†危機†


「えっと……あれ……?」


 隼人君と約束をしてた覚えはなかった。



 しかも深夜の3時を回った時間。



 明日は平日だから学校があるはずなのに、どうして隼人君がここにいるのか分からず、また夢か幻を見てるのかと一瞬思った。



 けど。



「何だよ」


 驚きに凝視するあたしに、隼人君は不機嫌な声を出す。



 不機嫌になるなら来なくていいのにと思う。



 でももしかしたら不機嫌だから来たのかもしれないとも思う。



 ここ3日ほどずっと怒らせてばかりだし、いよいよ隼人君の堪忍袋の緒が切れたんだろうと予想した。



 だけど半分眠そうなその顔に、わざわざ会いに来てくれたんだと思う事にした。



 そう思えば恐怖心が和らぐ。



「ごめん。びっくりして」


 その言葉に隼人君はフンッと鼻を鳴らし、「行くぞ」と素っ気なく言葉を投げ掛け歩きだした。



 予想的にはいい感じじゃない。



 いくら会いに来てくれたんだって思い込んでも、隼人君の態度は決して柔らかくない。



 怒ってる事が一目瞭然の隼人君の後を重い足取りで歩きだそうとしたあたしに、



「葉月ちゃん! 気を付けてね!」


 丁度工場から出てきた一緒に働いているおばさんが声を掛けてきた。



 多分タイミングは悪かったんだと思う。



 おばさん的には先を歩く隼人君が見えなくて、帰り道の心配をして声を掛けてくれたんだろうけど、隼人君からすれば自分の事を言われたんだと思ったらしい。



 振り返り、「はい」とおばさんに返事をして前に向き直ると、それはそれは恐ろしい形相でこっちを睨む隼人君がいた。



「今の何だよ」


「え?」


「気を付けてって何だって聞いてんだよ」


 やっぱり隼人君は自分の事を言われたんだと思ったらしく、あたしに近付くと鋭く目を細め睨み付ける。



 こんな所で殴られたくはないと思ったあたしは、慌てて「違う」と何度も言った。



「な、何かね? あたしの家の近所で事件があったみたいで、だから気を付けて帰りなさいよって言ってくれたんだと思う」


「事件?」


「うん。あんまり詳しくは知らないんだけど、誰かが死んだだか殺されただかって言ってた」


「死んだと殺されたじゃ全然話が違うだろ、グズ」


「……だね」


「人の話くらいちゃんと聞け、このマヌケ」


「うん」


「行くぞ」


「……うん」


 一応誤解は解けたのか、隼人君はまたスタスタと前を歩き始める。



 だけどそれはおばさんの言葉にだけの事で、その背中の不機嫌さは払拭されてない。



 怒られる事はすぐに分かった。



 殴られるんだろうかと不安になった。



 でもその直後、前を歩く隼人君が明らかにキョロキョロと丁度いい場所を探すような素振りをしてるのを見て、確実に殴られるんだと不安が確信に変わった。



 予想した通りだと思う。



 怒りが限界に達して、殴りたいって気持ちを抑えられなくなったんだと思う。



 居ても立ってもいられず、わざわざ待ち伏せまでしてくれたんだと思う。



 なんて、結局はイライラさせるような事をしたあたしが悪いのに皮肉めいた言い方が頭をぎった。



 自分で言うのも何だけど、あたしに反省の気持ちはないらしい。



 仕方ないじゃんと思う自分がいる。



 自分の努力が足りなかったと思えないのは、あたしがまだ子供だから――なんだろうか。



 でも“子供だから”と言ってしまった時点で、それはただの言い訳になる。



 子供だから許すべきだという強迫になる。



 大人だろうと子供だろうと、許されない事は必ずあるのに。



 前を歩く隼人君が、スッと右に曲がった。



 あたしの家に行くにはまっすぐ進まなきゃいけないのに、隼人君は住宅街にある小さな公園に入った。



 やるせない溜息が出る。



 真実、あたしが周りが言う通り愚図で馬鹿だったとしても、暴力に対して何も感じない訳じゃない。



 鈍いとしても痛い。



 愚図だとしても血は出る。



 馬鹿でも体の作りはみんなと同じで、間抜けだとしても感情はある。



 だから極力“そういう”方向にはいかないように、



「あ、あのね、隼人君」


 この場を和ませようと口を開いたけど、こっちに振り向いた隼人君の顔を見てもう何かを言う気はなくなった。



 最初からそのつもりだった隼人君に、今更何を言っても遅い。



 目が血走って見えるのは、寝不足の所為だけじゃない。



 今、隼人君がしたい事はただ一つ。



「お前、昨日本当は何してた?」


 手を出す理由を見つける事。



「昨日……?」


「俺に電話してこねぇで、何してたんだって聞いてんだよ!」


「何もしてない。寝てただけで……」


「嘘吐いてんじゃねぇぞ!」


 ビクンと体が震えたのは、“あの事”を黙ってる事がバレたと思ったからじゃない。



 隼人君は嘘吐くなと言ってるけど、嘘だと思ってる訳じゃない。



 ただ、嘘に“したい”と思ってる。



 それを理由に殴ろうとしてる。



 だからあたしが体を震わせたのは、言葉じゃなくその動きへの反射的行動で、怒鳴りながら振り上げられた手に身を固くして目を閉じた。



 バンッだか、ボンッだか、バコンッだか、表現のしようがない鈍い音がした。



 それと同時にこめかみ辺りに衝撃が走った。



 目玉が飛び出すんじゃないかって思うくらいの強い衝撃に、体がグラリと大きく揺れる。



 次の瞬間には世界が横倒れになっていて――実際は、あたしが地面に倒れ込んだ。



 目の奥がカッと熱くなる。



 感情なんてそっちのけで涙が零れる。



 ズキズキと、数秒遅れて痛み始めた顔の半分は、自分の体の一部だとは思えないほどにしびれ始める。



 本心はさておき、とりあえず「ごめんなさい」と謝らなきゃと思うのに、倒れ込んだ時に脇腹を強打して「うぅ」といううめき声しか出なかった。



 それでも謝る意思はある事を示そうと、砂まみれになった顔を上げると、目の前に今度は足を振り上げた隼人君の姿が目に入り――もうそこまで来ている靴底を見て、ギュッとキツく目をつむり地面に突っ伏し両手で頭を庇った。



――けど。



 痛みの声を上げたのは、あたしじゃなかった。



「うわっ」と隼人君の短い驚きの声と、何かが倒れる音がした。



 何かが起こったのはすぐに分かった。



 それでもあたしはすぐに、その体制を解く事は出来ず――…



「やめなさい」


 真上から落ちてきた声に、ビクッと体が震えた。



 隼人君とは違う低い声。



 淡々とした物腰は、まるで機械のよう。



 それでも、



「大丈夫か?」


 あたしに発せられたであろうその声に顔を上げると、声の感じとは似つかわしい穏やかな表情の男の人がいた。



 その人が、昼間喫茶店のレジで会ったあの人だとすぐに分かった。



 前屈まえかがみになり、あたしの顔を覗き込むその綺麗な顔は、忘れたくてもすぐに忘れられるようなものじゃない。



「あ、あの……」


「見過ごす訳にもいかないから。立てるか?」



 その問い掛けに小さく頷きゆっくりと立ち上がると、男の人はスッと背後に振り返る。



 その視線を追うようにしてそちらに目を向けると、数メートル向こうに地面に転がる隼人君がいた。



 その姿に違和感を感じたのは、隼人君が喉元を両手で押さえてたから。



 隼人君は他のどこでもなく喉元を押さえて、真っ青になってる。



 聞こえた音から判断するに、何かがあって隼人君は倒れたはずなのに、お尻でも背中でもお腹でもなく、喉を押さえてる事に妙に違和感を感じた。



 その上パクパクと金魚みたいに口を動かすだけで、何も言わない。



 隼人君の奇妙な行動を呆然と見つめるあたしの隣で、



「声は明日には出るようになる」


 男の人はそう言うと、あたしに向き直り「送るよ」と告げた。



「あ、あの、」


「夜道に一人じゃ危ないから」


「で、でも、」


「今は彼と一緒にいない方がいい」


「でもあたし、」


「こういう時は少し距離を置いた方がいい」


 あたしの意見を聞かず――というよりは、最初から聞く気がないって感じの男の人は、「行こう」とあたしをうながすと、僅かに背中に触れる。



 その刹那せつな、何故か背筋がゾクリとした。



 その反応に気付いたのかどうかは分からないけど、男の人はすぐに手を離し歩き始める。



 それでも消えていなくなってはくれなくて、あたしを待つような距離で止まる。



 隼人君といたい訳じゃなかった。



 むしろ男の人が言うように、今は一緒にいない方がいいと思う。



 ジンジンと顔もうずき始めたし、寒さで足も震え始めたからもう帰りたいと思うのは確かで――…



「明日、電話するね」


 あたしは隼人君にそう告げると、少しの距離を取ってこちらを見ている男の人の方へと歩いていった。



 送ってくれなくてもいいですと言う事は出来たけど、少し心細かったから何も言わなかった。



 この男の人が何もしないって保証はないけど、そんな事を考えるよりも顔が痛かった。



 家までの道をただ静かに歩いた。



 男の人は特に話し掛けてくる事もなく、足音も立てずに静かに前を歩いていた。



 北風が音を立てて吹きすさぶ。



 前を行く柔らかそうな黒髪と、ロングコートのすそが大きく揺れる。



 目の前にいるのが知らない人なのにも拘わらず、少なくともさっき隼人君と歩いていた時よりも穏やかな気持ちではあった。



 住んでいる古いアパートが見えてきた頃には、その気持ちは随分と大きくなり、今度この人が喫茶店に来た時にはコーヒーくらいはご馳走しようとまで考えていて、



「ありがとうございました」


 その油断の所為か部屋の前まで送ってもらったあたしは、深くお辞儀をしてお礼を口にした。



「顔は、」


「え?」


 顔を上げたあたしに、男の人は少しだけ眉根をひそめる。



「当分、腫れが引かないかもしれない」


「そう……ですか」


 接客である喫茶店のバイトは休んだ方がいいかもしれないと、残念な気持ちになったあたしに、スッと手が伸びてくる。



 思わず身を強張こわばらせたあたしの顔に、男の人の細い指先が――…



「冷やせば、2日くらいでおさまるかもしれない」


 男の人はそう言うとすぐに手を引っ込めた。



 違和感が――ある。



 違和感というよりは、何かしら引っ掛かるものがある。



 それが何なのか喉の所まで出掛かってるのに出てこない。



 とりあえず家に入ってから考えようと思ったその時、ふと疑問が湧き上がった。



 ここに来るまで一度も家を聞かれなかった。



 この男の人があたしに「家はどこ?」と聞いたりしなかった。



 なのにあたしの前を歩き、こうして家に辿り着いた。



 それが当たり前のように。



 ここが家だと分かってたように。



「どうした?」


 問い掛けてくる声が――聞き覚えのある声。



 背中に触れた手の感触。



 顔に触れた細い指。



 男にしては細く長い指の――…



「あなた――だったんですね」


 無意識に言葉が口から零れ出た。



「え?」と驚いた表情を作ったその人に、



「昨日、あたしの家にいた――…」


 言葉を紡げたのはそこまでだった。



 まばたきをする間もなく、大きな手が伸びてきた。



 昨日とは違い今日は正面から、その手があたしの口を塞ぐ。



 何が起こったのか分からないまま、素早く鞄を引っ手繰られ――…



 鞄から家の鍵が取り出される。



 家のドアが開けられる。



 開けたと同時に中に押し込まれ、気が付けば玄関の床に押し倒されていた。



 でもそれが、陵辱りょうじょくたぐいだと思わなかったのは、覆い被さる男の手が、あたしの首を絞めていたからだった。

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グリムリーパー ユウ @wildbeast_yuu

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