俺はベランダでタバコを吸っていた。その日は仕事で嫌なことがあり、空は鉛のように重かった。そのとき突如として激しい揺れが町を襲った。どん、と地鳴りが響き、すべてが崩れ落ちるような感覚に包まれる。地震だ。それは一瞬の出来事ではなく、長く、終わりの見えない恐怖のはじまりだった。建物が崩れ落ちる音が周囲から聞こえ、俺はすぐに行動を開始した。煙が冷たい空気に混じり、闇に消えていく。町は瓦礫と化し、道は見えない。人の呼ぶ声が遠くから聞こえてきた。


揺れが収まると同時に、俺は周囲を見回した。建物が倒壊し、瓦礫に押しつぶされた車や家々が視界に入る。瓦礫の下からは誰かの呻き声が微かに聞こえる。呆然と立ち尽くす俺に津波警報が耳に飛び込んできた。その音は容赦なく、現実に引き戻すものであった。胸に込み上げる不安を振り払うように、俺は近所の人々に「高台に逃げろ!」と声をかけて回った。


動けない近所の老人を背負い、倒れた電柱を避けながら、必死に生き延びるために周囲の状況に対応した。逃げる途中で見えたのは、泣き叫ぶ子供たちや、絶望に打ちひしがれて座り込む大人たちの姿だった。その中で俺は、自分ができることをただ一心にやるしかなかった。一人を高台に送り届けると、また助けに戻った。俺は必死に周囲の人々を助け続けた。


そして津波が町を襲った。巨大な黒い壁が一気に押し寄せ、町中のすべてを押し流していく。瓦礫や車、家の残骸が流れに巻き込まれ、人々の悲鳴が闇に響いた。黒い海はすべてを飲み込み、俺もまたその激流に呑まれた。必死に抵抗し、何とか流木にしがみついて沖へと流されていった。


激痛で目を覚ます。俺は生きていた。体中が痛み、肌は擦り傷や切り傷で血だらけだった。周囲は瓦礫の海、見渡す限り助けを求める声も届かない絶望的な光景が広がっていた。雨が降り始め、冷たい風が肌を刺すように感じた。体力は限界を迎え、心は死の影に覆われ始める。俺はタバコを取り出して火をつけた。煙を吸い込むたびに、心の中に広がる暗闇が少しだけ薄れていく気がした。


「じいちゃん……俺もここで、あんたみたいに消えるのかな……」


そう呟くと、俺は震える手で最後のタバコを咥えた。冷たい雨に打たれ、体が凍えきっていた。俺の祖父は漁師だったが、借金を踏み倒して海に逃げたと言われていた。誰も彼が生きているとは思っていなかったが、俺は祖父が死んだということが信じられなかった。祖父の吸っていたタバコを吸い続けることで、まだどこかで繋がっていられるような気がして、タバコを辞められなかった。


冷えた指でタバコの火を眺めながら、俺はじっと黙り込んだ。その時、かすかな声が耳に届いた。


「おい、まだだぞ」


その声は、祖父のものだった。俺は驚き、辺りを見回すと、暗闇の中から祖父が現れた。まるで現実のように、そこに立っていた。


「お前、ここで終わるのか? 俺だったら、そんな風には死なねぇぞ」


「じいちゃん……?」


「諦めるな。まだ死ぬには早い」


俺はその言葉にハッとした。確かに、体は凍え切っていたが、諦めるにはまだ早い気がした。祖父との思い出が頭をよぎる。俺が子供の頃、祖父と一緒に海に出たときのこと。荒れた海で怖がる俺に、祖父は笑いながら「海はお前を試してるだけだ。怖がるな、立ち向かえ」と言ってくれた。あの時の祖父の強さが、今の俺に必要だと思った。


俺は瓦礫をかき集めた。倒れた木の枝や紙くず、家の残骸を寄せ集め、必死に火を起こそうとした。震える手でライターを擦るが、何度も失敗する。しかし、ついに小さな火が生まれた。火はか細く燃え上がり、冷たい体に僅かな温もりをもたらした。俺はその炎に希望を感じ、体を丸めて暖を取った。


「良くやった。それで良い。きっと助かる」


周囲からは助けを呼ぶ声や、生存確認を求める叫び声が聞こえてきた。「助けて……!」という声、「ここにいるぞ……!」という声が闇の中に響く。しかし、寒さとともにその声は次第に減っていき、静寂が周囲を支配し始めた。俺の意識も再び遠のきかけたその時、遠くから聞こえてきたのはエンジン音だった。ボートが近づいてきている。炎の光が目印となり、俺は声を振り絞った。


「ここだ……助けてくれ……!」


かすれた声に応えるように、救助隊が駆け寄ってきた。


「まだ生きているぞ! すぐに搬送だ!」


俺は抱えられ、ボートに運ばれた。体は限界だったが、命の火は消えていなかった。船内で一息ついた俺は、ふと周囲を見回したが、いつの間にか祖父の姿は消えていた。


あの祖父は本物だったのか、それとも亡霊だったのか、俺には分からない。ただ、確かに祖父の言葉が俺を救ったのだ。雨はまだ降り続いていたが、俺の心の中には小さな火が灯っていた。それは、祖父が教えてくれた「絶対に諦めるな」という教訓、その火だった。


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