第9話

 仕事から帰ってきた雅史は、スーツから着替えることなくベッドの上に倒れこんだ。


 昨夜ユリに別れようと告げたが、すぐに新たな文章を送ってしまった。


 決心したのになぜ、こんな未練を彼女に伝えたのか。雅史はシーツの冷たい感触に身震いした。


(簡単に別れようなんて言えないよ……。あっさり別れられるほど、安い思い出ばかり作った記憶はないよ……)


 突然ユリから拒絶され、何も言わずに家出をされてショックだった。ただでさえ二月のもぬけの殻の家は寒いというのに、その日は心まで冷たく痛く感じた。


 彼女が出て行ってすぐに連絡を入れたが、反応はなかった。


 電話をかけても出てくれることはなく。その日もやっぱりダメか、とスマホを下ろしかけた時。


『君は婚約者さん?』


 ユリに連絡を入れたはずだが、聞き覚えのない男の声が返ってきた。電話をかける相手を間違えていたのか。スマホから耳を離して画面を見たが、そこにはユリの名前。


 この電話の相手は自分たちの関係を知っているらしい。果たして何者なのか。雅史は警戒心を露わにし、声を硬くした。


『どちらさまですか?』


 まさかユリが誘拐されたのでは。事件に巻き込まれたのでは。心臓がバクバクと激しく脈打ち始めたが、相手の男の声が優しくなった。


『急にごめんな。今、お宅の婚約者がウチに押しかけて居座っていてな……。俺は熊谷ユリが働いていた会社に勤めている者だ。彼女がウチの場所を覚えていて、家出場所にしやがったんだ。俺もすぐ帰れとは言ってるんだが、なかなかガンコで……。しばらく帰る気はないらしい。手を焼いているところだ』


「そうだったんですか……」


 荒っぽい口調だが、声を聞いている限り誠実な人だろうと見受けた。ユリのことを仕方なさそうに語る様子は兄のような、父親のようなあたたかさがにじんでいる。


 雅史が安堵すると男は、”改めて話そう”と自分のスマホの電話番号を伝えた。


 その時から柏木にユリの様子を聞いていた。柏木自らメールしてくることもある。まるでユリの観察日記だ。


 その日、ユリはもう寝たと電話口で伝えられた。


 体調はよくなったが、早く眠る日が多くなったらしい。自宅では雅史と同じく遅い時間に寝て、朝も早い。柏木の家でも同じように過ごしているようだ。


『心配で心配で、とかはないのか。男女が一つ屋根の下で生活しているのに』


『えぇ。ユリのことは信用していますから』


『君なぁ……そこだぞ』


『えっ?』


 柏木が呆れたようにため息をついた。それにはつい、妙な威圧感を感じてしまう。


『そういうところに寂しがっているぞ。もうちょっと彼女のことを気にかけてやれ』


『今でも気にかけてるつもりなんですが……。家事は無理しなくていいって』


『彼女の負担を減らすとかそういうんじゃない。彼女への気持ちだよ。好きとか言ってやってるか? 花に水やるのと同じで、好きとか綺麗だよとか言ってやらねぇと機嫌損ねるぞ』


 まだ顔を見たことはないが、絶対にそんな言葉が似合う見た目ではないだろう。雅史は笑いとあくびをかみ殺した。


『柏木さんでもそんなこと言うんですね』


『君がそんなんだからな。君の婚約者はウチの会社の大事な娘だ。あんまり雑に扱うから代表として怒ってる』


 自分が怒られることになるとは、露ほども思わなかった。


 いつしかユリが友人の雪華を紹介してくれた時、雪華は時々にらむように鋭い口調になっていた。ユリは隣で"やめてよ"とたしなめていた。


 その時の雪華には、ユリのことを大切にしていないというニュアンスが言葉の端々に含まれていた。


『言わなくても分かるとか、伝わっているなんてのは絵空事だぞ。言うことは言ってあげないと』


『なんか……ユリがそちらでお世話になっている理由がわかります。柏木さんがユリに気遣ってくれているおかげですね』


『そんな悠長なこと言ってんじゃないよ。君がやらなきゃいけないことだからな』


『うっ……』


『そういうところは婚約者に似てんな』


 柏木は咳をしながら笑った。


 電話を終えるとリビングで一人、柏木に言われたことを思い出しながらうなだれた。


 好きとか愛してるとか言った覚えはない。ここ数ヵ月は特に。


 対するユリはくっついて”好きだよ”と頬ずりをする。


 特別言わなくてもなんでも伝わると思っていた。好きも、その時の気分も、何をしたいのかも。


 柏木に言われたことはどれも図星だった。










 その日の夜。柏木の寝室にユリが訪れた。


「どうした。眠れないのか」


「いえ……。少しだけお話したくて」


 柏木はスマホをサイドテーブルに置き、ベッドの端に二人で座った。ユリは合わせた膝の上で手を重ねている。


「自分でもホントにバカだと思うんですけど……。帰りたくなって」


 柏木は片眉を上げた。あれだけ言っていた彼女がなぜ、急にそんな心変わりを。


 ユリは自嘲気味に笑って頬をかいた。


「何言ってんだって感じですよね。私もなんでこんなにあっさり心変わりしたんだろうって……。結局、ちょっと優しいこと言われたらコロッと今までのこと許しちゃうんですよ。私の恨みは……甘っちょろいんです。幼稚だからちょっとのことですぐにブチッとくるし、ノーアポで柏木さんの家に来ちゃうし……」


「泣くな泣くな! 俺はお嬢が迷惑とか面倒だなんて思ってないから。急にどうした!?」


 柏木は背中をさするか迷ってやめた。しゃくり上げたユリの目元はすでに赤く、痛々しい。


 彼女は無理やり落ち着かせると再び口を開いた。


「私────流産したんです」











 病院へ訪れた日のこと。


 順番が来て呼ばれ、診察室に入るといくつか質問を受けた。


 正直、婦人科に来て診察というものを受けたことがなかった。動けなくなるほどの生理痛ではないし、生理不順がひどいということもなかった。


「妊娠……ですね」


 女医は検査結果を前に、眉をくもらせた。


「え」


「ただ、妊娠していたってのが正確ですね」


「────流産、ってことですか………」


 ユリのか細い声に女医はうなずいた。


 ある時から密かに疑ってた妊娠。それがこんな形で知らされて終わってしまうなんて。


 あの時の直感は正しかった。だが、もっと早くに気づくべきだった。


「吐き気がずっとあったんですが……」


「えぇ。つわりがあるのは順調だととらえられることが多いんですが、皆が皆そうではないんです。逆に順調でもつわりがほとんどないという人もいるんです」


「そうですか……。原因って何が考えられるんですか?」


「この週数だと染色体異常ですね。ストレスも考えられます。環境が大きく変わって精神的に思い詰めることが多かったのかもしれませんね」


 知らない間に授かっていた雅史とのつながりを失ったのは、これからの関係を示しているのだろうか。こんなのが母親になれるわけない、という暗示かもしれない。突然家出するようなヤツなのだから。


 その日の病院帰り、ユリは雪華に電話をした。彼女が電話越しに息を呑んだのが分かった。


 雪華は話を聞き終えた後、手術を終えたらウチに来てゆっくりしていくといいと誘った。


 彼女の言葉に甘え、ユリは柏木に一言伝えて雪華の家に泊まった。彼女と美晴はユリのことを優しく迎え入れてくれた。


 その日の夜、雪華はユリの頭をなでて眠りにつかせてくれた。


 夫婦は”好きなだけ泊まっていけばいい、おじさんの家から荷物を持ってきなよ”と車を出そうとしたが、それ以上甘えることはしなかった。


「本当に大丈夫なの……?」


「うん。柏木さんもよくしてくれるし」


「そうじゃなくて……」


「────赤ちゃんのことなら平気」


 柏木の家へ帰ってきてからは泣くことはなかった。彼に報告することもしなかった。


 だが、雅史から連絡が来た時、小さな命を呆気なく失ってしまったことにやっと実感がわいた。彼に会って抱きしめてほしいと思ってしまった。それが別れの連絡であっても。











 柏木はだまり、哀愁を帯びた目でユリのことを見つめていた。


 ユリは涙を浮かべたままの瞳で笑ってみせた。


「バカでしょう……。都合がいい女で。私は雅史の言動で痛い目を見てるのに帰りたいってほざいているんですよ」


「いや。俺はそうは思わん」


「え?」


 目を丸くしたユリをよそに、柏木は後ろ手をついた。


「バカなんて思ってねぇ……。お嬢は強い女だ。でも……もう無理しなくていい」


 ユリは顔をうつむかせて再び泣いた。こんなに声を上げて泣いたのはいつぶりだろう。


 隣にいるのが雅史だったら。涙だろうが鼻水だろう流していても構わず抱きつけるのに。


 この思いは雅史に慰めてほしい。心の底でユリは柏木に謝った。






 柏木はだまって彼女の頭をなでた。


 また一人、女を大事にできなかった。彼女が妊娠していて流産してしまったとは。


 やはりあの時、強引にユリを病院へ連れていけばよかった。もしかしたらお腹の子を守れてユリがこんなに傷つかなくて済んだかもしれないのに。


 彼女は泣き疲れて柏木の肩にもたれて眠ってしまった。


 彼女を寝室に運んで寝かせてやり、すでにセットしてあった目覚ましのスイッチを切っておいた。


 彼も一人でベッドにもぐりこんだが、なかなか寝付けなかった。

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