夕涼み

ぬりや是々

定時、5時30分。

 猛暑厳しく、日、暮れかけても、依然、真夏が街中を包んでいる。今時、エアコンのない車。送風口が吹き出すのは、温風と言っても差し支えない。それでも、風切り走れば幾らか、と抱いた淡い期待はあっという間に砕かれた。駐車場を出て左折、大通りへ向かうと帰路につく無数の車で渋滞している。ドリンクホルダーのペットボトル、手を伸ばす。お昼に開けたそれはもう温い。こんなことであれば車を出す前にコンビニに寄るのであった。後の祭り。祭り、字面すら暑苦しい。溢す愚痴、音にならず、ただ熱を持った息が吐き出されるだけ。触り続けるのも躊躇する程、未だ冷めない車のハンドルを、私は苦々しく睨んだ。


 夕刻、5時45分。一日の疲れ、毎日続く暑さとで、誰しもがイライラしている。際どいタイミング、しつこく点滅する車の後部ブレーキランプが苛立ちを周囲に知らしめる。右折レーン、車の列が連なり、直進レーンを塞いだ。身勝手な車線変更、無理な割込み。誰かが「諦めろ」と大声で怒鳴る代わりに鳴らすクラクション。

 私は辟易する気力もなく、温い水を口にして何度目かの青信号を見送った。

 私がまだ学生だった頃は、もう少し涼しかったのではないだろうか。そう考えた。もちろん、その時はその時、照りつける陽射しは充分に私達の肌を焼き、汗を吹き出させ、学業に対する気力を奪った。そうして、熱で呆けた頭、学生時代の夏に想いを馳せる。不意に、リーン、と鈴のような音が聞こえた気が私にはした。


 夏休みの教室。誰もいない校舎。学生服の彼が、ほんの気まぐれに持ち込んだ風鈴を、カーテンレールに括りつけ、下げた。私は、そういった彼の背中を、窓際からふたつ離れた列の席から眺めていた。腕、机に立て頬をつく。半袖からむき出しの腕に、少しひんやりする机の感触。カーテンを幽かに揺らす生暖かい風、彼の下げた風鈴の短冊をも揺らした。リーン。リーン。得意げに振り返った彼の、日焼けした、されど、どこか涼し気な笑顔。


 風鈴の音に思われたのは、自転車のベルであった。それに気づき、私は感傷に浸っていた事を気恥ずかしく感じた。停車線に停まった私の車、その前の横断歩道、ベル、鳴らし自転車がよろよろと走る。歩行者を縫うように走る自転車を避けようと、ふたり連れが相方の手を引いた。私はそれをフロントガラス越し、なんとなしに眺めていた。手を引いたふたり連れ、去った自転車には目もくれず、お互いを見て笑いあう。高校生、行っても大学一年生くらいだろうか。はにかむ様子、お互いを見やる眼差し、手を引く気配り、私はすぐにふたり連れが恋仲であると察した。

 戸惑いがなかったわけではない。ひとりは後ろ髪を刈り上げ、しかし前髪は長く顔は色白。細身だがすらっと背が高く、遠目にもかなりの美男子と見えた。私は青年が、学生時代の彼に重なって見え、年甲斐もなく胸、高鳴った。その青年が手を引くのも、また青年であった。同じような細身の体、やや背は低め。短髪で明るく髪など染め、くしゃり、臆面なく笑う。彼らは自転車を避ける際引いた手を繋いだまま、横断歩道を渡りきり、その先、地下鉄の駅へと下る階段に吸い込まれて行った。

 私は感嘆にも似た息を溢した。時代が随分変わったと感じた。私が学生時代であれば、やはりどこか憚られる物だった。しかし今、彼らを奇妙な目で見るような者はいない。単にこの暑さで周囲に目を配る余裕もないだけかも知れない。いずれにしても、彼らは颯爽と道行き、お互いを気遣い、笑顔であった。私は暑さも忘れ、彼らの清々しさに、涼風の趣きさえ感じた。


 この光景を帰ったら話してみよう。私は思った。家で待っているであろう彼は、高校時代と変わらない涼し気な笑顔で、興味深く聞いてくれるだろう。ひょっとしたら、青年達の若さに、幾らか嫉妬のような色を見せるかも知れない。彼はやや張り出してきたお腹、薄くなってきた額など気にしているのだ。そういった彼の表情や、若い恋人達の様子を肴に、ベランダ、ビールでも飲みながら、夕涼み。

 

 私は緩んだ口元に手をやった。伸びかけたヒゲ、ざらりとした感触を手の平に伝える。リーン、とまた涼し気で、澄んだ、透き通る音が聞こえた。今度は間違いなく、あれは、どこかの家の軒先に下げられた風鈴の音だ。


(涼)

 

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夕涼み ぬりや是々 @nuriyazeze

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