【番外編】last time forever(1)



「えっ? 菜乃子ちゃんが……?」


 夕食の準備中に鳴った携帯に出た数秒後、お母さんが深刻そうな声を上げた。電話をかけてきたのは、きっと、亮太郎のお父さんと飲みに行くことになっていた、わたしのお父さん。


「う、うん。わかった。気をつけてね。わたしにも、できることがあったら……」


 どうやら、途中で切れたらしく、お母さんが不安げに携帯をテーブルの上に置いた。


「亮太郎のお母さんに、何かあったの?」


 このようす、ただごとじゃない。


「あ、うん……亮太郎くんのお母さんがね、家で急に倒れて、救急車で運ばれたって」


「それって、まずいんじゃないの?」


 もしかしたら、脳の方の病気とか。


「そう、今は意識があるらしいんだけど、心配だよね。加瀬くんとお店に向かってるときに、亮太郎くんから連絡が来たらしくて……とりあえず、遊佐くんも加瀬くんと病院に行ってみるって」


「そっか……そうだ。響くんには?」


 亮太郎のお母さんは、わたしもお世話になっている、大切な人。何かあったら、絶対に嫌だ。


「あ、そうだよね。えっと……」


 動揺して、お母さんの手も震えてる。


「響くんには、わたしが連絡するよ」


 こういうとき、響くん以上に頼りになる人はいない。多分、今は勤務中。亮太郎のお母さんのわかっている状態を伝えて、手が空いたら、わたしのお父さんか亮太郎のお父さんに連絡してもらえるよう、すぐにメールを打った。


「大丈夫。きっと、響くんが力になってくれるから」


「うん……そうだよね。菜乃子ちゃん、食事も生活もきちんとしてるし、大変なことにはならないよね。わたしも、ごはん作っておかなきゃね。ありがと、花」


 自分に言い聞かせるように、何度も「うん」と首を縦に振りながら、お母さんが再びキッチンに立つ。気が気じゃないけれど、とりあえずは、病院に寄るという、お父さんの帰りを待つしかない。







「遊佐くん……!」


 玄関のドアが開く音を聞いて、いつも以上の勢いで、お母さんがリビングを飛び出す。


「どうだった? 遊佐くん。菜乃子ちゃんには会えた? 大丈夫そう?」


 わたしも続いて廊下に出たんだけど、お母さんの質問には答えずに、お父さんは深く息をついた。


「遊佐くん?」


 心配そうに、お父さんをのぞき込む、お母さん。


「亮太郎のお母さん、どうなの? お父さん」


「……悪い。ちょっと、頭が整理できない」


「ゆ、遊佐くん?」


「着替えてくる」


「ゆ……」


 お母さんを無視するように、お父さんは寝室に引っ込んでしまった。


「どうしたんだろう? まさか……」


「落ち着いて。亮太郎に電話してみる」


 あのようすじゃあ、お父さんとはまともに話ができない。


「もしもし? 亮太郎?」


『ごめん、花。心配かけて』


 お母さんに見守られながら、亮太郎の携帯に電話してみると、数コール後に亮太郎が出た。声の感じから、一息ついたところという感じ。


「お母さん、どうなの?」


『脳出血だって。早めに処置できて、命には関わらないみたいなんだけど……』


「だけど?」


 明らかに下がった声のトーンに、不安が募る。


『麻痺とか言語障害とか、後遺症がどの程度残るかは、まだわからないって。でも、響くんのお兄さんの専門分野らしくて、明日来てくれることになったから、くわしい話が聞けるかも。ありがとう。花が、響くんに連絡してくれたんでしょ?』


「後遺症……」


 亮太郎のお母さん、身体もつらいに決まってるけど、心がまいってるよね。


『花のお父さんにも、伝えてくれる? 一応、状態は安定してるって。うちの父さん以上に、重く受け止めてくれちゃってたっぽいから』


「わかった。亮太郎も無理しないでね。わたしにできることなら、手伝うから」


『ん。本当、心配しないで。できることをやっていくしかないから。じゃあ』


「お大事にね」


 お父さんゆずりなのか、意外と腰の据わっている亮太郎を頼もしく思いつつ、電話を切った。


「亮太郎くん、何だって?」


「脳出血らしいけど、命に別状はないって。これから、くわしい検査とかしていくんだと思う」


 お父さんにも聞こえるかもしれないから、後遺症のことには触れずにおく。


「そっか……命には関わらないっていっても、大変な病気だね。そうだ。響くんからは、返信あった?」


「ううん。でも、お兄さんに……」


 と、そこで。


「遊佐くん」


 着替えを終えて、水を飲みにきたお父さんに、お母さんが駆け寄る。


「大変だったね。あ、ごはんできてるよ。結局、何も食べられなかったでしょ? 遊佐くんの好きな鶏肉のトマト煮だよ」


 お父さんを元気づけるため、多分あえて、いつもどおりの調子で声をかけた、お母さん。そんなお母さんへのお父さんの反応は、予想どおり。


「いい。今日は、食べられる気分じゃない」


「あ……ごめん。そっか、そうだよね」


 いら立ちさえ覚えたようすで、素っ気なく、お父さんがバスルームへ向かう。お母さんは気落ちした表情で、お父さんのために準備した食器を片付け出した。


「気にしない方がいいよ?」


 お父さんに、こういうところがあるのは、子どものわたしにもわかってる。普段は感じないんだけれど、大人らしからぬ繊細さというか、弱さがある。今のは、お父さんを気遣っていた、お母さんがかわいそう。だけど。


「えっ? 何が?」


 何もなかったように、お母さんは笑っていた。







「ただいま。あ、おいしそう」


 翌日、学校から帰ってくると、キッチンからビーフシチューのいい匂い。


「そうでしょ? お昼から、念入りに仕込んでたの」


 真剣な顔で味見をしている、お母さん。


「今日は、すごく頑張っちゃった。お母さんは、お父さんの好きな料理を作ってあげることくらしか、できないもんね」


「お父さん、ね……」


 昨日の夜から、ほとんど口をきいていない、お父さん。お父さんと亮太郎のお母さんが、一緒に会って話をしているところは、ほとんど見たことがない。


 でも、あそこまで平常心を失うなんて、わたしが思っていたより、大学の頃は仲がよかったのかな。この前も、亮太郎のお母さんは、お父さんのことをかばような発言をしてたし…と、そのとき。


「…………!」


 わたしの iPhone が、電話の着信を知らせた。 響くんだ。こんな状況の中、不謹慎だとわかっていながら、うれしくてたまらない。忙しいことがわかってるし、なかなか電話もかけられずにいたから。


「響くん……!」


 抑えきれず、声が上ずってしまった。


『よかった。花が元気そうで、安心した』


「うん……」


 この声を聞くたび、自分の気持ちを思い知らされる。


『ようすを見に、加瀬と優に病院に行ってもらって、今電話で話を聞いた。優が見たところ、予後はよさそう。リハビリ後は、ほぼ元の生活に戻れるんじゃないかって』


「そう……よかった。ありがとう、響くん」


 一言一言、かみしめるように、響くんの話を聞いた。本人も、亮太郎のお父さんも亮太郎も、響くんのお兄さんのおかげで少しは安心できたはず。


『それよりさ』


「ん?」


 声の調子を変えた響くんに、聞き返す。


『大人になりきれない永遠の繊細少年の類くんが、動揺して、大変なことになってるんじゃないかと思って』


「よくわかってるね、響くん」


 お父さんとは、いちばんつき合いが長いんだから、当然か。


『ちゃんと、仕事には行った?』


「一応ね。お母さんが、お父さんの好きなビーフシチューを作って、待機してる」


『へえ。成長したね、二人とも』


「だよね」


 ふと、お母さんの方に視線をやった。代わってほしそうに、目をキラキラさせて、こっちを見てる。


「お母さんと話す?」


 しょうがないから、わたしから切り出してあげたんだけれど。


『いい。シチュー、焦がしそうだし。またね、花。心配なことがあったら、いつでも連絡しなよ』


「あ……」


 切れちゃった。iPhoneを受け取ろうと両手を差し出していた、お母さんが肩を落としてる。


「ごめんね。もっと早く代わればよかった。忙しかったのかも」


「ううん。どっちにしても、わたしと響くんで今話しても、わたしにできることはないだろうしね。でも、何か言ってた? 響くん」


 気持ちを切り替えたように顔を上げる、お母さん。


「うん。響くんのお兄さんが来てくれて、話を聞いた限りでは、後遺症とかも大丈夫なんじゃないかって」


「本当? よかった……あのお兄さんがそう言うなら、安心だよ」


 お母さんは、心底ほっとしたようす。


「お母さんは、響くんのお兄さんに会ったことあるの?」


「一回だけね。お父さんとの結婚式の日に、車で送ってもらったの。優しくて、頼りになりそうで、ものすごく格好いい人だよ。顔は響くんにそっくりなんだけど、雰囲気はちょっと違って、もう、本物の王子様みたいな……あ。おかえりなさい、遊佐くん」


 響くんのお兄さんの話を知って、安心しきったお母さんが、リビングのドアを開けたお父さんにも、笑顔を向けた。でも、今のタイミングって……。


「今日は、お腹空いてるよね? あのね、ビーフシチュー、すごくうまくできたの。菜乃子ちゃんなら、きっとよくなるよ。一緒に食べよ?」


 ちょうど、お母さんがはしゃいでるみたいに見えたのかも。お父さんが、あきれた表情で、お母さんをちらりと見た。

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