第12話 長期視察 ※リキュール伯爵視点




 マティーニ男爵領での生活は、本当に穏やかなものだった。


 男爵領では、多くの者達は日の出とともに起きてくる。

 そして、畑を耕し、大地の恵みを得て、新鮮な野菜で作った料理を頬張り、生活していた。


 私はマティーニ男爵領に来てからというもの、毎日日の出とともに起き、日が暮れるとともに就寝していた。

 そして、起きている間、ほとんど何もしていなかった。


『二週間は、何もしてはいけませんよ』

『だ、男爵……、しかし、私は』

『ダメです。いいから、この年寄りの顔を立てると思って。ね、大丈夫ですよ』


 そう言ってマティーニ男爵は、私の頭を撫でた後、自分はいそいそと『野菜大好き研究隊』の研究室へと向かっていった。

 私は、撫でられた頭に手を当てながら、ぼんやりと頷くことしかできなかった。


 そして二週間、私は仕事は何もしなかった。

 その代わり、男爵領を当て所なくトボトボと散歩し、畑仕事をしている様子を遠くから眺めていた。


 もう少し近くに行って見てみたいとも思ったけれども、そうすると、畑で男性陣と話をしている私を見た女性陣が、ワラワラと話しかけてきてしまうのだ。

 だから、私はマティーニ男爵から借りた黒髪のカツラと帽子をかぶり、分厚い眼鏡をかけて、さらに念には念を入れて、遠くから眺めるだけにしていた。


 私はいつもの散歩ルートをたどり、木陰のベンチに腰を下ろし、持ってきた水筒を片手に息をつく。

 今は夏だ。男爵領の農家で作られた夏野菜達が、世界を彩り鮮やかにしている。

 空を見上げると、雲一つない空が抜けるように青くて、私は肩の力が抜けるようだった。


(こんなふうに、空を見たのはいつぶりだろうか……)


 職場に夜会と、ありとあらゆるところに現れる女性陣から逃げるべく、この数年はとにかく、用事が無くなり次第帰宅し、家に引きこもって生活していた。本当に自分は余裕のない生活をしていたのだと、ここにきてようやく理解できたような気がする。

 毎日、穏やかに過ごし、収穫の喜びに破顔する領民を見て、自然に触れ、新鮮な野菜料理を食べる。

 たったそれだけのことが、こんなにも貴重でありがたいことなのだと、私はしみじみと感じていた。


 そして、毎日男爵領を散歩しているうちに、あることに気がついた。

 領民の会話の中に、いつもある名前が出てくるのだ。


「マリー、こっちもよろしくー!」

「マリーこれ! 芽が生えたよ、男爵様も喜ぶだろうねー」

「もぎたてトマトだ! あれ、マリーはどこだい?」


 マリーというのは、おそらく女性の名前なのだろう。

 けれども、農地に女の子らしき人物はあまり見かけない。

 女性は畑に出るより、室内で野菜を加工する仕事の方を好むので、スカートを履いている姿が畑にあると、とても目立つ。しかし、いつも畑には、ズボンを履いた面々しか現れないのだ。


 しかし、私には一つ、思い当たることがあった。


 もしかして、マリーというのは……。


「やあ、伯爵様。元気にしてるかい?」


 木陰のベンチでぼんやりと畑を眺めていると、隣に一人の若者がストンと座った。

 マイルドな茶髪に蜂蜜色の瞳。親しみのある顔立ちの彼は、マティーニ男爵の長男、メルヴィス=マティーニだった。

 次期マティーニ男爵である彼は、父である現マティーニ男爵の指示で、何かと私の世話を焼いてくれている。


「はい。お気遣いありがとうございます」

「二週間経ったのに、まだ畏まってるねぇ。そりゃ、ストレスも溜まるってもんさ。はいよ、トマト」


 真っ赤に熟れた艶々のトマトを差し出され、私はありがたく受け取る。

 メルヴィスは、麦わら帽子をかぶり、涼しげな半袖姿で、背負っていたトマトがたっぷり入ったカゴをベンチの横に下ろしていた。そして、トマトにかぶりついていた。貴族にはとても見えない。

 私は、メルヴィスを真似て、そのままトマトにかぶりつく。

 暑い夏の日差しの中、瑞々しく甘いその実は、今まで経験したことがないくらい美味しく感じられた。


「すっごい甘くて美味しいだろ? これ、うちのマリ……いや、うちの家で開発して作ってる、最新のトマトなんだ。デザートトマトってやつを目指してるんだよ」

「デザート……トマトを、ですか?」

「そうさ。後もう少し甘かったら、それだけで果物みたいだろう?」

「今も十分甘くて、とても美味しいです。このぐらいがちょうどいいような」

「……なるほど。女性目線の意見ばかり取り入れすぎたかな。伯爵様みたいな貴族の男性からしたら、このくらいの甘さの方がいいのかもなぁ。後で教えておくか」


 トマトを齧りながら難しい顔をしているメルヴィスに、私はつい頰を綻ばせる。

 そんな私を見て、メルヴィスは笑った。


「おーおー。伯爵様、いい顔して笑うじゃん。やっぱりトマトは最強だよな」

「……そうですね」

「そうだ、伯爵様はさっき、何見てたんだ? あっちの方、熱心に見つめてたけどさ」


 私は、領民のみなが口にする『マリー』さんについて、メルヴィスに尋ねる。

 そして、自分の考えを伝えてみた。


「おー、気がついてたのか。へぇ、あれも一応女なんだけど……まあ、いい傾向ってことだな」


 メルヴィスは、非常に興味深そうに私の顔を覗き込んだ後、ニヤリと笑った。


「伯爵様の想像どおりだよ。畑にいる、ズボンのちびっ子。あれが、『マリーさん』だ。ついでに俺の妹で、名前はマリアな」


 メルヴィスの言葉に、私はパチパチと目を瞬く。


 私が毎日眺めていた領民の中で、一番機敏に動き回っていたズボン姿の小柄な少年――ではなく、少女。

 彼女は、なんと女性だっただけでなく、貴族であり、マティーニ男爵の長女マリアだったのだ。



 

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