第9話


 耳を掠めるは涼やかな風。

 じりじりとした陽気は速やかにそよいでいきます。

 思わず振り向いて下界を確認した私は、その眩暈がするような高さに慄きと興奮を覚えて、覚悟を新たにしました。


 激動の一日を終えた翌日。

 お天道様が頂点に到達した頃。

 私は茸山の中腹辺り、ちょうど五合目ほどの断崖絶壁に張り付いておりました。


 茸山とは旭海町あさみちょうの西に位置するとても特徴的な形の山です。


 その名の通り、遠くから見るとまるで傘を開ききったテングダケのように見えることから、別名を天狗岳テングタケとも呼ばれています。


 標高はおよそ七百。

 市街地からそう遠くない位置にあり、それだけ聞けば休日のレクリエーションに打ってつけのお山のようにも思えますが、その実態はかけ離れております。


 まず道のりが大変です。

 茸山の麓にはあの知蛇瀑ちだばくの勢力が及んでおり、何人も寄せ付けない常緑樹林が深々と茂っています。

 ひとたび立ち入れば方位磁石は狂い、電波は遥か彼方。舗装された道路など到底あるはずもなく。これでどうしてレクリエーションが楽しめましょうか。


 よしんば辿り着いても難関は続きます。

 そも、茸山は登山に適した山とは到底いえないのです。


 茸山の名を冠する通り、お山の形はまさしく茸。であるからして、根本のこそごつごつとした急こう配が続いてハードなトレッキングを楽しむには向いているでしょうが、そこから先の柄の部分はまさに断崖絶壁、ほとんどが垂直です。

 見上げようとすればついついひっくり返ってしまうでしょう。それがおよそ数百メートルほど続くのです。


 更に更に、なんとか垂直登攀を達成したとしても、続いて立ちはだかるのは登攀者を拒むように広がる茸の傘。


 山を登っていたはずなのに、気が付けば頭のすぐ上には天井があるのです。

 果たしてどうやって突破すればいいのでしょうか。尋常な手段では不可能なことは確かです。


 やれやれ、誰がこんな山に登るもんか。

 人々が呆れて匙を投げたこの山に、しかし私は挑戦しています。


 その理由は至極単純。

 そこに山があるからだ――と、普段であれば言いたいところなのですが、今回は明確かつ具体的、そして大変に切実な理由があってこの山にアタックを仕掛けているのです。


 それは遡ること前日。

 佐東さんに言伝をお届けした後での一幕です。











「配達人さんは恋人とかいないんですか?」


 お仕事が完了した後、私とまめ次郎さんは佐東さんにお夕飯のカレーライスを御馳走になりました。


 大変に美味でしたので、私がご機嫌に頬張っていると、佐東さんにそのようなことを訊かれました。


 お口いっぱいに詰め込んだカレーライスをお水とともに嚥下して、私は答えます。


「いえ、残念なことに生まれてこの方できたことはないのです」

「あら、そうなんですか」佐東さんは私の口元を布巾で拭って「こんなにかわいいのに」と言いました。


 頬杖を突いてこちらを見つめる佐東さんの瞳は変わらず気だるげです。

 けれど、その奥にどこか妖艶な魅力があるような気がして、私は思わずドキリとしてしまいました。


「私がもう少し若かったら立候補するんですけど、さすがに歳を取りすぎちゃいましたね」

「いえいえそんな。佐東さんほどのお方がパートナーであればさぞ鼻高々でしょう」

「お上手ですね」


 くすくすと、佐東さんは上品に笑いました。


 乙姫さんが幼さと妖艶さの境目にある蠱惑的な可愛さとするならば、佐東さんはどこか危うげな大人の引力を感じます。


 意中の相手を引きずり込んで、甘い蜜でぐずぐずに溶かしてしまいそうな、ファム・ファタール的な魅力ともいえましょう。


 しかし、私には何といってもねこさんがいるのです。


 彼、あるいは彼女がいる限り、私の心が秋模様になることなど有り得ません。常にねこさんへの想いが燦燦と輝き続け、さながらそれは常夏のハワイを思わせます。


 つまるところ、私はねこさんにずっきゅんらぶフォーエバーということです。


「恋人はいないのですが、片想いをしている方ならいらっしゃいますよ」

「片想い!いいですね、私、そういう話大好きです!」


 妖艶な雰囲気から一転、佐東さんは少女のように目を輝かせました。


「で、で。どんな人なんですか?」

「私がまず惹かれたのはあの綺麗な瞳ですね。藍色で理知的な、けれどどこか愛らしさのある釣り気味の双眸そうぼうがたまらないのです」

「うんうん、目が綺麗な人って惹かれちゃいますよね」

「輪郭はふさふさしていて、ピンと立った耳も最高です。はむはむしたくなっちゃいます」

「うん......?」

「白黒なので毛並みはわかりませんが、私の見立てでは真っ白なんじゃいかと思っています」

「毛並み......?」

「まあ、人じゃないんですけど」

「人じゃないんかい!」


 混乱して目を白黒させている姿が可愛かったのでついつい遊んでしまいました。

 答え合わせをすると佐東さんからはキレのあるツッコミをもらいました。


「あ、すみません。関西出身なものでして、ついつい反応しちゃって......」

「いえいえ、通りでキレがあるわけです。さすがの瞬発力ですね」


 佐東さんは恥ずかしそうにはにかみました。


「でも、そうなんですね。配達人さんはねこさん、が好きなんですねぇ」

「残念ながらまだお会いしたことはないので、日々ねこさんへの想いは募る一方です」

「......ねこ、ねこ、うーん、どこかで聞いたことがある気がするんですよね......」


 私事ですが、日課であるねこさんへの想いを綴った詩集もこの時にはすでに十冊は超えています。今もなお増え続ける一方で、私としても困ってしまうくらいです。

 嗚呼ねこさん ねこさんねこさん まじでらぶ。


 私がねこさんへの想いを胸中で吟じている合間も、佐東さんは「ねこ、釣り目でふさふさ、耳がピン......」と何やら譫言のように呟いています。


 もしや、佐東さんもねこさんに惚れてしまったのでは?


 そんなことを考えていると、佐東さんが私に少し待つように言って席を立ちました。

 随分と考え込んでいる様子でしたが、いかがしたのでしょうか。私は少し心配になってしまいました。


「友よ、さっきから言っているねことは、もしや猫のことではないか?」

「まめ次郎さん、まさかご存知なのですか!」


 佐東さんの作ったカレーが美味しすぎたが故か、一心不乱にカレーにがっついていたまめ次郎さんがようやく顔を上げました。


 カレーが入っていたお皿はまるで新品のようにピカピカです。その代わりお口の周りにカレーがたくさんついています。


 私がされたように、今度は私がまめ次郎さんのお口の周りを拭いてあげました。


「うむ、ありがとう。旧友にいてな。小さな頃はたまに遊んだものだが、いつの間にやら姿を消していてたのだ。あやつのことだからどこかでのらりくらりとしぶとく生きているだろうが」


 そう言って、まめ次郎さんはねこさんについて詳しく語ってくれました。


 曰く、かつてねこさんはお犬さんと志をともにした人の友であったとか。


 しかし、それも今は昔。

 気分屋で気紛れなねこさんはいつしか好き勝手をするようになり、気が付けば人を守護するどころか人に守られる始末。


 お犬さんは呆れ果てて袂を別って久しいようです。


 ねこさんのことを思い出しているのか、腕を組みながら唸るまめ次郎さんは難しい顔をしていました。


「しかし、友よ。ねこに懸想けそうするのは趣味がいいとは言えないぞ」

「はて、気分屋で気紛れだからですか?」

「それもあるが、奴らの本性は悪辣で狡猾なのだ。しかも悪意がないぶん質が悪い。いったい何度私が苦しめられたことか」

「なるほど、なかなかに悪女めいているのですね」


 悪辣で狡猾とはなかなかな評価ですが、眉間の皺をいっそうに深くするまめ次郎さんを見ると、それが真実なのだと知らされます。


 私は考えてみました。


 そこはクラブ『ねこさん』。

 数々のねこさんが在籍し、日夜訪れる人間をその可愛さともふもふで癒しているのです。


 その中でも私のお気に入りはとってもチャーミングでキュートな彼女です。

 私は卓について挨拶もほどほどに、すぐさまねこさんのもふもふに顔をうずめました。最高にいい匂いです。


 彼女はくすぐったそうに笑っています。

 そんな笑い声も愛おしくて、私は幸せで満たされていくのです。


 一緒にお酒なんかを舐めながら私たちは歓談を楽しみます。

 そんな中、ねこさんが愛くるしい瞳で私を見上げると、甘えるような声で囁きました。


「ねえ、お金貸してくれない?」


 当然、私は渋ります。

 配達人をしているとはいえ学生の身空です。いくらねこさんとはいえ、早々あげることなどできないのです。


「あげます!」


 無理でした。

 あげちゃいました。ねこさんの誘惑には敵いません。むしろねこさんにならあげたいです。その代わりわしゃわしゃさせてください。


 私が妄想の中でねこさんの悪辣で狡猾な誘惑に陥落していると、まめ次郎さんに何やら心配されてしまいました。


「すごい顔をしていたが、大丈夫か?」

「はい!わたくし、とっても元気になりました!」


 ねこさんの妄想で活力がチャージされた私は元気よく返事をしました。

 まめ次郎さんは怪訝な表情です。


 そんなことをしていると、佐東さんが奥の部屋から戻ってきました。胸の前で何やら紙束を抱えています。


 彼女はそれをテーブルの上に置くと、その中からいくつか抜き出して吟味し始めました。


「あ、あったあった」


 佐東さんは数枚のはがきを私に差し出しました。


「ねえ、そのねこさんってこんな感じじゃない?」


 見せてくれたのは絵葉書でした。

 裏返すと、そこには緑豊かな草むらを鮮やかな色彩で描いています。


 しかし、そんな精緻で美しいイラストも、この時の私は上手く認識することができませんでした。

 なにせ私は、その草原に佇む一匹の動物に釘付けになってたのですから。


「おお、こいつが件の旧友だ。随分と美化されているようだが」

「あら、まめ次郎さんのお知り合いなんですか?」

「まあな。そう深い仲ではないが」


 この時、私は世界のすべてから隔絶されていました。

 当然お二人の会話も耳に入っていません。


 しかし、そんなことは些末事であると思ってしまうほど、私は絵の具で描かれた彼女に夢中になっていたのです。


 緑の中にちょこんと座る、真っ白でもふもふな可愛いらしい矮躯。


 それは紛れもなくねこさんなのです。


 嗚呼、ねこさん。

 夢にまで見たねこさんの新たなお姿なのです。


 しかも、今まで私が目にしていた店長さんお手製のデフォルメではなく、写実的なリアル志向のねこさんなのです。


 これを描いた方は実際のねこさんを手本に描いたのだと確信させられます。

 もしかしたら自画像なのかもしれません。

 興奮で血が沸き立つような心地です。これがこれが落ち着いていられましょうか。いや、いられない。


 若草のなか、ねこさんはちんまりと佇んで、ぢっとこちらを見つめています。


 吸い込まれるような藍色の瞳です。

 まるで絵を通して私の心の奥底を見透かしているような、そんな空想さえ湧いてきます。


 不思議な絵です。心が凪いていきます。

 それと同時に、ぐつぐつと煮えたぎる情動も湧き起こります。


 なにせ乙姫さん以来のねこさん情報なのですから。

 しかも結局、乙姫さんには呑み比べに勝てず仕舞いで訊けず仕舞い。実質的なねこさんへ繋がる新たな情報なのです。


 静かな興奮は神経を通って身体の末端にまで行きわたり、私に無限の活力を与えます。


 居ても立っても居られません。

 我慢が出来なくなった私は、席を立って佐東さんへ詰め寄りました。


「このハガキは誰から送られてきたのですか!?」


 目を血走らせた私はさぞ狂気的だったことでしょう。

 佐東さんの肩がビクリと跳ねました。


 しかし、恋愛こいあいとはそういうものなのです。

 瞳を濁らせ、心を惑わせ、人を狂わせる。嗚呼、恐ろしきはねこさんの魅了の力。狂気的なまでに可愛いのです。


「こ、これは祖父から送られてきたものですね。一年に一回、毎年必ずくるんです。配達人さんの話を聞いてもしかしたらと思って......」

「そ、そのおじいさまはどちらにお住まいなんですか?」

「昔は近所に住んでたんですけど、今は引っ越していて具体的な住所までは......」

「そう、ですか」


 思わず肩を落とした私を見て、佐東さんは申し訳なさそうに顔を伏せます。


 私は気にしないように告げて席に戻りましたが、それでも落胆は隠せません。


 恋というものはそう易々と前に進むものではありません。

 その歩みはまさに牛歩。着実に一歩ずつ歩まねば、必ずどこかで手痛いしっぺ返しを喰らうのです。


 とは言ったものの、それでもやはり期待してしまうのが人情というもの。

 人はだれしも心の片隅で一発逆転のチャンスを待ち望んでいるものです。

 その誘惑といかに向き合い、そして呑み下せるか。人生に翻弄されないようにするためには肝要なことです。


 そう、逆に考えれば手がかりが見つかったのです。


 どこにいるかもわからないねこさんが、実は意外と近くに居て、あとはその居場所を探すだけ。闇雲に手がかりを探すよりよっぽど気が楽なのです。


「なあ、友よ」


 なんとか自分を納得させ、カレーをやけ食いする私に、まめ次郎さんは事も無げに告げます。


「書いていなかったらすまないのだが、はがきに住所が書いているんじゃないか?」


 それを聞いた瞬間、私はスプーンを置いて、疾風迅雷がごとく佐東さんに詰め寄りました。


 一発逆転のチャンスに翻弄されるのはよろしくないですが、逆転を成しているものは得てして翻弄され続けているものであるというのも事実です。


 すなわち、今こそ動く時なのです。


 苦笑した佐東さんが絵葉書を差し出します。

 私はそれを恭しく受け取ると、はがきの表を確認しました。


 そこには達筆でこう記されていました。


 茸仙人。


 このお方が佐東さんのお爺さまなのでしょうか。

 随分と特徴的なお名前ですが、残念ながらお住まいに関する情報はどこにも記されてはいません。


 万事休すか。

 そう諦めかけたとき、私ははがきの隅にある消印に目が行きました。

 そこにはこう書かれていたのです。


 『茸山山頂 ケナシケアリハゲタカ郵便』と。

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