第13話 契約結婚 ※リキュール伯爵視点





「はじめまして、伯爵様。マリアです!」



 しっかりと日焼け対策はしているものの、麦わら帽子に髪の毛をしまい、まるで少年のような格好をした彼女は、初対面の私にそう名乗った。


「でも、いいんですか? 私が近づいてしまって、気分は悪くありません?」

「……いや、不思議なんだが、どうやら大丈夫そうだ。領民のみなが、君の名を毎日呼んでいたせいだろうか。あまり他人のような気がしない」

「そうですか? それはよかった。では伯爵様、ごゆるりとお過ごしくださいね!」

「えっ」


 そう言うと、マリアはあっさりとその場を走り去っていってしまった。

 私は呆気に取られた。

 女性相手に、こんなにも興味がなさそうにされるとは、青天の霹靂だった。


 隣に立っているメルヴィスは、呆然としている私を見てクツクツと笑っている。


「すみません、あいつ、基本的に適当なもんで。……興味もたれなくて、驚きました?」

「……ああ。その、そうだな」

「話がしたいなら呼んできますよ」

「いや、別に大丈夫だ。忙しいところを邪魔する訳にはいかない」

「真面目だなあ、もう。女どもがはずだ」


 メルヴィスは笑いながら、齧りかけのトマトの最後の一切れをパクりと口に放り込む。


「あいつ、伯爵様がいる間はずっとズボンで過ごすんですって」

「私が? なぜ?」

「伯爵様はうちに来た初日、無理にうちの母さんに挨拶しようとしてぶっ倒れたでしょう? だから、あいつなりに気を遣ってるみたいですよ」


 男爵家の家族構成は、男爵夫妻と、長男のメルヴィス、二男、三男に、長女のマリアである。なお、二男、三男は領地の外にいるらしい。

 私はマティーニ男爵領に来た初日、当然のように男爵夫人と長女マリアにも挨拶をしようとした。

 やんわりマティーニ男爵に止められ、それでも「最低限の礼儀です」と私が言い募った結果、「とりあえず妻に会ってみますか?」ということで男爵夫人に挨拶をし、挨拶をしている途中で眩暈で倒れ、その後何度か吐いて昏倒してしまったのである。本当に恥ずかしい話である。

 長女のマリアはその話を聞いて、私に気を遣ってくれているのだろう。


「それは……申し訳ない」

「ありがとうって言ってやってください。その方が喜ぶから」


 ハッと顔を上げた私に、メルヴィスは破顔する。

 そして彼は、トマトの入ったカゴを背負って、男爵邸まで戻って行った。


 私も、その後間も無く、男爵邸まで戻った。

 食事をいただき、湯浴みをしながら、物思いに耽る。


(私は、知らず知らずのうちに、気持ちが後ろ向きになっていたんだな……)


 どうやら、私は自分を自分で追い詰めていたらしい。

 長く息を吐くと、私は客間のベッドに身を沈め、マティーニ男爵家に来てから見た光景を思い浮かべた。


 青い空。

 色とりどりの野菜達。

 トマトを齧って笑っているメルヴィスや、領民。

 それに、一日中くるくるとよく動いている、小柄なズボン姿。


 ふと頰を緩めた私はその日、ここ半年で一番深い眠りについたのだった。



   ~✿~✿~✿~


 そこからさらに一週間後。


 私はマティーニ男爵にお願いをして、領民の収穫を手伝わせてもらうことになった。


「よろしいんですか? 畑仕事とはいえ、女性が全くいない訳ではないですが」

「はい。もうここに来て三週間ですし、今なら大丈夫そうな気がするんです。それに、その……」


 煮え切らない態度の私に、マティーニ男爵が首を傾げていると、横からメルヴィスが口を挟んできた。


「伯爵様、マリアが気になってるんでしょう? 父さん、アイツに任せとけば大丈夫だよ」

「おやまあ」


 マティーニ男爵が、目を丸くしてこちらを見てくる。

 私が恥ずかしくなって目を彷徨わせていると、マティーニ男爵は嬉しそうに微笑んでくれた。


「それはいい傾向ですね。じゃあうちのマリアを案内につけましょう。無理そうならいつでもメルヴィスに代わらせますので、言ってくださいね」


 その心地よいテノールの声に、私は素直に頷いた。



   ~✿~✿~✿~


「マリアです! って、もう挨拶はしてましたね。今日からよろしくお願いしますね、伯爵様!」

 

 翌日から、マリアの付き添いのもと、私はトマトの収穫をすることとなった。

 彼女は変わらず、畑作をする男性陣と同じズボン姿で、髪も帽子の中にまとめて入れてしまっている。どうやら、三つ編みにした髪をくるりとまとめて、麦わら帽子にしまい込んでいるようだ。

 貴族令嬢として日焼け対策をしているらしく、長袖に手袋なので、彼女の肌はほとんど見えない。

 一見、笑顔の素敵な畑作少年といったところである。


「本当はね、土を作って苗を作るところからやる方が楽しいんですよ」

「うわー、マリーが伯爵様に嘘を教えてるぞ」

「いや、ワシは分かるぞ。苗作りから始めてこそのトマトだ」

「ジェイコブ兄さん、話が分かるー!」

「俺は収穫作業が一番好きだから、ここだけやりてーわ」

「そんなこと言って、肥料の配合が一番好きなくせに!」

「バレたか」


 ゲラゲラ笑っている男性陣に、マリアも元気よくカラカラと笑っている。

 マリアは本当によく笑った。

 貴族の世界では、こんなふうになんのてらいいもなく笑う女性を見ることは滅多にない。


「そうだ、伯爵様。近くの作業場の女性陣には、伯爵様を見に来ちゃダメだよって言ってありますから。安心して作業してくださいね!」


 そう言うと、彼女は熱心にトマトの収穫について教えてくれる。

 真っ赤なトマトを収穫したら、残った実の位置を下に下げること。光が当たらないと中が空洞のトマトができてしまうので、位置を下げる前に、邪魔になっている葉を剪定すること。剪定しすぎると、トマトにストレスを与えてしまうので、適度にやるのがいいということ。


「難しいな」

「慣れれば簡単ですよ。ほら、とりあえず、本日収穫一個め、いってみてください」

「うん」


 私は、彼女が見せてくれたお手本を思い浮かべ、おそるおそる真っ赤なトマトを1つ、ハサミで収穫する。

 ズシリと重たいその感触は、なんだかとても大切なものに思えた。


「せっかくなんで、水で洗って、食べちゃいましょ」

「マリーはトマトが食べたいだけだろ」

「もちろんよ! このデザートトマト試作品4号、すっごく美味しいでしょ!?」

「違いねー」

「あ、コルトさん先に食べてる! ずるい!」


 ワイワイ騒ぐ彼らを見ながら、私は初めて自分で収穫したトマトをかじる。

 口に広がる甘い味わいに、心が満たされるようだった。

 じわりと視界が歪んで、私は慌てて腕で目を拭う。


「ね! 伯爵様、うちのトマト、めちゃくちゃ美味しいでしょう!」


 トマトに夢中な彼女に、私は久しぶりに、女性の前で安心して微笑んだ。



   ~✿~✿~✿~


 それから一ヶ月半、マリアはずっと、私の案内役を買って出てくれた。


「よく分からないけど、わたしと居るのが平気なら、わたしで慣らしていけばいいんじゃないですか?」


 そう言って、私の女性恐怖症を治すべく、協力してくれたのだ。


 彼女といると、不思議と心が軽かった。

 毎日朝早く起きて、トマトが一番ではあるものの、ナスやきゅうり、カボチャのことを考え、昼にはカゴいっぱいの収穫物でご飯を作る。

 新鮮な野菜を使った料理は、マティーニ男爵家に来た当時から美味しいとは思っていたが、食卓に彼女が同席するようになってからは、特に美味しく感じるようになった。彼女は畑のことが大好きで、「これ、さっき収穫したカボチャです! うちの名産品!」「今日のナスは、三種類採ったでしょう? 食べ比べですよ、どれがどれだか分かります?」と言いながら、本当に楽しそうに食事をするのだ。私はここ数年、食事を減らし気味だったが、彼女が前にいると、自然と食が進んでくる。


 そうして、私がマティーニ男爵家に来てから二ヶ月が経ち、リキュール伯爵家に戻る日がやってきた。


「マティーニ男爵。本当に、ありがとうございました。この恩は、いつか必ずお返しいたします」

「そうですねえ。では、今度リキュール伯爵家の畑を視察にいかせてください。広い畑の運営の仕方は、何度見ても心躍るんですよね」

「もちろんです。是非お越しください」


 マティーニ男爵は、恰幅のいい腹を揺らしながら、楽しそうに笑っていた。

 彼と話をしていると、なぜだか気持ちが軽くなる。お礼の受け取り方も上手い。こういうところは、本当に学んでいかなければならないと、私はしみじみと思った。


「うん。だいぶいい顔になりましたね」

「マティーニ男爵」

「けれども、リキュール伯爵。伯爵領に戻ったら、また前と同じ状況に陥るでしょう。何か対策はあるのかな?」


 私は、今までのことを思い浮かべ、そして、マリアの方に視線を走らせた。

 マリアは、キョトンとした顔で目を瞬いている。


 彼女は私にとって、このマティーニ男爵領での生活を象徴する存在だった。太陽の日差し、明るい土地柄、色鮮やかな野菜達。そういった眩しくて大切なものを集めたような、そんな人だったのだ。

 彼女と出会えたことは、私にとって本当に僥倖だった。

 彼女という女性がいてくれたおかげで、私は女性に対して、前ほどの嫌悪感を感じずに済むと思う。


 私は彼女に心からの微笑みを向け、そしてマティーニ男爵に視線を戻した。


「対策は、ありませんが……。きっと大丈夫です。ここでの経験があれば、折れずに済みそうだ。なにより、早くリーディアに会いたいのです」


 マティーニ男爵は、私の方を見て、それから、自分の娘であるマリアの方を見た。

 そして、しばらく考え込んでいた。

 マリアは、まだ不思議そうな顔をしている。


「リキュール伯爵は、うちのマリアといるのは平気なんですね?」

「……? はい」

「うーん、そうだなぁ。これはまあ、老人の戯言と思って聞いて欲しいのですが」


 マティーニ男爵は、恰幅のいい腹を揺らしながら言った。


「せっかくなんで、うちの娘を隠れみのに使っては? 偽装結婚、というやつですね、ハハハ」

「「え!?」」


 急に振られた話に、私は頭が真っ白になる。


 ここに来て以来、私はそういった、私に関する恋愛や結婚の話に触れず過ごしてきた。久しぶりにその手の話題を振られて、また吐き気がすると思っていたが、意外なことにそんなことはなかった。むしろなぜか、心臓がドクンと大きく跳ねて、私は自分の反応に驚愕したのだ。


(マリアと、結婚……!?)


 いや、真実結婚する訳ではない。

 マティーニ男爵も、結婚だと言っているではないか。

 しかし、リキュール伯爵領に戻っても、彼女が傍にいてくれる。そのことを思うと、心が浮き足立つようで、うまく言葉を紡ぐことができない。


 そうして私が戸惑っているうちに、マリアが怒りだしてしまった。


「お父さん! 急に何を言ってるの? せっかく伯爵様のご体調がよくなってきたところなのに!」

「でもなあ。このまま伯爵領に彼が帰ると、伯爵領で待ってる女性陣が、久しぶりの伯爵様を見て大興奮してしまいそうだしなあ」


 マティーニ男爵の言葉に、私は思わずビクッと体をこわばらせる。

 マリアはそんな私を気遣うように見た後、再びマティーニ男爵の方を向いた。


「もう、本当にデリカシーがないんだから!」

「とはいえ、事実だろう?」

「それにしてもね、その対策案が下策もいいところだわ。偽装結婚って何よ、形だけでもわたしと結婚するなんて、女性が苦手な伯爵様は嫌に決まってるじゃない!」

「いや! ……そ、そんなことをしてもらえるなら、ありがたいが……」

「え? 嫌じゃないんですか? わたし、別に構いませんが……」

「え!?」


 ぽかんとした私とマリアに、マティーニ男爵は穏やかに微笑んでいる。


「じゃあ、決まりだね。期間はどれくらいがいいかな。ほとぼりが覚めるまでということで、とりあえず1年でどうだね」

「えっ、お父さん、本気なの!?」

「マ、マティーニ男爵。そんな、あなたの大切な娘さんを」

「隠れ蓑があった方が、リーディア様も安全でしょうしね。マリアは別にいいんですよ、むしろ他の男と結婚するより、離婚後自由になる方が嬉しいだろう?」

「お父さん、娘に対して酷い言い草ね……まあ、そのとおりよ。伯爵様が嫌じゃないなら、わたしは歓迎です」

「マリア!?」


 そんなこんなで、私とマリアの偽装結婚――いや、これは言い方がよくないな。が、決まったのだ。


 「ま、どうせ1年じゃ終わらないと思いますけどね」と言うマティーニ男爵の呟きは、私の耳にもマリアの耳にも届かなかった。



   ~✿~✿~✿~


 そうして、契約結婚生活が始まって二ヶ月。


 マリアは、畑仕事をしなくなった代わりに、リーディアの面倒を見てくれている。マリアは実は、畑仕事というより働くこと自体が好きなようで、「今は子育てと屋敷のお手伝いが楽しいんです」とニコニコ笑っていた。


 彼女は今、毎日食卓で、リーディアとの触れ合いについて語り、屋敷の中の出来事や、使用人達の仕事の素晴らしさを報告してくれる。

 そうしてマリアが嬉しそうに屋敷のことを話し、各々の仕事を認めてくれるから、使用人達も喜んで張り切っている。リーディアのことも大切にしてくれて、リーディアは以前よりもずっと幸せそうにしている。


 けれども何より、私が一番、彼女の存在に救われているのだ。


 太陽のように眩しい笑顔の、私の天使。

 いつも楽しそうにしていて、何の気なしに沢山のものを与えてくれるところは、父親のマティーニ男爵譲りなのだろうと思う。


 彼女との結婚生活を、終わらせたくない。


 だから、そのために必要なことをしなければならないと、私は覚悟を決めたのだった。



 

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