座りませんでした」「梅の枝を、臥所に飾りましたが、喜んで頂けました」 「あぁ、それは何より、では、御免」 「はい、お気を付けて」

 その後も、何度か朝比奈邸を訪れる機会があった。そして、その度毎に“うめ”は中庭にて金五郎を、まるで待っかのように出迎えた。毎度、一言、二言、言葉を交わすだけであったが、それで互いに十分に嬉しい。否、それ以上のあることを、互いに思っても見なかったのが本当のところだろう。その様な疎い間柄ではあったが、“うめ”はどうやら金五郎の六歳下で、今年十二となったばかりで有ると知った。見たところは、それより一つ二つ下と思っていた。しかし、何しろ近所の目がある往来での行き合い、幼いといっても既には嫁ぎゆく娘もいる歳周りであれば。金五郎も能く能くに、気を遣わねばならなかった。それからは互いに、そっと目を見合わせ頷く様に挨拶をするだけとなり、言葉を交わす事は無くなった。そうした日々が二年近く過ぎた。金五郎は二十歳になり、“うめ”は十四になった。近頃は、すっかり娘らしくなり、目を合わせる事すら、何やら気恥ずかしくなっていた。あれ以来、言葉は一度も交わしていなかった。それでいながら、何処と無く満ち足りた想いに溢れ。ややもすると“うめ”と行き合った道すがらに、笑んでいる己が居たりした。只、これが、恋なのか?それは互いに分から無かった。ただ、”うめ“だけは、近々に我が身に起こるであろう縁談の、その相手が金五郎で有れば、どれ程に安心できるだろうと考えないでも無かった。一方の金五郎は、未だに修行の日々にあった。飯を食う、風呂に入る、厠や、寝床まで、父、平助の教練の一撃が襲って来る。此れを躱しながらの尋常なら無い修行の日々は、本来、気を休めるべき自宅に於いて一層厳しかった。この様な、日々を過ごしていれば、修行それ以外の事に気を取られる何ぞは、文字通りの命懸けだった。父、自身が三十歳を過ぎて初めて世帯を持ち、嫡男、金五郎を得たのが三十六の時だった。況してや、実母の居ない今の状況で、金五郎の縁談など影も見えないのは、仕方ない事だった。

 そして、何れ、訪れるその時は二人の元へやって来た。その日、金五郎は、十日振りに朝比奈邸を訪れた。既に、梅雨も明け、夏の陽射しが背を焦す候と成った。今日も、四辻を右に折れた先、生垣の向こうに、待ち人は佇んでいた。いつもの様に、隠す様に目線を合わせて、頷き合う挨拶を交わしたところで、何時以来に、“うめ”が口を開いた。

 「和田様、少しの間、お話しを、宜しいでしょうか?」 「はい、構いません」金五郎は、応えながらに、聞きたくない話であると判じた。 「私、この度縁有って、大番組、奥入勘兵衛おくりかんべい様の元へ、嫁ぐ事と成りました」”うめ“は、挑む様に金五郎の目を見つめ、告げながらに徐々に顔を伏せて行く。「それは、おめでたい事で」金五郎は声の震えるのを、気付かれまいと殊更に低い声で、吐き出す様に言った。「今まで、世話になり申した」 「此方こそ、お世話になりました」互いに、この先、二度と会う事もないだろう明日を感じながら、声、無く離れていった。この後、二人はその声も聞けず、その顔さえも二度と見る事はなかった。

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