いいに決まってる

佐崎 綾

いいに決まってる

くしゃんッ


あ、


やってしまったと感じた、早朝のトイレ。

痛い。腰がとても痛い。これはもしかしなくても、ぎっくり腰なのでは?試しに、ガラパゴス携帯のようにゆっくりと腰を折ってみる。ダメだダメだ。曲がらない。曲げてはいけないと脳が危険信号を出している。

「姉ちゃん腰痛めたわ……」

「ババァやんけ。」

ソファに寝転ぶ弟に声を掛けると、辛辣な言葉が帰ってきた。その言葉でさえ腰に響くのだからやめてもらいたい。

「んふ、ふふふふ、ふふ、」

笑い事じゃないのは分かる。

分かるけれど痛すぎて笑いが止まらない。

くしゃみでぎっくり腰になるのに年齢は関係ないと知った社会人一年目の冬。






会社までの通勤手段は電車。人の波に飲み込まれながら車両に乗り込み、入口にもたれ掛かる。今日の電車は心なしかスピードがいつもより早い気がする。いや、早いんじゃなくて荒いのかも。ゴトン、ゴン、と揺れる度にそれが腰に響く。近くにある手すりをぎゅっと握りしめて、揺れと痛みに耐える。

ありえないくらい痛い。なんだこれ、人間って腰が痛いと何も出来ないんだ。ありがとう腰。 今度からもっと労るよ。あとひと駅、頑張れ腰、とさらに強く手すりを握りしめる。

「大丈夫?」

柔らかな声が聞こえてぐるっと後ろを振り返る。

「あだッ」

「あ、ごめん、」

変な体のひねり方をしたようで、色気のない声が出た。いや別にこんな時に色気なんて必要ないけれど。

「体調悪いの?」

「いえ、あの、」

無意識に右手が腰を擦る。

「…あ~、痛めたんだ?」

綺麗なヘーゼルの瞳が痛みを感じたように歪む。自分が痛い訳では無いのに、不思議な人だな。

「足開いて、少しずらして立つと良いよ。」

そう言って自分の手を足に見立てて、右手を上に左手を下にズラしてわかりやすく説明をしてくれる。言われた通りに立ってみると、なんだか痛みが和らいだように思う。

「ありがとうございます!」

嬉しくなってパッと顔を上げた時に気がついた。

_顔良いな。そしてその良い顔が近いな。

なんだか恥ずかしくて目を逸らす。ふっと上の方で息が漏れた。笑われた!顔のいい人に!

「どういたしまして。」

あ、眩しい。






一日、腰を擦りながら過ごした。今日ほどデスクワークを恨んだことはない。座り続けるって結構きついんだな。なんだか足もガクガクしてきて、これは家に帰りつく頃にはほふく前進してるんじゃないかと思う。それは無いか。

「黄色い線の内側にお下がりください。」

抑揚のないアナウンスがホームに響く。電車、空いてるといいな。いや、座れたとしても腰は痛いよな。でも立ってるのもきつい。私どうしたらいいんだろう。ぐるぐる考えていると目の前でドアが開いた。なんとも言えない空き具合。次の駅で降りる人が多いから立っていよう。今朝のヘーゼルの瞳を思い出して、足を開き、ずらして立つ。朝と同じように入口近くの場所を確保して、手すりを握りしめる。

「大丈夫?座るか?」

下から声がして、目線を下げるとヘーゼルの瞳が私を心配そうに見上げていた。

「あ、今朝の、」

「お疲れ様。どうする?座る?」

「あ、えっと、」

「とりあえず、座りな。」

そう言って立ち上がると、自分が座っていた席に座るよう私を誘導してくれる。ありがとうございます、と言葉に甘えて座らせていただく。

ふわっと腰が席に沈んだ瞬間に分かった。これ立ってた方がマシなのでは?がたっと揺れる電車。揺れに合わせて席に沈む腰。痛いの極みだ。


降りる人が多い駅に着くと、人がワッと出ていき、私の隣の席が空いた。すかさずヘーゼルのイケメンが座る。

「なァ、もしかして座ってる方がきつい?」

「まあ、ちょっと。」

本当はちょっとどころではない。今日一日の疲れが溜まりに溜まって限界を迎えている。腰爆発しそう。

「でも、次の駅なので。お気遣いありがとうございます。」

「……そっか。」

なんだか申し訳ない気持ちになってきた。見ず知らずの人間のぎっくり腰をここまで心配してくれて、私を心配するせいでその良い顔が曇っている。

「今朝、」

「ん?」

「助けてくれてありがとうございました。」

「ああ、別に助けたなんてそんな、」

「凄く!嬉しかったんです!……だから、その、」

大きかった声はしりすぼみになっていく。

対面の席に座っていたサラリーマンから厳しい視線を浴びたからではない。必死に感謝を伝える自分がなんだか恥ずかしくなったからだ。

「ありがとう。」


うわ、顔良い。その笑顔で痛みが飛んでいった気がする。ありがとう いい薬です。

「私、ここなので。」

手すりを掴んでゆっくり立ち上がる。

「おう、気をつけて。」

ヘーゼルのイケメンに見送られながら、電車を降りる。痛みと引き換えにイケメンの笑顔が見られたから悪くない一日だっだと思う。そう思おう。







「あ、ちょうど良かった。応接室にお茶持って行ってくれる?2つ!お願い!」


両手いっぱいに資料を抱えた先輩は忙しそうにヒールを鳴らして会議室に消えていった。大変そう、と他人事のように思いながら給湯室へ向かう。私も大変だけれど、先輩はもっと大変だ。仕事ができる人にはどんどん仕事がやってくる。素敵なことのように思うけれどさすがに最近の先輩は、忙しさのレベルが他の人とは違う気がする。倒れたりしないといいけれど。


木の模様がプリントアウトされた安い、小さなお盆に湯呑みをふたつ乗せる。ふわふわと湯気が出ていて熱そう。応接室ってことはお客様が来てるんだろう。火傷させたらどうしよう。ま、いっか。

コン、コン、コン、と3回ノックをする。

どうぞ、と課長の声がして背筋が伸びる。

金色のノブをゆっくりと回して部屋に入った。

「失礼します。」

落ち着いた雰囲気の応接室。

茶色い皮の、校長室を思わせるソファにはヘーゼルの瞳を持つイケメンが座っていた。

「あ、」

「どうされました?」

イケメンが私の顔を見て目を見開いた。うわ、顔良いな。

「ちょっとした知り合いです。」

「ああ、そうでしたか。」

なぜイケメンがうちの課長と向かい合って座っているのか分からず、入口でフリーズしてしまう。

「お久しぶりです。」

ふわりと微笑まれ、フリーズしていた脳が動き出す。

「お、久しぶりです。」

起動したばかりのロボットのように、ぎこちない歩き方になっているような気がするがそれは許して欲しい。

お茶を出す時はお客様の右側から。

社員研修でのお茶出しの内容を必死に思い出す。合ってる?合ってるよね?

「失礼します。」

「ありがとう。」

かァ〜イケメンありがとう。





実はまだ、ぎっくり腰は完治していない。

ぎっくりしてから1週間程経つが、未だにズキッと来る。やっぱり、ずっと座ってるのが良くないんだろうな。もうすっかり生活の一部になってしまった腰の痛みと共に電車に乗り込む。

「お疲れ様。」

「あ、」

あの日と同じように、ヘーゼルの瞳が私を見上げていた。違うところがあるとするならば、心配そうな顔をしていないところだろうか。

「お疲れ様、です。」

「隣、どうぞ。」

ぽんぽんと空いている席に座るよう促され、吸い込まれるように着席した。

「あの会社だったんだ。」

一緒に仕事できるかもね、と嬉しそうに言う。

なんのお仕事をされてるんだろうか。うちはファッション雑誌の会社だから、もしかして。

「もしかして、お洋服に関係するお仕事をされてますか?」

「うん、俺デザイナー。」

あなたのその顔はデザイナーよりもモデルでは?という言葉を飲み込み、そうだったんですね、と返す。

「よろしくね、カトーサン。」

そう言って私の苗字を呼んだ。

「あの、名前、」

「俺、なんでも知ってンだよね。」

「あ、課長か。」

「バレたか。」

いたずらっ子のように笑う。顔が良い。

「そういえば、腰、どう?」

「あ〜、ぼちぼち、ですかね。」

「まだ痛いか。」

あ、その顔。嫌だな。

「でも痛くないです。」

「嘘つけ。」

「本当ですよ。」

あなたのその良い顔のおかげですとは言えない。

「じゃあ私はここで。」

手すりを掴んで立ち上がると、イケメンも私に合わせて立ち上がった。

「へ、」

「ん?降りねェの?」

ほらほら、と急かされる。

ぷしゅーっと後ろでドアが閉まる音がして、なぜか私は今、イケメンと駅のホームにいる。

「あの、」

「ソメヤ。」

「はい?」

「染める、に谷、で染谷。」

宙に綺麗な指が文字を書く。


「えっと、染谷さん、」

「うん。」

満足そう。可愛い。いや、そうじゃなくて。

「なんで降りたんですか?」

「腰、まだ痛いんでしょ。」

「いや、まあ、」

「だから、」

にっこりと笑い、良い顔がグッと近づく。

「送ってってあげる。」

「え、」

「すぐ近くにバイク屋してる奴がいてさ、そいつのバイク借りるから、」

「あの、」

「あ、ちょっと歩くけどいい?」

「えっと、」

「やっぱりこっちまで持ってきてもらうか……」

「染谷さん!」


携帯でどこかに連絡しようとする染谷さんを、慌てて止める。

「あの、どうしてここまで、して、くださるんです、か、」

落とした視線の先には私のくたびれたパンプスと、染谷さんの綺麗に磨かれた革靴が並んでいる。

「腰が心配、」

すっと染谷さんの革靴が私のパンプスに近づく。

「なのも本当なんだけど、」

ピタリと革靴が立ち止まる。

「あともう少し一緒にいられたらなっていう

下心があるのも本当。」

ドッと全身が沸騰したように熱い。

恐る恐る顔を上げる。

「駄目、かな。」

ヘーゼルの瞳が不安そうに揺れる。

そんなの、そんなの、

「駄目じゃない、です、」

いいに決まってるだろうが!!


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