†現†


『何回電話したと思ってんだよ!!』


 目が覚めて1時間ほど経ってから電話をしたあたしに、隼人君はこれでもかってくらいの怒鳴り声を上げる。



 起きて確認した携帯には、隼人君からの不在着信が3回とメールが1通。



 そう怒鳴られるほどの回数じゃないと密かに思った。



 それでも怒ってるだろうと分かったから、すぐに掛けなおさなきゃと思ったのに、何よりもまず部屋の確認をしてて連絡するのが遅れた。



 一見、何も変わってない部屋。



 玄関から入ってすぐにある4畳半の台所は、出掛ける前と変わらず、物がほとんど入ってない冷蔵庫と、流しに洗い忘れてるコップが3つ。



 保存食用のカップラーメンも1ミリも動いた様子もなく、百円ショップで買ったダイニングマットも少しのヨレもなくて、昨夜ここで“あんな事”があったなんて思えなかった。



 いくら抵抗しなかったとは言え、誰かが家に入れば何かが変わるはずなのに、何一つ変わってない。



 台所の奥の部屋も何も変わらない。



 箪笥にあった服で目隠しや猿轡や両手を縛られたはずなのに、引き出しの中に乱れはなく、きちんと服が畳まれて入っていた。



 あたしが寝ていた布団以外は何の乱れもなく、なくなっている物はない。



 もちろん増えてる物もない。



 だから全てが夢だったんだと思った。



 疲れの所為で変な夢を見たんだろうと、それくらいに思ってた。



 口を塞がれた手の感触や、首筋に当てられた刃物の感触。目隠しや猿轡や縛られた感触が妙にリアルな気がしたけど、それでも夢だと思った。



――けど。



 そう思ったのはほんの束の間だった。



 ふと、逆にそんな風だからこそおかしいと思った。



 部屋が“何一つ”変わらない事が奇妙だと思う。



“あたし”が帰ってきたのに、何も変わらないなんておかしいと思う。



 人がいれば何かが変わる。



 わずかながらも何かが動く。



 だけど何も変わらない。



 寝ていた布団が乱れてる以外は、あたしが“出て行く前”のまま。



 いつ手から離したのか覚えていない鞄が、きちんと枕元に置かれていた。



 だからあれは本当に夢だったのかと――…



『聞いてんのかよ!!』


 部屋を見渡し考え込んでいたあたしは、隼人君の怒鳴り声にハッと我に返った。



「ごめん! 考え事してて、」


『はぁ!? 俺が怒ってんのに考え事だ?』


「ご、ごめん! 何て言った?」


『だから、昨日何してたんだって聞いてんだよ!』



――昨日。



 あの出来事を言うべきなんだろうか。



 こんな事があったと隼人君に報告すべきなんだろうか。



 それとも相談すべきなんだろうか。



 普通なら、そうするのが当たり前だと思う。



 またあの男が来る可能性だってある。



 今回は何もなかったけど、次も同じだとは限らない。


 そんな保障はどこにもない。



 だけど、隼人君に報告も相談もする気持ちにはなれなかった。



 それは隼人君だからって訳じゃなく、誰にも。



 自分でさえ、夢かうつつか分からないものを、どう説明していいのか分からないし、何よりここまで“何一つ”変わらないから言う気が失せた。



 もしあたしが隼人君に言ったとしたら、警察に言えと言われると思う。



 でも警察に言ったところで、何も取られてないし、何もされてないのに、何の“被害”届を出せばいいのか分からない。



――何より。



“何か”が出てくるとは思えない。



 指紋はおろか髪の毛一本だって出てこないと思う。



 そう思わせるほど、部屋は“何一つ”変わらない。



 不気味なほどに変化がない。



 何の被害もなく、何の証拠も出てこないなら、下手に何があったのかを言って心配させたくない。



 それに確信はないけど“あれ”が、現実にあった事だとしても、あの男はもうここへは来ないような気がした。



 巻き込む気はなかったと言った。



 迷惑を掛けるつもりはなかったと言った。



 あの言葉は真実だと――何故か思う。



 それに何よりあの男は、俺の事は忘れてくれと言った。



 そう言った男が、また来るとは思えなかった。



 だから。



「寝ちゃってて……」


 隼人君にそう告げた。



 それは決して嘘じゃない。



 ただ寝る前に起きた事を言わなかっただけで、嘘は吐いていない。



 そのお陰か「嘘だろ」と言われる事はなかった。



 ただ、



『寝てただと!?』


 更に隼人君を怒らせるには十分な言葉だったらしい。



『信じらんねぇ! 何やってんだ、このグズ!』


「うん、ごめん」


『ごめんごめんって謝りゃいいってもんじゃねぇだろ!』


「うん」


『俺が電話しろっつったら電話しろ!』


「うん」


『お前が俺に逆らうなんざ100年――…うるせぇな! どこにいんだよ!!』


「え?」


 増した怒鳴り声に聞き返すと、『どこにいるんだって聞いてんだろうが!!』と、隼人君はあらん限りの声で怒鳴る。



 耳が痛くなるほどの大声に思わず携帯を耳から離した。



 それでも。



『てめぇ、俺に電話しないで出掛けてんのか!!』


 隼人君の声は聞こえてくる。



 もう半狂乱としか言いようがなかった。



 これが電話でよかったとホッとした。



 もし直接会ってたら、確実に殴られてるだろうと――思って次に会うのが少し怖くなった。



「出掛けてない。家にいる」


『なら何で周りが騒がしいんだよ!!』


「あ、窓開けてるから。何かさっきからパトカーとか救急車がいっぱい通ってる」


『あぁ!? 騒がしくて聞こえねぇんだよ!!』


 隼人君の怒鳴り声の方が大きくて、あたしは周りの音が気にならなかったけど、隼人君には気になるらしい。



 だから「ちょっと待ってね」と慌てて窓を閉めると、『おい』とさっきよりもクリアに隼人君の刺々しい声が聞こえた。



『お前、本当は出掛けてんじゃねぇだろうな』


「ううん。まだ家にいる」


『まだ、だぁ!?』


「だって今からバイト……」


『はぁ!? 今日日曜だぞ!?』


「うん。でも今日は喫茶店と工場の、」


『はぁ!?』


「……バイトがある」


 あたしが約束を守らなかった事が随分と気に入らなかったらしく、結局それから隼人君は、何を言っても『はぁ!?』としか言わなかった。



 バイトの時間が近付いてきたから、「行ってくるね」ってなるべく怒らせないように言ったつもりだったのに、隼人君は何も言わずにブチッと電話を切ってしまった。



 仕方ないじゃん――とは言えない。



 あたしは“高校生”してる隼人君とは違うんだからとは言えない。



 思っててもそれは絶対に言っちゃいけない。



 同じ高校に行こうって約束してたのに、それを破ったあたしに何かを言う権利はない。



 同じ高校に行きたいって言い出したのはあたしの方だったのに、その約束を破ったあたしには何も言えない。



 だから考え方を改める。



 隼人君はあたしに会いたいのに会えないから怒ってるんだって。



 バイトばかりしてるあたしの体を心配して怒ってくれてるんだって。



 仮令それが真実とは違っても、そうだと思えば受け入れられる。



 隼人君の対応が、嬉しいものに思えてくる。



 隼人君の怒鳴り声すら、有り難いものに思えてくる。



 その方が楽でいい。





「葉月ちゃん、レジ入って!」


 世間に“おやつタイム”ってものがあるのかどうか知らないけど、バイト先の喫茶店はお昼の3時を過ぎると混んでくる。



 繁華街の大きな通りに面してあるこの喫茶店は、小さいながらもテラス付きで、外観もお洒落な所為かお客さんは若い人が多い。



 主任にレジに入るように言われ、満席になりつつあるホールからレジに目を向けると、2組のお客さんが会計待ちをしてて、正直少し億劫おっくうになった。



 レジは苦手だったりする。



 伝票に書いてる金額を打つだけならまだマシだとは思うけど、この喫茶店のレジはボタンに品名が書いてあって、それがよく分からない。



 どこに何があるのか覚えられない。



 丸暗記が出来るほどあたしの頭はよくないし、どういう規則で並んでるのかを見つけ出せないから覚え方が分からない。



 だからレジは他の人に頼もうとグルッとホールを見渡すと、何もしないで突っ立ってるのはあたしだけで、



「……レジ入ります」


 渋々返事をしてレジへと向かった。



 並んでるお客さんが早くしろって目でこっちを見てる。



 そうされると余計に気ばかりが焦る。



「お待たせしました」


 マニュアル通りの台詞を吐き、差し出された伝票を手に取ると、目の前のお客さんはもう財布を開いた。



 まだ伝票を受け取っただけなのに、財布に指を入れてスタンバイするから物凄く焦る。



 早くしなきゃって焦るから、中々ボタンが見つけ出せない。



 ショートケーキとモンブラン。



 しかもショートケーキはコーヒーセットで、モンブランは単品のみ。



 セットと単品じゃボタンの位置がかなり違う。



 配列の方程式が分からない。



 早くしろって視線を感じる。



 目線と一緒に指先がボタンを探す。



 落ち着けばすぐに見つかると思うのに気持ちは焦る一方で、ようやくボタンを見つけて小計を押して、お金を受け取りお釣りを渡そうとした矢先に、



「領収書ください」


 とんでもない事を言われる。



 もう小計を押したのに。



 レジ開いちゃったのに。



 今まで領収書なんて2回くらいしかした事ないのに。



 そもそも領収書って何よ。



 そう思ってても何かを言う訳にはいかず、「はい」と返事をしながら既に目はレジのボタンを追ってた。



 小計を押した後に領収書のボタンを押すには先に何かを押さなきゃいけなかった気がする。



 それが何だったのか思い出せない。



 元より覚えてなかったのかもしれない。



 目の前にいるお客さんの後ろにも、レジを待つお客さんがいる。



 早くしなきゃいけないのに、領収書が分からない。



 たった領収書一枚に、この世の終わりが近付いてきてるってくらい慌てた。



 焦ってもどうなるものでもないと分かってるのに、焦りに焦って頭が真っ白になってくる。



 こんな風だから愚図だ馬鹿だと言われるんだろうと、そんな場合じゃないのに考えたりもした。



「葉月ちゃん、何してるの!?」


 焦りの所為で呼吸が変質者並みに乱れ始めた時、やっと主任があたしに気付いて声を掛けてくれたから、ホッとして「領収書を」と告げると、手際良く領収書を出してくれた。



 最初から誰かに聞いておけばよかったと――思った時は手遅れで、



「そのお客さん終わったら、ちょっと奥に来てくれる?」


 領収書を渡した主任は険のある言い方であたしにそう告げると、レジを待つ他のお客さんを放ってさっさと奥へと消えた。



 どうせなら、他のお客さんの会計もしてくれればいいのに。



 そしたらあたしがするよりもかなり時間の節約になるのに。



 そう思ってもあっという間に主任の背中は見えなくなり、あたしは仕方なくレジに向き直った。



「お待たせしました」


 手を出すと同時に伝票が差し出される。



 差し出された伝票には、サンドイッチとアイスコーヒー。



 また――よく分からない。



 セットなのか、単品ずつなのかが分からない。



 手書きの伝票には、サンドイッチとアイスコーヒーとしか書いてなくて、値段すらも書いてないからこのお客さんがどういう頼み方をしたのか分からない。



 だからって、どういう聞き方をすればいいのか悩んでしまう。



 セットを頼んでいて「単品ですか?」と聞くと失礼な気がする。



 でも「セットですか?」と聞いたらセットじゃなくてもそうだと言われるような気がする。



 セットと単品じゃ、サンドイッチの数が違う。



 間違えればまたオーナーに叱られる。



 それでなくてもさっきの感じからして、この後主任に小言を言われるのは確かなのに、その上また間違えたとなるといよいよクビになるかもしれない。



 どう――すればいいんだろう。



「……あの、」


 聞き方を迷いながら俯き発した言葉に、レジカウンターに置いていたお客さんの指がピクリと動く。



「こんな事、お聞きして申し訳ないんですが」


 ボソボソと出す声に反応して、ギュッとレジカウンターにあるお客さんの手に力が入り握られた。



 イライラしてるのは分かった。



 それも当然だと思った。



 前のお客さんの会計で随分待たされた挙句、今度はこうして自分の時もモタモタされてちゃそりゃ腹も立つと思う。



「あの、サンドイッチのセットを頼まれたのでしょうか?」


 だから出来るだけはっきりと、それでも顔は俯かせたまま、そう問い掛けたあたしに、「……え?」と低い声が――…



 その声に、思わず顔を上げた。



 ハッと顔をあげてしまった。



 どこかで聞いた事がある気がして、知り合いなのかと相手の顔を見た。



 けど、そこにあったのは見知らぬ男の人の顔。



 あたしの人生には何の接点もない、大人の男の人の姿。



 細く柔らかそうな黒髪に、少し痩せた体。



 前髪に隠れ、目尻が少しだけ上がった二重瞼の中には、温厚そうな黒目の比率が多い瞳。



 色の白い顔の中心に、スーッと筋を通す鼻。



 横一直線に結ばれていた、少し湿った唇が、



「……何か?」


 ゆっくりと開き言葉を紡ぐ。



「あ、いえ」


 眺めるように見つめてしまっていたあたしは、慌ててその顔から目を逸らし、「ごめんなさい。人違いでした」とすぐに詫び、「そう……ですか」と歯切れ悪く納得しきれないって雰囲気を醸し出したお客さんに、もう一度「セットですか?」と聞き直し、何とかその場を取り繕った。



 少しだけドキドキしてた。



 それを悟られなくはなかった。



 喫茶店で働いてると色んなお客さんが来る訳で、時々物凄く格好いいと思う男の人を見たりする。



 けどそれは雰囲気だったり、仕草だったりが大半を占めていて、容姿そのものが格好いいと思える人は余りいない。



 雰囲気や仕草込みの格好良さなら、努力で手に入るものなのかもしれないけど、顔の造りともなると遺伝子だか奇跡だかの生まれ持っての質の問題で、そんな人は然う然う見れるものでもない。



 だからドキドキした。



 目が逸らせなくなるほどの男の人を見るのは久しぶりでドキドキした。



 つまらない日常に些細ささいな喜び――とまではいかないけど、目の保養にはなったと少し気持ちが浮上した。



 ……というよりは、浮上させたというべきかもしれない。



 この後何があるのか分かってるから、無理にでも浮上させたかったんだと思う。



 案の定、レジが終わってお店の奥に行くと主任に小言を言われた。



 分からないならすぐに聞けと、主任の言う事は正しいと思った。



 だけど誰もがみんなすぐに聞こうと思える訳じゃない。



 あたしみたいにその結論に辿り着く前に色々考える人だっている。



 そう思ったけど、結局主任が言いたいのは、だからこそ聞くって事を覚えろって事だと分かって「ごめんなさい」と謝罪し続けた。



 謝罪はしたけどツイてない日だとは思った。



 言ってる意味も分かったし、反省もしたけど、ツイてないとは思ってしまった。



 そう思ったらそれからはずっと何もかもがしっくりいかなくて、喫茶店のバイトの後にあった工場での流れ作業のバイトでも、検品ミスをしてしまった。



――そして。



「おい、葉月!」


 ようやく工場のバイトが終わった深夜。



 工場の前に見るからに機嫌の悪い隼人君がいた。

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