第8話

 家に帰ってくるとリビングが甘い香りで満たされていた。


 いつもの晩御飯の匂いとは違う。柏木は鼻を鳴らしながらキッチンに入った。


「ただいまー。換気扇回してる?」


「回してまーす」


 ユリは鍋を置いたコンロに火をつけ、頭上を指差した。


 少々年季の入った換気扇が勢いよく回っている。ユリが綺麗にしてくれたおかげで本来の白さが微妙に戻った気がする。


 彼女は鍋の蓋を開け、おたまで軽くかき混ぜた。


「甘いものが食べたくなって、ガトーショコラなんかを作りまして」


 ガトーショコラ。柏木の目が見開かれた。


 ユリはそれには気づかず、パーカーのポケットからスマホを取り出した。


「簡単でおいしいレシピがSNSで流れてきたんですよ! ……あまりのおいしさに平らげました」


「おま……。俺も食べたかった……」


 あからさまに肩を落とした姿はユリにとって意外だったらしい。申し訳なさそうに眉を落とし、冷蔵庫を指差した。


「材料残ってるし、今度作りましょうか? 柏木さんは甘いもの好きなんですね」


「特別好きってことはないけど、女の子が作ったお菓子食べたいじゃん」


 柏木は脱いだ作業着を脱衣所のカゴに放りに行った。


 リビングに戻ると、テーブルには白い深皿とスプーンが並んでいる。今日はシチューだ。


 彼女が白米をよそってくれた茶碗を受け取り、手を合わせた。


「お嬢の先輩が遊びに来てたぞ」


「そうだったんですか! 会いたかったな……」


「お嬢のこと聞かれたんだが、辞めたけど帰ってきてるって言いそうだった」


「やめてください……。皆に怒られちゃう……」


 ユリはシチューをすくう手を止めた。


 柏木はだらしなくソファによされ、わざとらしくニヤニヤした。


「あーあ。お前がウチにいること、いつサラッと言うか分っかんないな~。長谷川さんからは度々疑われてるぞ」


「さすがお母さんだ……」


「なんならお前の新しい嫁ぎ先探すか? そしたらごまかせるだろ」


「余計!」


「男の所に転がりこんできたヤツに言えることか」


「ぐっ……」


 ユリは歯をギリ、と鳴らすと柏木のことをにらみつけた。居候先の家主に対する態度ではない。対する彼は余裕の笑みであごをさわっていた。


「実際どうなの。婚約者以外の男のことは考えたことあんの?」


「ないですよ……。こんな思いするんなら彼と知り合わなきゃよかった、って後悔してますから。あんな簡単に付き合おうと思った自分って本当にバカ」


 彼女は食事を再開し、シチューにがっつき始めた。


 ユリが作ったシチューは美味で、ルゥは使わず牛乳と米粉とチーズを使ったと話した。チーズの塩気がご飯によく合う。






 柏木はベッドの端に腰掛け、スマホをいじっていた。メッセージアプリを開き、チャチャチャッと文字を入力していく。


(今日のクマちゃんは、っと……)


 晩御飯にシチューを作ってくれた。変わり種でうずらの卵が入っていた。


 家に一人でいる間は本を読んでいたらしい。最近は柏木が押し入れの中から発掘したものを気に入って読んでいる。


 合間にガトーショコラを作って一人で平らげた。


 婚約者のことを話す時は、こちらに来たばかりの頃よりの嫌悪感が薄くなった気がする。


 まるで日記のような内容。これを読んでいる者はどんな気分なのだろう。婚約者がおっさんと暮らしていると言うのに、未だに不貞を疑うことはない。


 それを送信するとアプリを閉じ、サイドテーブルに置いた。


 後ろ向きでベッドの上に倒れこみ、そのまま眠ってしまった。











 その日、ユリは久しぶりに雅史から連絡を受け取った。


 深く考えずにメッセージアプリを開き、彼女は愕然とした。


『ここまで帰ってこないということは、きっとそういうことだよね』


 自分も別れを決意した、と彼の気持ちを匂わす一言。


 ソファに座ってテレビを見ていたのだが、その音が聴こえなくなった。


 まさか自分がショックで呆然とする日が来るとは思わなかった。雅史のことを拒絶していたからこれは不意打ちだ。


 イライラしていた頃だったら荷物を取りに行く算段をつけていただろう。だが今は、返信することができずに固まった。


「ま……さ……ふみ────」


 久しぶりに声に出して呼んだ婚約者の名前は妙に懐かしくて。愛しさをこめて呼んでいた時の記憶がよみがえる。


 仕事から帰ってきた彼を労う時、食事ができてリビングに召集した時、人ごみではぐれかけて周りを見渡す彼に手を振った時、夜を共にして彼のことをもっと感じたくて強く抱きしめた時。


 雅史が呼んでくれるユリの名前は他の誰からよりも優しかった。呼ばれるだけで、抱きしめられたようだった。


 彼からの短い文章は、今まで雅史へ恨みつらみを抱いたことを後悔させられた。罪悪感が背中に重くのしかかってくる。


 失ってから初めて気づくもの。生まれてから初めてその意味が分かった。


「やだ……」


 またこれだ。なんか嫌だ。もういやだ。やだ。


 いつも子どもみたいに拒絶するばかり。


 ユリは顔をくしゃっとゆがめて震えた。


 雅史からの新しいメッセージ。ユリはそれを見て泣き出した。


『自分はまだユリに未練がある。帰ってきたらご飯を作って待っていてくれるんじゃないか。休日の朝、目覚めたユリが甘えて抱きついてくるんじゃないか。休日には遊びに行きたい場所があると提案してきたり。一人で生活している中で、ユリの面影を探しては虚しさを感じてる』


「帰りたいよ……」


 とうとうこぼれた、柏木がのぞんでいたこと。


 雅史にそんな風に思われていたなんて知らなかった。ユリばっかり雅史のことが好きで、彼からは薄い愛しかないと思っていた。


────帰りたい。今年のバレンタインも彼と一緒に過ごしたい。ガトーショコラだっておいしく作ることができた。目の前で作ってあげたい。


 ユリは腹部にふれると泣き崩れた。スマホは手からソファの上に滑り落ちた。











『新しい嫁さんもらったら? 今からでも遅くないでしょ』


 昔の上司に言われた言葉だ。元妻と別れて数年たった頃に、呑みの席で”誰か紹介しようか?”と変な気を利かせてきた。


 もう女はいい、というのが当時の柏木の口癖だった。まるでこの前のユリだ。


『またあんなことになっても……。自分はそういうの向かないんですわ』


『そうなの? 柏木君がそうでも周りが……。こんな顔のいい三十代なんてほっとかないよ? 金銭面でも」


『どっちも大したことないですけど……』


 柏木は無造作ヘアをぼさぼさとかいた。実際今まで言い寄られたことはないに等しい。


『柏木君、若い女性社員から人気あるんだよ? なんか……おじ専とかなんとか言ってた』


『おじさん呼ばわり……。そんなんにモテても複雑ですね』


 三十代に入ったばかりの時は、おじさんと呼ばれるのが不服だった。”じゃあ人のことをお母さん呼ばわりするのをやめなさいよ”と、長谷川に怒られた。


 今はなんなんだろうな、と柏木は荷物をトラックに積む手を止めた。


(アイツの立ち位置はどうなるんだ……)


 居候なのにまるで奥さんのように過ごしているユリ。家事を全て引き受けてくれ、柏木が今まで放置してきた家の掃除を隅々までしてくれた。


 最近は日差しがある時に少しずつ、家回りの雑草抜きをやっているらしい。近所の目が気になるところではある。


「かーしわーぎさん」


「なんだー」


 荷物の積み込みを再開したら、松嶋が現れた。片手には電子タバコ。彼は明日の荷物が少なく、早々に積み込みを追えたらしい。


「ここで吸うなよ。怒られるぞ」


「まだ吸ってませーん」


 松嶋は作業着のポケットにしまうと、そばでヤンキー座りをした。


「そう言う柏木さんは最近煙草吸いませんよね」


「あぁ……」


 言われて初めて気がついた。


 家に帰ると、作業着のポケットに入れた煙草の箱とライターをリビングのテーブルに置く。毎朝それをポケットに入れて家を出るが、取り出すことはない。


 ユリに臭いと文句を言われたわけではないが、家で吸うのを無意識にやめていた。その流れか、仕事中に吸うこともなくなっていた。


「煙草嫌いの彼女でもできたんですか?」


「……ねっ、猫に気を遣ってんだ」


「あ~預かってる猫ちゃん。俺もさわりたいなー。いつになったらお邪魔していいんですかー?」


「やめとけ。ひっかかれるぞ」


 松嶋との会話で、ユリのこれからを再び考えることはなかった。

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