†侵入者†


 昔から、鈍臭どんくさいだとかトロいだとか、散々周りに言われてきた。



 酷い時には愚図ぐずだ馬鹿だと、キツくののしられたりもした。



 自分じゃそんな自覚はないけど、身近な人になればなる程、付き合いが長くなればなる程、あたしのにぶさに対する苛立ちが強くなるようで、最初は「天然で可愛い」と声を掛けてきた彼氏の隼人はやと君も3年経った今じゃ「グズ」だ「バカ」だとあたしを叱咤する。



 あたしはどうも他人を苛立たせたり怒らせたりする事に関しては、かなりひいでてるらしい。



 だからって、治せと言われてもやっぱり自覚のないあたしには、何をどう治せばいいのか分からないから治せない。



 それに17年もの歳月をこの性格で生きてきて、愚図だ馬鹿だと罵られてもあたし自身特に不自由だと感じた事はない。



 今更どうこう出来る訳も、したい訳もなく、罵られる事ももう慣れた。



 だからあたしはきっと死ぬまで、周りで言うところの、愚図で馬鹿なんだろうと思う。





「お疲れ様でした」


 女子更衣室で着替え終わり、他のバイト仲間に声を掛けると、「お疲れ様」と軽く返事が返ってくる。



 ワイワイと楽しげに仲間同士喋りながら着替えているバイト仲間を尻目に、鞄を手に取り更衣室を出て携帯電話で時間を見ると、次のバイトまで30分ほどしかなかった。



 間に合うか間に合わないかのギリギリの時間。



 急いで行こうと歩きだそうとした時、



葉月はづきちゃん!」


 不意に声を掛けられ、行き掛けた足を止めた。



 振り返ると更衣室のドアから、さっき談笑していたバイト仲間の一人が顔を出していて、



「ちょっといい?」


 普段はあたしには見せない笑顔を向けてくる。



 時間がないからまた今度――と言いたい気持ちは山々だったけど、そういう訳にもいかないから、「はい?」と聞き返した。



「お願いがあるんだけどさ? 明日のバイト代わってくれない? 昼からのシフトなんだけど」


 バイト仲間は顔の前で両手を合わせ、お願いのポーズをする。



 それを見ながら代わるのが可能かどうか、頭の中で考えてみた。



 明日は病院に行く日。



 昼前に病院を出るとすると、朝から行かなきゃいけない。



 でも今日これから後2つバイトがある。



 終わって家に帰ると朝で、ほとんど寝ないまま病院に行くのは無理。



 もし仮にそれが出来たとしても、明日の夜は隼人君との約束もある。



 いくら何でも徹夜状態でバイトをした後、隼人君に会うのは体がもたない。



 なら、無理だ。



 断らなきゃ。



 そう思って口を開こうとした矢先、



「じゃあ、お願いね! 明日、デートなんだ!」


 バイト仲間は片手をヒラヒラと振り、更衣室の中に戻った。



「……」


 また――遅れた。



 人とは少しだけ違うテンポの所為で、置いてけぼりをよく食らう。



 色々と頭で考えてる間に周りは先へ先へと行ってしまう。



 その場の話題の事柄を口にした時にはもう他の話題になってるなんて事はしょっちゅうで、だから出来るだけ人前では口を開かないようにしてる。



 でも今回の事はきっとあたしだけの所為じゃない。



 あたしの返事を待たない相手も悪いと思う。



 普通なら、返事がどうであれ待つのが当然だと思う。



 お願いをしてる立場のくせに、自分勝手すぎると思う。



 だけどそんな事は言えない。



 折角続いてるバイトの仲間と険悪になりたくない。



 今更断っても大丈夫だろうか。



 相手はもう代わってもらえた気でいる訳だし、今更更衣室のドアを開けて「無理です」って言ってもいいんだろうか。



 あの子はすっかりデートする気でいるかもしれない。



 もしかしたらもう彼氏に電話して、「明日、会えるよ!」なんて言ってるかもしれない。



 確か他の子達と話してた内容を聞いた記憶では、最近彼氏が出来たばかりらしい。



 ならデートしたい気持ちも分かる。



 バイトを代わって欲しいと言う気持ちも分かる。



 きっとウキウキしてるんだろうし、ワクワクしたりソワソワしたりもしてるんだと思う。



 そんな気持ちに水を差すような事言っていいんだろうか。



 多分――ダメだ。



 ダメっていうより、可哀想だと思う。



 ならあたしが我慢すれば――隼人君に事情を説明して、会うのを別の日にしてもらえばいいだけかもしれない。



 あたしと隼人君の付き合いは長いし、絶対明日会わなきゃいけないって事でもない。



 それに隼人君はあたしの性格を把握してくれてるから、事情を説明すればきっと分かってくれる。



 多少なり叱咤されるかもしれないけど、ある程度それも慣れてるし、最終的にはきっと「仕方ねぇな」と納得してはくれると思う。



 そうしよう。



 そうするしかない。



 きっとそれが最善の策だと思う。



 ピピピ、と手の中の携帯電話のアラームが鳴った。



 画面を見ると次のバイトが始まる5分前だった。





『バカじゃねぇの、このグズ!』


 すっかり朝日が昇った時間。



 バイトの帰り道で、もう起きてるだろうと隼人君に電話をして、夜に会えなくなった事とその事情を話すと、携帯から聞こえる声が割れんばかりに怒鳴られた。



 でもこうなるだろうと予想はしてたから、大して驚く事も傷付く事もなく、



「でも、可哀想だから……」


 一応言い訳を口にしてみると、電話の向こうから渾身の「ちっ」って舌打ちが聞こえた。



『俺との約束が先だったろ!』


「そ、そうなんだけど、」


『なのに何でバイト代わってんだよ!』


「だから、その子がデートするからって、」


『バカじゃねぇの、お前! 俺との約束とそいつのデートとどっちが大事なんだよ!』


「で、でも、」


『でもじゃねぇよグズ! どうせグズグズしてる間に押し付けられたんだろうが!』


「押し付けられたって感じじゃないけど……」


『そういうの押し付けられたっつーんだよ、このノロマ!』


「そっか」


『何が『そっか』だよ! イラつく!』


「ごめん」


『朝から電話してきたと思えばロクな事ねぇ!』


「ご、ごめん」


『朝からイラついてどうしようもねぇ!!』


「ごめんね? あ、もうすぐ家出るよね?」


『お前に関係ねぇだろ!』


「う、うん」


『今日、帰ったら電話してこいよ!』


「分かった」


 あたしの返事に『じゃあな』とも言わず、隼人君はブチッと電話を切った。



 ある意味これは、「仕方ねぇな」と納得してくれた事になる。



 納得してなかったら何が何でも会いに来いって言ってるはず。



 隼人君は怒るけど、許してもくれる。



 口は悪いけどちゃんとあたしを理解してくれてる。



 だけどたまに――怖い時もある。



 隼人君は時々あたしに暴力を振るう。



 最初はたまたまだった。



 あたしにイライラした隼人君が八つ当たりで投げた鞄があたしに当たった。



 そんなつもりはなかったって、その時隼人君は凄く謝ってくれて、イライラさせたあたしも悪いと思ったから、「いいよ」って許した。



 それがいけなかったのかもしれない。



 それから時々暴力を振るうようになった。



 でもやっぱりそれはあたしにイライラした時だけで、結局のところ原因はあたしにある。



 仕方ない事なんだと思う。



 周りの言う、愚図で馬鹿なあたしと付き合ってくれてるだけでありがたい事なんだと思う。



 思うというか――そう言われた。



“お前みたいなグズが俺と付き合えてる事だけでありがたく思え”


 隼人君は口癖のようにそう言う。



 だからこそ、あたしが少しでも反抗的な態度をすると苛立ちが増すらしい。



“お前みたいなバカは黙って俺の言う通りにしてりゃいいんだ”


 とどのつまりがそうならないと、隼人君は凄く怒る。



 だから怒られないように努力してるんだけど、やっぱりあたしは愚図で馬鹿なのか、思うようにはいかず怒らせてしまう。



 次に会った時には物凄く怒られる事を覚悟して、ようやく着いた家の玄関を開けた。



 築40年以上の古い木造アパートの1階の端の部屋。



 歩くだけでギシギシときしむ床を歩き、奥の部屋に入るとすぐにいたままだった布団の上に寝転んだ。



 2時間眠ろう。



 起きたらシャワーをして病院に行こう。



 疲れた。



 今日は3つのバイトが重なった日だから疲れた。



 半分意識が朦朧もうろうとする中、携帯電話のアラームを2時間後に設定して、あたしは泥の中に落ちるように眠りに就いた。





「何をグズグズしてたんだい。遅かったじゃないか」


 病室のドアを開け、あたしが顔を出すやいなやお母さんの声が飛んできた。



 4人部屋の一番手前。



 少し起こしたベッドにいるお母さんは、「早く来い」と顎をしゃくる。



 他の患者さんに「こんにちは」と挨拶をして、そそくさとお母さんのベッドに近付くと、お母さんは仕切りのカーテンを閉めるように目で合図した。



「ごめんね。ちょっと寝坊しちゃって」


 カーテンを閉めながらそう言ったあたしに、お母さんは「寝坊?」と怪訝な声を出す。



 だから言わなきゃよかったと後悔しながらベッドの脇のパイプ椅子に座り、話を誤魔化すように「調子どう?」と問い掛けた。



「いい訳ないだろ」


「どこか痛い?」


「体中痛いよ」


さすろうか?」


 あたしの問いに何も言わず、お母さんは体を横向きにして背中を向ける。



 それが背中を摩れという事だと理解出来たあたしは、すぐにその細い背中を摩り始めた。



「ねぇ、葉月」


「うん?」


 お母さんの骨ばった背中が、声と一緒に微かに振動する。



「個室に移れないかね」


「……個室?」


 目を向けたそこには、髪が抜けて薄くなった後頭部。



「個室に行きたいんだよ」


「……そっか」


 そんな姿をの当たりにすると、無碍むげに断る事なんて出来ない。



 無理なんだけど。



 個室なんて到底無理なんだけど。



 今でさえ治療費を払うのが精一杯で、出来れば6人部屋に移って欲しいとまで思ってたくらいなんだけど。



「考えてみるね」


 そう言わざるを得ない。



 随分小さくなったお母さんは、「頼むよ」と小さく呟いた。



 その声が余りにも痛々しくて、胸がギュッと痛くなり息苦しくなる。



 だからその気持ちを払拭するかのように、「お母さん、リンゴ食べる?」と、関係のない話を持ち出した。



「リンゴ?」


「うん。昨日、バイト先でもらったんだ」


「バイト先って――工場かい」


「ううん。その後の、」


「その後ってあんた、新聞配達クビになったんじゃなかったのかい?」


「うん。だから清掃のバイト始めた」


「清掃?」


「そう。週に3回、深夜から朝まで飲食店のビルの清掃」


「まぁ、精々クビにならないように気を付けな。あんたはどうしようもないグズなんだから」


「うん。頑張る」


 返事をしながら背中を撫でていた手を離し、ベッドサイドの棚から小さな果物ナイフを取り出す。



 鞄にそのまま放り込んであったリンゴを出して、皮を剥き始めたあたしに、お母さんは背中を向けたままポツリと呟いた。



「今日は寒いかい?」


「あ、うん」


「冬だねぇ」


「そうだね」


「私が入院した時は、まだ暑かったのに」


「そう――だっけ?」


 言って後悔をした。



 誤魔化しが下手だと自分でも思った。



 ここは普通に「そうだね」と返事すればよかったのに、“その先”の言葉を変に予想して誤魔化してしまった。



 こういうのは苦手だ。



 嘘を吐けない訳じゃないけど、必ずバレる。



 だから出来るだけ嘘を吐かなきゃいけない状況にならないように先を読む。



 先を読んでそうはならないようにと必死に誤魔化す。



 だけど結局その誤魔化し方を誤ってしまう。



 そんな風だからあたしは愚図だ馬鹿だと言われるのかもしれない。



 むしろ本当に愚図で馬鹿な証拠なんだと思う。



 そう分かっているのに、



「あのね、お母さん。今日、バイト入っちゃってね? 喫茶店の。だからあたしもう行かなきゃ」


 あたしはこの期に及んで逃げて誤魔化すという選択をした。



 剥き掛けのリンゴを置いて立ち上がったあたしに、「個室の事、頼むよ」とお母さんは再度言った。



 それにどう答えたのか覚えていない。



 とにかくこの場から立ち去ろうと――逃げる事しか考えてなかった。



 入った時と同じようにそそくさと病室から出たあたしは、



「あの、すみません」


 ナースステーションの前を通りかかった時、看護師さんに声を掛けられた。





「お客さんからのクレームが多くてね。もう少しキビキビ動けないかな?」


 寝不足の上にぶっ続けで9時間労働をした後。



 ようやく帰れるとフラフラになりながら着替え終わって更衣室を出ると、バイト先の喫茶店のオーナーに呼び止められ小言を言われた。



「すみません……」


 もう意識の半分は夢の中で、ふわふわとした頭ながらに一生懸命考えて、出た言葉がその一言。



 それでも俯いて言ったお陰か、オーナーはあたしが深く反省してると思った様子で、



「真面目なのは分かるんだよ? だけどまぁ……もうちょっとキビキビとね。頼むよ」


 少し柔らかい口調でそう言うと、「お疲れ様」とすぐに解放してくれた。



 正直、帰るのが億劫おっくうになるほど眠かった。



 道端で寝てしまおうかと思うほどに眠かった。



 だけど外に出た途端、ゾクッする冷たい風に体を包まれ、屋根があるだけ家の方がマシだと、帰路に着いた。



 バイトが終わったら電話するように隼人君に言われたけど、そんな気力もない。



 家への道を歩いているのはほぼ無意識で、足が勝手に出てるから前に進んでるって感じ。



 今日はこのまますぐに寝て、起きてから電話をしよう――なんて、仮令たとえそれが怒られるという結果を招こうとも、今日はもう何もしたくないと思った。



 凄く疲れた。



 肉体的にも、精神的にも。



 昨日よりも疲れがずっしりと体にし掛かってる気がする。



 重い足取りでアパートの前まで着いた頃には、まぶたが3分の2ほど閉じていた。



 古いアパートは暗い。



 部屋は10以上あるけど、実際住んでるのは3人くらいだと思う。



 近所付き合いもないし、毎日バイトで忙しいから住人と会う事はなく、一体どんな人たちが住んでるのかは知らないけど、時々薄い壁伝いに歩いてる音が聞こえる。



 でも今は誰も部屋にはいないようで、漏れる明かりがなくアパート全体が夜の闇に覆われてる。



 それがアパートを妙に薄気味悪く感じさせる。



 今すぐ取り壊されてもおかしくはないと思えるほどのボロアパートを見上げ、「はぁ」と溜息を吐くと部屋に向かった。



 玄関に鍵を差した時は、意識が飛ぶ寸前だった。



 建て付けの悪いドアを開け、玄関で靴を脱いだ時には、自然と体が傾いていた。



 ドアを閉めて鍵を掛け、電気のスイッチに手を伸ばしたその時――



「騒げば殺す」


 突然背後から伸びてきた手が、口を塞いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る