第7話

 初めて雅史と一緒に寝たのは旅行をした夜。


 そういう展開になるはずだから、とユリは雪華にお守りを渡された。どういう心配をしてるんだと当時は鼻白んだが、それは間違っていなかった。


 夕飯は外で済ませ、予約していたホテルにチェックイン。途中、コンビニで缶チューハイとおつまみを買った。


 お互いにシャワーを済ませ、それぞれのベッドの上でテレビを見ていた。


 並んだシングルベッド。真っ白なシーツがまぶしい。


 明日も回りたいところがあるし、たくさん移動して疲れた。”先に寝るね”と告げたユリを、雅史は後ろから抱きしめてベッドの上で寝転がった。


 その腕の強さは今までにないもので。肩に顔を押し付ける雅史の息がやけに熱く感じた。


「雅史?」


 名前を呼ぶと、腕を離され今度は正面から抱きしめられた。


 背中をいったりきたりと上下する手つきに、体の中がぞくぞくした。


 気づけばお互いをさらして夢中で求め合っていた。






「柏木さん」


「なんだ?」


 リビングでテレビを見ながら、睡魔と戦っていた柏木は振り返った。


 時刻は23時。そろそろ寝室に行く時間だ。


 大あくびをするとユリがソファの隣に座った。自分の前髪を軽くさわり、目をふせる。


「柏木さんは結婚してよかった、って思ったことはありますか」


「離婚したヤツに聞くか? もうちょいお前は頭がいいと思ってた」


「ごめんなさい!」


 わざとらしくふてくされた顔をしたらユリは本気にしたらしい。勢いよく頭を下げ、両手を合わせた。


「無神経でごめんなさい……」


「いいよ、うそうそ。お嬢のことだから何か思うことがあったんだろ」


「……はい」


 そこまで落ち込むとは思っていなかったので、柏木は軽く笑ってみせた。


 十年前の傷は、えぐらない限りなんともない。ユリの興味があるなら話してやってもいい。


 柏木はリモコンをテレビに向け、頭の後ろで手を組む。


 元妻とこの家で過ごした日々を思い出そうとした。しかし、ユリがそばにいるせいかこの一、二週間のことしかうまく思い出せなかった。


「まぁ……楽しかったよ。元妻といた時間は無駄だったとか、あんな女選ばなきゃよかったとは思ってない。一人の時間も楽しいって思えるようになったし。別れた直後はくそしんどかったけど。この家に一人で過ごすようになったばかりの時は、今も元妻と一緒にいたらどんなんだったんだろうな、って思うことはあった。女々しくて未練がましいだろ」


 柏木の自嘲にユリは首を振る。眉根を寄せた様子は同情しているらしい。


 優しい子だ。柏木は口元の力を緩めると、横目で彼女のことを見やった。


「だからじゃないけど、お前も後悔しない別れ方をしろよ。少しでも婚約者に会いたくなったらすぐ帰りな。婚約者もお前に会いたがってるかもしれんぞ」


「そうですかね……。自己中で自分大好きな人ですから────」


「決めつけんな!」


 柏木の唐突の怒号にユリは体をビクつかせた。


「ご、ごめん」


「いえ……。ちょっとびっくりしただけです……」


 職場で見せたことのない感情的な様子に、ユリは目を瞬かせた。


「お嬢に後悔してほしくないから……。俺らにとって可愛い娘だ。最後の出勤日に笑顔で辞めていったお前に泣いて帰ってきてほしくない」


「はい……」


 ユリはゆっくりと何度もうなずいた。











 夢を見ていた。


 雅史と結婚して寿退職して、子どもを産んで子育てにいそしんで。落ち着いたから赤ちゃんの顔を会社に見せに行こう、と思い立った。


 何時くらいだったら忙しくないか、皆とゆっくり話せるだろうか。と懐かしい顔を思い浮かべながら。


(ママがお世話になったお姉さん、お父さんたちに会ってほしいな……)


 夢の中のユリは、いつも下ろしているセミロングの髪を短く切っていた。


 赤ちゃん────小さな男の子を抱っこして事務所に行くと、事務所のお姉さんたちに囲まれた。ユリが顔を見せに来たと配送の方まで話が伝わり、事務所に人が群がってきた。


 事務所のお姉さんが抱っこしたいとユリの腕から受け取ったものの、赤ちゃんは泣きだしてしまった。しかし、ユリの腕の中に戻ると安心したように笑う。


 その時、なぜか雅史が現れてユリの腕の中から赤ちゃんを抱き上げた。”コイツが父ちゃんになったのかー”とからかわれながら。


 ユリはお姉さんたちから子育てで経験したことを教わり、熱心に聞く。その姿に”仕事もずっと真面目に取り組んできたから、絶対いいお母さんになれる”と太鼓判を押される。旦那にはしっかり稼いでもらわないとね、と雅史は皆の視線を集めていた。











 そのままソファで寝てしまったらしい。柏木は太もものしびれで目を覚ました。


 ソファに座ったまま寝落ちたせいか、体の疲れが取れていない。電車の中で寝て、目的地で目を覚ました時のようだ。


(お嬢……)


 隣で泣いていたユリが、柏木の太ももをまくらにして眠っている。しびれの原因は彼女のようだ。


 柏木は遠慮がちに髪をなで、それから頭に手の平をのせた。


 時刻は午前六時。起きるには早いが、二度寝はできそうにない。ここで寝ていたら風邪をひいてしまう。


「……おい、お嬢。起きろ」


「ん……」


 ユリは返事だか寝言だか分からない声を発し、寝返りを打った。


 瞼をとじたままの彼女は、よだれを垂らしながら眠りこけていた。


 幾分か心が解放されて幸せそうな寝顔。それを見たら体の痛みが不思議と軽くなった。











 ある時からユリが突然トイレに駆け込むことも、顔色が悪い所も見ることはなくなった。食欲も安定したようで、動きもよくなっている。


「絶好調だな。いいことでもあったか?」


「うーん。どうでしょう?」


 彼女は笑いながら鍋の中身を混ぜた。


 ただ、以前と比べると何かを失ったような笑顔をするようになった。口の端に悲しみを含ませ、目が合うことが少なくなった。


 何かあったのか、と柏木から聞くことはない。話したくないならそれで構わない。自分はただの居候先だ。


「配達の方、どうです? 忙しいですか?」


「まぁまぁだな。それより毎日家事こなしてくれてありがとな」


「いえ。居候ですからこれくらいは」


 謙遜して笑うユリは、やっぱり悲しそうな笑顔を浮かべていた。






 バレンタインなんて単語が社内で広がり始めたのは二月に入ってすぐ。


 どうやら話題の発端は子どもがいる母親たち。友チョコやら本命チョコやらを作る手伝いをするらしい。一部では作る過程の全てを任される者もいるらしい。


「お母ちゃんお母ちゃん。来週チョコくれ。既製品でいい」


「だからお母ちゃんって呼ぶな」


 長谷川が眉間にシワを寄せて振り向いた。キャスター付きの椅子で。


 柏木は彼女の隣の椅子を引き、肘をついた。ここの事務員が戻ってくるまでおしゃべりタイムだ。


「冗談冗談。そんな怒んな」


「ったく……。バレンタイン前にそんなはしゃぐとか子どもか」


「男なんてそんなモンだ。いくつになってもバレンタイン前はそわそわすんの」


 柏木は頭の後ろで手を組んだ。


 長谷川も手を止め、背筋を伸ばしながら目を細めた。


「バレンタインね~……。娘が高校生の時まで手伝わされたわ……」


「嫌だったんだ?」


「嫌って言うほどじゃないけど一人でできるでしょーが、って」


「ふーん……」


 柏木の元妻は料理が得意で、お菓子作りも好きだった。バレンタインにはチョコを使ったお菓子を作って家で待っていたものだ。


「ユリさんがいた頃はあの子、律儀にチョコを配っていたわね」


「いかにも義理ですってヤツな」


「そうそう。大袋に入ったヤツ」


 ユリは毎年、お徳用チョコを買ってきてはタイムカード前にボン、と置いていた。


 ”雑だろ!”と一部からブーイングを飛ばされていたが、ユリは辞めるまで続けた。


「今年もくれるかな……」


「へ? いない子からどうもらうの」


 長谷川の真顔に柏木は目を見開いた。油断するとこれだ。


「あ……いや! いつもみたく現れて配りそうだなーと思ってだな! ついつい夢見ちまったとこだ!」


「あーそう? 柏木君あんた、最近ユリさんがいるかのような話多くない? あの子がいなくてそんなに寂しいの?」


「そりゃ皆の娘だからな! お母ちゃんは寂しくないの?」


「もちろん思い出しては寂しく思ってるよ。あの子と話すのはいい休憩だったからね」


 長谷川は肩を回してキーボードを叩き始めた。が、柏木のことを再び見てにらみつけた。


「てかお母ちゃんじゃないから! あんたより若い子からだったら分かるから許すけど、あんただけは許さん!」


「あ、そろそろ戻ろ。荷物できてきたみたいだし~」


 柏木は椅子から立ち上がって長谷川の視線から逃げた。


 事務所を出ると、長谷川の隣の事務員と私服姿の女性が談笑している様子が視界に入った。


 私服姿の女性は何年か前に寿退社した元社員だ。腕には小さな赤ん坊。結婚式に呼ばれた彼女の同僚が、それはそれは素敵な花嫁姿だったと教えてくれた。


 二人は赤ん坊の顔をのぞきこみ、しきりに何かを話しかけている。


「おーおー。懐かしい顔がいるじゃん」


「あ、柏木さん。お疲れ様ですー。お久しぶり」


 元社員は彼の顔を見てほほえんだ。腕の中の赤ん坊をあやすようにゆらゆらと体を動かしながら。


「可愛いですよね。もうすぐ一歳かな?」


「そうなんです。さすが、お母さんはすぐに分かりますね」


「私も十何年前とは言え子ども産みましたからね~」


「男の子? おとなしいな」


「今は猫被ってるんです」


「この歳で? 大したモンだなぁ……」


 柏木が赤ん坊をのぞきこむと、高い声を上げて笑われた。おとなしいと思いきや愛想を振りまいてくれるらしい。つい顔が綻び、小さな手をつついた。


「あー。人前だからって愛想ふりまいてる……。家だとこんなんじゃないのに。もっとウチでも笑ってよ~」


 母親となった社員は体を上下させ、反応を求めている。赤ん坊は真顔に戻ってしまったが。


 昔は子どもがほしかったが今はそうでもなく、子ども連れを見てもうらやましいと思うことはない。


「そういえばクマちゃんは? 今日休みですか?」


「アイツは婚約者と同棲するために辞めたぞ。今は大阪」


「そうなんですかー……。会いたかったな……」


 元社員は優しい表情で赤ん坊を見つめながら、”クマちゃんも結婚かー。あの子はいいお母さんになりそうだな~……。”とぼやいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る