第7話
私が生来からの軽業師であることはもはや語るまでもありません。
そんな私ですから、たとえ
「ええい、先ほどの獣といい貴様といい、ちょこまかと鬱陶しい!」
迫りくる雨龍黒さんの大きな手を紙一重でかわし、そのまま尻尾のほうに駆け抜けます。
雨龍黒さんは巨体ということもあり、その動きは比較的緩慢です。これなら避け続けることは可能でしょう。
ただ、私が危惧していたのは雨龍黒さんの権能である積乱雲による攻撃です。
思い出すのは酒精の鉄砲水。
いかな妙技によるものか、彼は水を操ることができるのです。
そんなもので遠隔攻撃をされようものならひとたまりもありません。
しかし、雨龍黒さんは手加減してくれているのか、はたまた避けられて自分に被害が及ぶことを恐れているのか、いくら空振ろうと権能を行使することはありませんでした。
「埒が明かん!貴様、本当に人間か!?」
「私は人間です!そして、孫悟空の生まれ変わりでもあるのです!」
ウキキー!とおどけてみせます。
ちょっとしたおふざけのつもりでしたが、効果は覿面でした。
「ふざけおってェ!ならば筋斗雲でも呼び出して生き延びて見せろッ!」
ふわりと襲う唐突な浮遊感。
お顔を赤黒く染めた雨龍黒さんは、長大な身体をうねらせて、錐もみ回転を始めたのです。
上へ下へ、右へ左へ。
天地撹拌とでも言いましょうか。子供が丸めた新聞紙のように、世界がぐちゃぐちゃになって見えます。
異変を感じた瞬間、背鰭のような突起物に摑まってすぐさま落ちることは避けられました。
しかし、それも時間の問題です。
今もなお飛び回る雨龍黒さんの挙動はまめ次郎さんの比ではありません。
まるで大気圏に突入した隕石にしがみついているような感覚です。
ぐるぐると視界が回り、遠心力で身体が振り回されます。
いかな孫悟空系乙女である私でも、荒ぶる龍とタンデムを心の底から楽しむ余裕はありませんでした。
時間の感覚もぐちゃぐちゃです。
果たして、どれくらい耐えていたのか。
そんな中、ふと、終わりのない回転地獄に、一筋の光明が差し込みました。
「おや」
突如、視界が開けました。
つい先ほどまでどこともわからない雲海の中で愉快なブレイクダンスをしていたはずですが、気が付けば眼下には見覚えのない、けれど、探し求めていた光景が広がっていたのです。
一面に広がる七色の大地。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫色を規則正しく整列させたそれは、まさしく虹と形容するに足ります。
それが地平線の遥か彼方まで続いているのです。世界中のアラビアンの絨毯を搔き集めたってこんな広大な敷地面積はカバーできないでしょう。
いつの間にやら大瀑布はどこにも見当たりません。
人の作り出せない浮世離れした淡くも美しいたった七色が、この大地を作り上げていたのです。
私はようやく理解しました。
これこそが現世とあの世を繋ぐ虹の橋。
そしてこここそが、現世における虹のたもとなのです。
「おぉーッ!素晴らしい、素晴らしいですよ雨龍黒さん!」
天上の世界にも大層感動いたしましたが、今回はあまりに現実離れしていて興奮も
そんな状況ですから、少しくらい気が抜けてしまうのは仕方がないと、今をもってしても、私は思う次第です。
「あら」
と。
気が付けば手の平から力が抜けて、遥かなる大空へフライアウェイ。本日二度目の重力との再会です。
愚にもつかない一音を遺して、私は呆気なく雨龍黒さんの身体から振り落とされてしまいました。
「あ~れ~」
支えを失った私は遥か足元に敷き詰められた虹へ向かって真っ逆さまです。
最後の足掻きとばかりにわちゃわちゃと両手を動かして雲を搔き集めてみますが、落下する私を支えられるほどの浮力を確保することができず、たちまちに霧散していきました。
眼下の虹はみるみるうちに迫ってきています。
お空は快晴で、着地できそうな雲は欠片も見当たりません。
もはや助かる手立てはありません。
それこそ筋斗雲を呼び出すことくらいでしょうか。それくらいなまでに絶望という形容が似合う状況です。
果たして、筋斗雲は来てくれるのでしょうか。
来てくれなかった場合、それは致し方ないことです。潔く諦めて自らの足でケンさんに会いに行きます。
もしも来てくれた場合は、それはそれで大変です
私が孫悟空の生まれ変わりであることの証左なのですから。
その場合、私は堂々と胸を張ってミドルネームに孫悟空を名乗ります。
空中で身動きが取れないなか、私は努めてお腹に力を入れると、万感の想いを込めて叫びました。
「筋斗雲ーーッ!!」
◇
ぼすん、と。
身体が柔らかなものに包まれました。
まるでプリンセスベッドに沈み込んだようです。
当然、それに伴い落下は止まっています。不思議なほどに衝撃はありませんでした。
私は助かったのです。
もしや、本当に筋斗雲が来てくれたのでは。
脳裏を駆け巡る驚愕と期待に、しかし、と。私は思い直しました。
雲にしては背中に感じる感触はきめ細かで、奥の方にしっかりとした固さがあります。まるでトトロのお腹のようです。なんとなくメイちゃんの気持ちがわかったような気がしました。
果たして、私を受け止めたのは筋斗雲なのか。
恐る恐る両の目を開けてみると、目の前には知らないお犬さんの顔がありました。
「やあ、私のお友達。大丈夫、けがはない?」
「はい!おかげさまでこの通り元気もりもりです!」
取り敢えず、私は元気よく返事をしました。
「よかった。私のお友達に何かあったら私は悲しい。私のお友達が元気でいてくれて私は嬉しいよ」
彼、あるいは彼女ははにかみながらうふふと笑いました。
「私はサモエドのハニー。私は私の一番のお友達からはぬいぐるみみたいで世界一可愛いって言われてるよ」
「ハニーさんですか!助けてくれてありがとうございます、おかげで何とか命を繋ぐことができました!」
「当然のことだよ。けど、私だけじゃないよ。みんなもいるよ」
「みんな?」
ハニーさんが呼びかけるように、甲高い声でワンッと一声鳴きました。
すると、今まで私が寝そべっていたトトロのように大きなもふもふから、一斉にお犬さんたちが顔を出したのです。
「やあ、大丈夫?僕はラフコリーのポリー!」「私はアフガンハウンドのタロウ。助けに来たよ」「バーニーズ・マウンテン・ドッグのマリンだよ。なんだか楽しそうだったね」「スタンダード・シュナウザーのキンタンだよ。痛くなかった?」「ヨークシャテリアのヤンキーだよ。キミに会えてうれしい!」「僕はシーズーのチーズ!ボクってかわいい?」
続々と名乗りを上げるお犬さんたちに、私は度肝を抜かれました。
大型犬から小型犬まで勢ぞろいです。共通するのはみながみなと異変にもふもふであるということ。
そしてようやく察しました。
私を危機から救ったおおきなもふもふは、もふもふのお犬さんたちの集合体だったのです。
「おーい、友よ、大丈夫か、ケガはないか?」
「おお、まめ次郎さん!来てくださったのですね!」
「ねえねえ」「遊ぼう遊ぼう」「ボクってかわいい?」わらわらもふもふと楽しそうにはしゃぐお犬さんたち一人ひとりに感謝を伝えていると、お犬さんたちの絨毯の隙間から、ぽっこりとまめ次郎さんがお顔を出しました。
「待たせてしまってすまないね。我らが同胞に助力を頼んでいたのだ。これから出発することろであったが、そちらから来てくれて助かった」
まめ次郎さんは呼吸を整えながら続けます。
「いや、友が落ちていくのを見たときは肝が冷えたよ。キミは本当に無茶が過ぎる」
「えへへ、それほどでもございません」
「素直なようでなによりだ」まめ次郎さんはたふたふを震わせて笑いました。
「それよりも、この景色!ここが虹のたもとなのですね」
「ああ、そうだ。綺麗なところだろう」
「ええ、とっても!」
「だが、観光はまた後だ。今は彼をどうにかするのが先決だろう」
その言葉を言い切ると同時、まるで示し合わせたかのように大きな影が私たちを覆いました。
仰ぎ見れば、そこには怒れる強大な黒龍が一匹。
私は無力な小娘ではありますが、もはや彼を恐れるに足りません。
なにせ今の私にはこんなにも頼りになるお友達がたくさんいるのですから。
「雨龍黒さん、先ほどぶりです。筋斗雲ならぬ犬布団によって私は無事に生還することができました」
「うりぐろ殿、先ほどは急に姿を消してすまなんだ。だが、こうして帰ってきたのだ。許しておくれ」
「うりぐろー」「許してー」「私のジャーキーあげるから」「ボクってかわいい?」お犬さんたちのこんなにも可愛らしい懇願を聞けば、常人であれば頬を緩ませてすぐにでも許してしまうでしょう。しかし、龍である雨龍黒さんは一味違います。
彼は高みから私たちを睥睨すると、忌々しそうに鼻を鳴らしました。
「ふん、虫けらがいくら集まろうと所詮は虫けらよ。龍であるこの我にかかれば誤差とも言えん」
「塵も積もれば山となる。頂が自らの足元まで迫っているのに気が付かないか?」
「貴様らが塵など片腹痛い。どれだけ己を誇示するつもりか。貴様らなど我の吐息ひとつで吹き飛ぶ芥にすら劣る存在よ」
雨龍黒さんのあまりな物言いにもまめ次郎さんはどこ吹く風。気にした様子もなく続けます。
「ふむ、うりぐろ殿は我ら犬という存在を知らぬと見る」
「ご名答だ。誉めてやろう。我は貴様らごときを知らん。そして知るつもりもない」
「おいたわしや。その無知と傲慢がゆえに貴殿は今宵、大敗を喫することになるのだ」
「なんだと?」
険を滲ませる雨龍黒さんをさらりと流して、まめ次郎さんは言いました。
「我ら犬は小さき命だ。龍とは比べ物にならない」
だが、と。
凄みを滲ませて彼は続けました。
「我らは友のためならば一騎当千の勇者と成り得る。凛凛とした勇気を胸に、龍にだって立ち向かうのだ」
気が付けば、あれだけはしゃいでいたお犬さんたちが沈黙しています。
彼らはみな一様にまめ次郎さんと雨龍黒さんの行く末を見守り、そしてその瞳の奥で静かに闘気を養っていたのです。
「こわいね」「つよそうだ」「大きい!」「長い」「けどお友達を傷つけるのはだめ」「ゆるさないよ」「まけないから」「ボクのかわいい友達をまもるよ」「かくごしてね」
「な、なんだ、貴様ら」
雨龍黒さんの呟きがぽつりと空気に溶けました。
異様な構図でした。
小さな犬を前にして、あの雨龍黒さんが気圧されているのです。
私がお犬さんのことを真に理解したのはこの時でした。
彼らは人類の友であり、そして友を守るために幾星霜を戦いに身を投じてきた戦士なのです。
これなら鬼さんを退治できるのも納得でしょう。
それほどまでの気迫です。
「ふ、ふん。獣ごときが群がったところで何になる!所詮は矮小な畜生にすぎん!」
「そうだ。私たちは確かに獣で畜生だが、それ以前に人のかけがえのない友だ。我らは友のためならなんだってする。それがたとえ龍退治であってもだ」
お犬さんたちはじりじりと雨龍黒さんに詰め寄ります。
そうなると必然的に私も近づく形になるのですが、不思議と危機は感じられません。ただ、多大なる安心感だけがありました。
獲物を見定めるように、距離を測るようにゆっくりと近づきます。
膠着は一瞬でした。
圧倒された雨龍黒さんが思わず後ずさったその瞬間、まめ次郎さんが吠えたのです。
「かかれ!」
号令と共にお犬さんたちが一斉に雨龍黒さんに襲い掛かりました。
鼻に、瞼に、指に、逆鱗に。
その長大な身体のいたるところに牙を突き立て、爪を走らせ、肉球パンチを叩きこみます。
ちなみに私は襲撃に加わることなく、ハニーさんの背の上で待機していました。大きな身体にふわふわの体毛。とても頼りがいのあるお犬さんです。
次第に雨龍黒さんの身体に傷が増えていきます。一つ一つは確かに小さいものの、お犬さんたちは容赦することなく、着実に追い込んでいきます。
「貴様ら、やめ、やめよ!」
雨龍黒さんは身体をうねってお犬さんたちを振り落とします。しかし、彼らはその度に再起して、新たな傷を作りに行くのです。
まさしく多勢に無勢。
まめ次郎さんたちが塵であるなど冗談が過ぎます。
彼らから沸き立つ闘志は万夫不当のそれに相違ありません。
それをもたらしているのが私を守るためというのは些か面映ゆい心持ちです。
私はたまらず彼らに声援を送りました。
すると、お犬さんたち猛攻が一層の激しさを増しました。
たまらず叫んだ雨龍黒さんに私は心の中でごめんなさい、と呟きました。
雨龍黒さんに成す術はありません。
例の積乱雲を創りだそうにも、雲が寄り集まると同時にお犬さんたちが掻き消すのでもはやどうしようもありません。
断末魔にも似た叫びが世界の果てに木霊します。
雨龍黒さんの
「わ、わかった、わかった!謝罪する!人間への危害も加えない!だから逆鱗はやめろ!」
「うりぐろ殿、それは本当か?」
「本当だ!我が名において誓う!」
まめ次郎さんは雨龍黒さんの濡れた瞳を覗きこんでその真偽を確かめると、ワンと一つ吠えました。
「よし、いいだろう。同胞よ、ハウス!」
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