†拘束†


「騒げば殺す」


 人の気配を感じた時には、耳元でそう囁かれた。



 実際は、背後から口を塞がれた時にようやく人の気配を感じた。



 いくら部屋の中が暗かったとは言え、全く存在を感じさせなかったその人は、片手であたしの口を塞ぎ少し首を傾かせる。



 傾き晒された首筋に硬く冷たい感触。



 それが包丁かナイフかは分からないけど、刃物だという事はすぐに理解出来た。



 とがった先のような物が首動脈辺りに押し当てられる。



 背筋がゾクッとした。



「死にたくなければおとなしくしろ」


 囁き続けられる言葉に、ようやく思考が動き始める。



 一体何が起きたのか、やっと頭が理解し始める。



 何者かがあたしの家にいる。



 そいつがあたしの口を塞ぎ、首筋に刃物を押し当ててる。



 泥棒か――変質者か。



 分かるのは、声から男だという事だけ。



 どんな風貌なのかは分からない。



 どんな表情をしているのかは見えない。



――ただ。



 口を塞ぐ手の指が、細く長い。



 そこまで思ってようやく体が震え始めた。



 口を塞がれた時の震えは驚きからだったけど、今は把握した状況から体が震え始める。



 ジワジワと恐怖感が湧き上がる。



 殺されるんだろうか。



 もし殺されるまではなかったとしても、何事もなく終わる事はないと思う。



 取られるお金はない。



 金目の物は何もない。



 それが逆に怖いと思う。



 何もない事で逆上してあたしを甚振いたぶろうとするんじゃないかと怖くなる。



 体の震えは更に増す。



 自分じゃ――止められない。



 そんなあたしの耳元で、



「分かったか?」


 男は囁き続ける。



 何を――分かったというんだろうか。



 何も分からない。



 何に対しての質問で、どんな答えを求めているのか、あたしにはさっぱり分からない。



 恐怖心から徐々に息が荒くなり、男の指の間から乱れた呼吸が漏れる。



「助けて下さい」と乞いたいのに、口を塞がれ言葉を紡げない。



 逃げ出したいのに足が震え、涙が溢れる。



「分かったのか?」


 男は聞き続ける。



 だけどやっぱりあたしには――分からない。



「分かったなら1度頷け」


 そう言われても頷けない。



 分かってないから頷けない。



 分かった振りをした方がいいのかどうかも分からない。



 もしここでその場凌ぎで頷いて、後から分かってないとバレたらどうなるんだろうと思ってしまう。



 安易に賛同してはいけないと――思う。



 いよいよ男の指の隙間から、小さな嗚咽おえつが漏れる。



 目からこぼれ落ちた涙が、ほほを伝い男の手を濡らす。



 そんなあたしに、



「いいか。よく聞け」


 今度はゆっくりと、男が言葉を吐きだした。



「おとなしくしてれば何もしない」


「……」


「約束する。絶対に何もしない」


「……」


ただし少しでも妙な行動を取れば即座に殺す」


「……」


「分かったか?」


「……」


「分かったら1度頷け」


 男の言葉にコクコクと何度も頷くと、「1度でいい」と男は呟き、あたしの首筋から刃物を離してその手で軽く背中を押した。



 まだ口は塞がれたままだけど、歩けという意味なのはすぐに分かった。



 だからされるがままに歩を進めた。



 2部屋しかないあたしの家の、奥の部屋へと入っていく。



 暗い部屋の床がギシリと軋む。



 ゴクリと生唾を呑み込んだあたしを、男は箪笥たんすの前まで歩かせ、後ろからヌッと手を伸ばし引き出しを開けた。



 そして何をされるのかとハラハラするあたしに、



「我慢しろ」


 男はそう呟き、手に取った服であたしの目元を覆った。



 一瞬にして視界が失われ、驚いた次の瞬間には猿轡さるぐつわをされていた。



 口の中に詰められた物が服だと気付くのに時間が掛かった。



 思わず取り乱しそうになったあたしに、「騒ぐなよ」と男は念押しする。



 そしてその場にあたしを座らせ後ろ手に両手を縛ると、男の気配が遠ざかった。



 シンとしてる。



 部屋の中に静寂がある。



 視覚を奪われた所為で他の感覚が妙にまされ、音や気配に敏感になる。



 だけど音はしなかった。



 聞こえるのは自分の荒い呼吸音と破裂しそうな心臓の音だけだった。



 ただ――人の気配はある。



 あるような気がする。



 多分男はまだ“そこ”にいる。



 何をしてるのか分からないけど、音が聞こえないという事はジッとしているようだった。



 何の為にそうしてるのか分からないけど、まだ帰るつもりはないようだった。



 床に座らされてるあたしと、同じくらいの位置から感じる気配からして、男も座ってる――ようだった。



 静かな時間が続いた。



 何分も、何十分も、何時間も続いているような気持ちになった。



 次に何をされるのかとビクビクしながらも、時間が経つにつれ少しずつ平常心が戻ってくる。



 何も――されないのかもしれない。



 そう思い始めたのは、随分と時間が経ったように思えた頃だった。



 実際どれくらいの時間が経ったのか分からないけど、相当な時間が経過してたと思う。



 気配を感じさせるだけで動かず何もしてこない男に対して、ほんの少し安心したのかもしれない。



 鼓動こどうが少しずつ治まってくる。



「朝までには、」


 ビクリ――とした。



 突然背後から聞こえてきた男の声に体が大きく震えあがった。



 男の気配はあったけど、それは部屋のどこかにいるというのが分かっただけで、部屋のどの位置にいるのかは分かってなかったから背後にいたのかと驚いた。



「朝までには消える」


 今が何時なのか分からないけど、気が遠くなりそうなほどに先の話のように思えた。



 だけど、今すぐ帰ってくれと言う訳にもいかず――元より口を塞がれていて何も言えない。



 だからコクンと小さく頷き、分かったと示した。



 それを男が見てるのか分からなかったけど、一応頷いておいた。



――そして再び静寂が訪れる。



 ビュービューとアパートの外に吹く、冬の冷たい風の音が聞こえる。



 近くを通る車やバイクの音が聞こえる。



 心なしか2つ向こうにある通りの、信号機の信号が変わる音まで聞こえるような気がした。



 それはただの気の所為なんだけど。



 そう思えるくらい、部屋の中は静かだった。



 余りの静けさに緊張感が解けていく。



 吹き飛んだ眠気が、数倍にもなって襲ってくる。



 こんな状況なのにもかかわらず眠気を感じる悠長な自分に、少しだけ笑いが込み上げた。



 でもそれは完全に安心しきってる所為だったんだと思う。



 本当に何もされないと――何故か男の言葉を信じてたんだと思う。



 むしろするならとうの昔にしてるだろうと、そんな事まで考えたりもした。



 そうやって余裕が出てきたから嫌な事を思い出した。



 そして一気に気が重くなった。



 昼間、病院で看護師さんに呼び止められ言われた言葉が頭の中に浮かんでくる。



“葉月ちゃんのお母さん、最近余り眠れないらしくて”


“隣の人のイビキが気になるらしいの”


“その所為で少し体力も落ちてきてるの”


“夜中に痛みがきても、周りに迷惑を掛けられないからってずっと我慢してたみたい”



――個室に移れないかね。



 最後はお母さんの言葉が頭に木霊した。



 個室は1日いくら掛かるんだろうか。



 いくらだとしても今の稼ぎじゃ絶対に無理。



 今の生活だけでも不十分で、既に借金がある。



 お金を借りてるのは親戚の人たちにだけど――返さない訳にはいかない。



 これ以上お金を無心したところで、出してもらえるはずもない。



 みんながみんな自分たちの生活に精一杯で、それまで疎遠そえんだったあたし達親子にもうお金なんて出してくれない。



 ならもっとバイトを増やさなきゃと思う。



 思うけど、体力的にはもう限界でこれ以上増やせるとは思えない。



 それでなくてもあたしはすぐにクビにされる。



 どうすればいいんだろう。



 どうしてあげたいかは分かってるのに、そうする方法が分からない。



 体が――重い。



 今置かれてるこの状況よりも、そっちの方が大変だと思う。



 知らない男が部屋にいる事よりも、お金の方が心配になる。



 誰も助けてくれない。



 これが世間ってものなのかもしれない。



 だけどそうさとるには、あたしはまだ若いんじゃないかって思う。



 そう思うのは甘えなんだろうか。



「空家だと思った」


 二度目の男の呟きには、然程さほど驚きはしなかった。



 他の事を考えてたからハッとしたのは確かだけど、大きくビクつく事はなかった。



「ここは家具を置いたままいなくなる奴が多いらしい」


 まるで独り言のように――実際独り言なんだけど――男はポツリポツリと口を開く。



「巻き込むつもりも、迷惑掛けるつもりもなかった」


「……」


「寒く――ないか?」


 男のその質問に、小さく頷いた。



 屋根があるってだけで外にいるのと然程変わりないくらいに、冷たい隙間風が入ってくるボロアパート。



 それでも寒さを感じる事はなかった。



 そこまでの余裕はなかったのかもしれない。



 もしくはいつも1人の部屋に自分以外の人間がいるって事が、いつもよりも温かく感じさせてたのかもしれない。



「俺の事は忘れてくれ」


 それを最後に男は黙った。



 だけど視線は微かに感じた。



 見られてる――というよりは、見張られてる。



 あたしが妙な行動を起こさないように、男がジッと見張ってる。



 その視線に――安心した。



 よく分からないけど、見られる事に見守られているような感覚がした。



 それはきっと寝不足の所為だと思う。



 その上に心労があるからだと思う。



 だからそんなあり得ない気持ちになったんだと思う。



 あたしを見ている視線に温かさを感じる。



 そういう風に見つめられたのは、いつが最後だっただろう。



 いつの間にか冷たい目やさげすみの目や、同情の目しか浴びなくなった。



 ジッと見つめられる事はなくなった。



 一瞬目を遣り、腹の底に思ってる事を伝えてくる。



 年々、見つめられるって事はなくなっていく。



 小さい頃は親にジッと見つめられてたと思う。



 それこそ見守られてるという言葉が合ってると思う。



 だけど大きくなるにつれ、そういう事はなくなってくる。



 あたしが思うに幼少時代が、一番“愛される”時期だと思う。



 けどそれは特別な事じゃなく、誰だってそうだと思う。



 そんな事を思ってた。



 そんな事を考えてた。



 それが最後の記憶だった。



 あたしはいつの間にかその温かい目に見守られ、眠りの淵から滑り落ちた。





 目が覚めたのはお昼過ぎ。



 あたしは布団の上にいた。



 目隠しも猿轡もなく手も縛られず、コートを着たままただ普通に眠っていた。



 全てが夢だったのかと思ったのは、部屋に誰かがいた痕跡こんせきが何一つなかったからだった。

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