第25話 皇帝陛下、痴漢扱いされる
日が沈み、暗くなったのを利用して、私はいつものように就寝したと見せかけて、芳霞殿を抜け出し、勝手知ったる裏道の狭い隧道を抜けて、知り合いの門番に挨拶をしてから、一見無人に見える星辰殿に入った。
淡い燭台の灯の下、今夜もゆったりとした長袍姿の霄はすでに緑雨さんと酒盛りを始めていたらしく、相変わらず感情の乏しい顔つきで、足音を轟かせながら現れた私を、しれっと見返してきた。
「もう少し大人しく入って来いよ。春天。これじゃ、物音だけで衛兵に駆けこまれる」
「霄。あんた、陛下に何の悪知恵を植え付けたんだ?」
「……別に何も。今日あたり、後宮にでも行ってみると良いんじゃないですかって申し上げただけだ」
「それを悪知恵って言うんだよな? しかも、随分、陛下と仲良いみたいだけど? そもそも、あんたって陛下と直接話せるんだから、相当身分が高いんだよな? どの地位にいるんだよ?」
「まあ、一応……良くはして頂いている……が。俺の正式な身分を教えたところで、お前、分かるのか?」
「分からない。……けど、私には緑雨さんがいる」
「えっ、わ、私ですか?」
急に話を振られた緑雨さんは、私と霄を交互に見つめて、動揺していたが、そんなことはどうだって良かった。
「……ともかく……だ。あんたのおかげで、今朝から大変なことになってしまったんだ。なんか、よく分からんが、黒子の陛下に一目惚れだーとか、訳の分からんこと叫ばれて、手も握られて、挙句、香樹さまからは、皇帝は最初から私を妃に所望していたんだとか、何だとか言われてさ……」
「ごほっ!」
「な、何だ? 急に」
ごほっごほっと、肩を震わせて咳き込む霄を目にしたのは、初めてだった。
「大丈夫か? あんた、日に日にやつれているような気がするんだけど?」
「だったら、それは明らかに、お前のせいだろうな」
咳き込みながら、霄が皮肉っぽく答えるが、私には意味不明だ。
「なぜだ?」
むしろ、迷惑をかけられているのは、全面的に私の方じゃないか?
「ま、まあ。皇帝陛下は、瘴気に当たりすぎて、ちょっと……まだ本調子ではなかったのかもしれません」
「そうだな。確かに、緑雨さんの言う通り、あれは常軌を逸していた。息が荒いし、心拍数も高めのようだったし、近所で撃退した痴漢のようだった」
「陛下……。ほら見たことですか! とうとう、痴漢扱いですよっ!」
緑雨さんが何やら突然喚き始めたが、しかし、霄の動揺はそれ以上だった。
「何だって! お前、そんな目に遭っていたのかよ。いつ、何処で、誰に何をされたんだ? そいつ、捕まえたのか? 俺が直々に切り刻んでやりたいんだが?」
「いや、もう済んだことだし。別に」
「えー……と。我が国の皇帝は、今、その痴漢と同じ立ち位置にいるんですよね?」
相変わらず、意味不明な呟きを緑雨さんがしている。
二人共、すでに酔っ払っているのかもしれない。
「まあ、痴漢のことは置いておいて……」
「置くなよ。重要なことだ」
「いや、目下、私にとって大変なことは、陛下の危険さと、他の元お妃様たちの血走った目の方だ」
「待て。春天。陛下は危険じゃないだろう? 外見が危険なだけで」
「外見が危険なんだよ。もう、危険以外の何ものでもないだろう」
「……っ」
さらっと言い返したら、なぜか霄が押し黙った。
酔いが回って、眠くなってしまったのかもしれない。
「……しかし、まだ挽回の機会もあるかもしれないし」
「挽回? 何だ。さてはあんた、私のことで陛下と何か賭け事でもしているんだろ? やめてくれよ。これ以上、変なことに私を巻き込まないでくれ」
「あのな、陛下も俺も、そこまで下衆じゃない」
「ふーん。だったら、私なんかに一目惚れだ、何だって陛下が仰っていたのは、私に龍仙珠のことを言わせないための策略だな。私を妃に娶る? そんな異常なことがあるか? 我ながら、一目惚れされるような容姿ではない」
「そんなこと、分からないじゃないか。単純に、お前のその……みょうちきりんなところが堪らなく愛おしいと、一目見て思ったのかもしれない」
「変な被り物しているのに、私の姿がありありと見えるのか?」
「……こ、心の目で」
「何? まさか、陛下は心眼の持ち……」
「……はい、はいっ! もう、いいですか? お二人が会話を続けたら、朝を迎えても、不毛に終わりませんから。それで、春天殿、血走った目を貴方に向けていた他の妃たちというのは、晏妃、驪妃の両名でしょうか?」
「緑雨さん……。悪いけどさ、その敬称で呼ばれても、いまいちぴんと来ないんだよね?」
「春天。もはや、彼女たちは元・妃ではあるけれど、高位の妃の場合、公式の場で名前を呼ぶことは非礼に当たるんだ。だから、住居にしている宮殿の一字を取って呼んだり、実家の姓に妃をつけて呼んだりする。今、居残っている妃たちは、皆、実家の姓を名乗っている」
「へえ」
現実世界で最も雅な場所は、よく分からない、しきたりばかりだ。
疲弊しきった私の苦笑に気づいたのだろう。
霄は拳大の肉饅頭を皿の上からひょいと取ると、私の口に放り込んだ。
まだほんのり温かさが残っている。
さすが、宮城の料理人が腕を振るってくれた一品。
肉汁がじゅっと染み出て、頬が落ちるほど美味しかった。
(いけない……。これは、堕落する味だ)
さすがに、桃花源には肉饅頭なんてないだろう。
私は霄に、餌付けされようとしているのかもしれない。
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