第20話 男爵令嬢マリアの悩み
「俺の妻になれば、
それはある時に言われた言葉。
「私を支えてくれ。全て私に任せてくれれば、不自由はさせないから」
それは、ある人に言われた台詞。
それは、彼らが誠意ある言葉として、わたしに向けてくれたものだ。
けれども、わたしはそれを、嬉しいと思うことができなかった。
だから、わたしは自分が結婚に向いていないのだと、心からそう思っていたのだ。
~✿~✿~✿~
リキュール伯爵とのデートを終え、リーディアの寝かしつけが終わった後、わたしは夫人の居室にて身繕いをしていた。
思わず大きくため息をつくわたしに、わたし付きの侍女マーサがクスリと微笑む。
「マーサ」
「奥様。私でよければ、お話をお伺いしますよ」
「……」
「とても悩んでおられるのでしょう?」
俯くわたしの前に、それとなくカモミールティーが用意されていて、困り果てた顔で侍女マーサを見つめると、彼女は柔らかく微笑んだ後、人払いをした。
どうやら、侍女マーサは、わたしがこの手の話題に関して、若い侍女達に気後れしていることに気がついたらしい。
「奥様。今日のお出かけは楽しかったですか?」
「……ええ」
「それはようございました」
ニコニコと微笑むマーサに、けれどもわたしは、上手く言葉を紡ぐことができない。
「ほら、奥様。話してみたら意外と大したことがないかもしれません」
「……そうかしら」
「ええ。そして、悩みというものは、たいてい解決したい方向が決まっているものです。口にするだけで解決することも多いものですよ」
「マーサが解決してくれるんじゃないの?」
「解決いたしますよ。このマーサが、全霊をもって奥様の背中を押して差し上げます」
「勢いづきすぎて転けてしまいそうだわ」
「怪我は若いうちにするものです」
二人でクスクス笑いながら、わたしはカモミールティーを一口飲む。
柔らかい香りが、今日一日で緊張した気持ちをほぐしてくれるようだった。
「……伯爵様にね、告白されたの」
「はい」
「わたしをね、愛してるって」
「はい」
口をつぐんだわたしに、マーサは穏やかに問いかける。
「とても嬉しくお思いなのですね」
無言で頷くわたしに、マーサは嬉しそうに頰を緩めた。
「受け入れるのは、難しいですか?」
わたしがパッと顔を上げると、マーサはわたしの言葉を静かに待っていた。
わたしは、しばらく目を彷徨わせた後、ようやく話を始めた。
「……わたし、20歳を超えても、未婚の娘として男爵領にいたでしょう?」
「はい」
「やっぱりね、今まで、いくつか縁談があったの。わたしが嫌で、ずっと逃げ続けていたんだけれどね……」
わたしは男爵令嬢だったので、元々、近隣の男爵領の跡取り息子に嫁ぐ予定だった。なお、実は男爵家だけでなく、子爵家の令息も候補に上がっていた。そして、何回か顔合わせをしたり、視察がてら挨拶をした。
けれども、いまいちわたしが乗り気になれなかったのだ。
彼らはわたしに、彼らの支えとなることを望んでいた。
そして、洗練された貴族としての自分に誇りを持っていて、都会嗜好で、使用人達の仕事や領民達の仕事への興味が薄く――特に、畑仕事を忌避する傾向にあったのだ。
「いつか子爵に、いつか伯爵になるんだって。領地を発展させて、豊かになって、泥臭い仕事をしなくていいようにするんだって言うの」
「……」
「苦労させない暮らしをさせるから、結婚しようって言われたわ。そんな畑仕事をやらされるような酷い扱いはしないって言うの。トマトなんて、って……」
彼らが、善意でそれを言っていることは分かっていたのだ。
だからわたしも、その場では笑顔で感謝の言葉を述べた。
けれども、どうしても結婚に踏み切る気持ちになれなかった。だからずっと、結婚したくないと父にごねてごねて、ここまで未婚で通してきた。わたしの結婚に関しては、最終的に一度は結婚するべきだと考えていた父と、自分は結婚しなくても兄のメルヴィスが妻を迎えれば問題ないと思っていたわたしと、ずっと平行線だったのである。
とはいえ、わたしの年齢を考えると、逃げ続けるにも限界が来ていたところだ。
だから、リキュール伯爵との契約結婚の申出は、本当にありがたいものだった。
今後、結婚しなくていいという免罪符を手にするために、わたしはこの契約結婚に臨んだのだ。
けれども、今日、その気持ちが覆ってしまった。
「旦那様は、違ったのですね」
マーサの言葉でリキュール伯爵の顔を脳裏に浮かべたわたしは、ブワッと顔を薔薇色に染める。そんなわたしを見たマーサは、「あらあら」と目を瞬き、わたしが頰が手を当てる前に、冷やしタオルをわたしに差し出した。彼女は優秀すぎる侍女なのである。
「伯爵様は……畑の中にいるわたしが好きだって言ったの」
『――私は、素朴な……あるがままの君を、とても愛おしく思っているんだ』
今日、小高い丘の上の見晴らしのいいカフェで、彼はそう、わたしに伝えてくれた。
『……なんと言ったらいいのだろうか。私はあの時、畑の中で、何かに媚びることなく、ただ収穫を喜び、飾ることのない姿でいたマリーと呼ばれる女性の存在に救われたんだ。そして今も、彼女以上に美しい女性はいないと思っている……』
そう告げた後、リキュール伯爵は、わたしを愛していると言った。
そしてそれが、どうしようもなく嬉しかったのだ。
心臓がバクバクと騒がしくなるし、瞳は潤んでくるし、何よりリキュール伯爵を見るだけで体温が上がってしまって、結局、デートどころではなくなってしまったのである。
どうやら、リキュール伯爵は、わたしの心臓のど真ん中を射抜いてしまったらしい。
流石はスナイパーリーディアの父。やはり彼も、凄腕スナイパーだったのだ。
「それでね、仕方がないから、そのまま帰ってくることにしたんだけど」
「はい」
「その……ば、馬車の中で、あの……事故がありまして」
「……。なるほど、坊っちゃ――コホン、旦那様が悪さをしたんですね。後でとっちめてやりましょう」
「あ、いえ、いいんです。わたしが悪かったので……」
素直に、わたしが動転しすぎていたのが悪いと思う。こんな気持ちになったのは初めてのことだとはいえ、馬車の中に二人きり、しかも相手は好きだと告白してきたばかりだというのに、「あなたのことが気になって仕方ありません!」というオーラ全開でわたしは身を縮めていたのだ。馬車が揺れてちょっと手が触れるだけでも過剰に意識してしまって、わたしがずっとそんな態度だったものだから、馬車の中は甘々で焦ったい桃色空間に変貌していた。だから、触れた手にドキドキしながら、恨めしげにリキュール伯爵を見上げたところで、色々と事故が起こってしまったけれども、もう本当にあれはわたしが悪いのだと思う。それに、恥ずかしいけれど……決して嫌ではなかったのだ。
「……こんなに贅沢なことがあっていいのかしら」
「奥様?」
「わたし……全然、貴族の奥様に向いてないと思うの。綺麗な街も嫌いではないけれど、畑や下町の方に興味があるし。執務も領地管理もできるけれど、この家の使用人の皆さんにお仕事を習うのも凄く楽しくて。仕事の貴賤とか、身分のことを考えるのも苦手だし、服も動きやすさ重視でいいと思っているし……」
結局、わたしは下町気質なのだ。
しかも、それだけではない。
わたしは、働くことが好きだ。
働いている人を見るのも、その人達の成果を見るのも好きだ。
そして何より、わたしがやってきたことや、価値があると感じたものを、大切にしてくれる人達の中で生きていきたいと思っている、面倒臭い存在なのだ。
そして、そんな面倒なわたしと、近隣の領地の貴族とは、どうにもウマが合いそうになかった。
「だから、マティーニ男爵領に居残るのが、わたしらしく生きていくために、一番手っ取り早かったの。だけど、伯爵様と結婚して、わたし、とても生きやすくて……」
リキュール伯爵は、わたしの話をいつでもしっかり聞いてくれた。
大切なリーディアの教育方針を、わたしに任せてくれた。使用人達の手伝いの話を興味深そうに聞いてくれた。わたしのやったことの成果を認めて、やりたいと思ったことを、できる限り実現するべく、支えてくれた。
今なら分かる。彼は自分以外の他人、一人一人の仕事を尊重してくれているのだ。だから、他の人にしているのと同じように、わたしのことも尊重して、認めてくれた。
そんな彼が、わたしのことを望んでくれている。
「わたしばっかり、幸せなの。こんなにも大切にしてもらって、素敵な人たちに囲まれて、可愛いリーディアとも一緒にいられて」
「……奥様」
「わたしもね、伯爵様を大切にしたいのよ。リーディアのことも、リキュール伯爵家を支えてる皆のことも、沢山幸せにしたいと思ってる。だから、わたしなんかが伯爵家に嫁いで、皆に後悔させないかって不安なの。田舎の男爵令嬢に過ぎないわたしよりも、きっと、相応しい人が……」
声が震えて、ポロリと熱いものが瞳からこぼれ落ちた。
マーサがわたしの手に、自分の手を重ねてくれる。
わたしは、涙を堪えることなく、マーサを見た。
「な、なのにね。わたし、今日、嬉しくて、動揺して、このまま流されてしまいそうになったの」
「はい」
「伯爵様が、好き……。その気持ちだけで、伯爵様の申出を受けて、リキュール伯爵夫人になろうとしたの。リーディアの本当のママになるところだったの。あの子には、生みの親だっているのに……こんなわたしが、あの子の『ママ』をもらうなんて、本当にいいのかって」
「奥様」
マーサはわたしの手を握りしめて、真っ直ぐにわたしを見た。
「完璧な人間はいないものです。悩むことも大切ですが、思い切ってやってみることも一つの方法なのですよ」
「そう、なのかしら……」
「結婚のように、家族を作るということは、とても勇気の要ることです。けれども、他のことと違って、いいこともあります」
「いいこと?」
「はい。一緒に頑張ればいいのです。奥様が幸せにしたいと願う新しい家族は、きっと奥様の力になってくれますよ」
目を見開いたわたしに、マーサは優しく微笑んでいた。
わたしはポロポロ涙をこぼしながらも、思わずクスリと笑ってしまう。
「凄い。本当に、背中を押されたわ」
「はい。そうお伝えしましたでしょう? だから、背中に手形がつくくらい押させていただきました」
「ふふ。やっぱり、勢いがつきすぎて転んでしまいそう」
「きっと旦那様とお嬢様が、両脇から助け起こしてくれますね」
「うん……」
わたしはマーサに感謝を告げると、マーサは頭を下げて、退室していった。
わたしは本当に、恵まれているのだと思う。
嬉しい気持ちで、浮かれているのかもしれない。
けれども、新しい家族と、一緒に……。
(明日の夜、リキュール伯爵が仕事から戻った後に返事をしよう)
翌朝、わたしはリキュール伯爵を仕事に送り出すときに、夜に時間が欲しいことを伝えた。
リキュール伯爵は少し緊張した面持ちで、今日は早く帰ると約束してくれた。
そして、わたしがリーディアと過ごしているところに、事件はやってきた。
なんと、リーディアの実母カーラが襲来したのである。
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