第6話


 私を乗せたまめ次郎さんは颯爽と空を駆け抜けます。


 気分はさながら天翔けるスーパーカーです。

 私が幼少の頃にテレビで見た未来予想図では空飛ぶ車が私たちの頭の上を走り回っていましたが、現実は非情なり。


 いまだに大空へと進出できない車に変わって、私が大空運転を先行体験しております。


 茶ヶ龍さがりさんの背に乗った時もそうですが、空を飛ぶというのはなかなかに気分が良いものです。


 思わず口笛なんかを吹いてしまいますが、吹いたそばからメロディは遥か後方に流れてまったく聴き取ることができません。


「口笛なんぞ吹きおって、許さん!」


 どうやら後方車両にメロディが届いたようで、運転手さんがご立腹です。

 怒れる龍を美しい音楽で鎮める作戦は止めた方がやめておいた方がよさそうです。


 不意に、後方に迫る気配が大きくなりました。

 圧迫感にも近い、私たちを喰べようという明確な意志です。


 その瞬間、私はウィンカー代わりの手信号と共に、運転手としての義務を果たしました。


「右に避けてください!」

「任せろ!」


 進路を変更した瞬間、すぐ真横で巨大なトラばさみのような雨龍黒さんの大きなお口がガチンッと閉じられました。


 剝き出しになった歯並びの良い牙がぴかぴかと輝いています。


 こんな綺麗な牙でパクリといかれたら一瞬にして私は二人になってしまうでしょう。

 上半身と下半身がしゃかしゃかと走り回るのも楽しそうですが、今はそんなことを考えている場合ではないのです。頭を振って愉快な妄想を頭の片隅に追いやります。


 あわや万事休す。

 しかし、この程度の危機で臆していては配達のお仕事は勤まりません。


 乙女、三日会わざれば刮目して見よ。


 特に私は二十歳児を内包する成長期の乙女ですので、三日どころか一時間ほどで劇的な成長を遂げることでしょう。皆さま、私から目を離さないようにご注意を。いつまでも空鮫に恐怖していたあの頃のか弱い私ではないのです。


「しっかり掴まっていたまえよ!」


 頭の中でかつての仇敵、空鮫のムニエルを作っていると、まめ次郎さんが声を張り上げました。


 それを聞いた瞬間、私は合点承知之介とばかりにスーパーカーから一転、バイクに跨るように前傾姿勢になりました。


 途端、視界がぐるんと一回転しました。

 バク宙の要領で雨龍黒さんの懐に潜り込んだのです。「どうだ、私は身軽で有名なんだ」浮遊感にはしゃぐ私にそう言って、漆黒の鱗で覆われた体表を、首から下半身にかけて滑るように駆け抜けました。


「ぬぅ、ちょこまかと鬱陶しい奴らだッ!」


 雨龍黒さんにしてみればたまったものではないでしょう。さきほどまで追いかけていた小さな獲物が自分の身体にべったりと張り付いて飛び回っているのですから。


 見失った私たちを探して右往左往するあまり、雨龍黒さんを遠くから見ればゴマ団子のように丸くなっているに違いありません。


 付かず離れずを繰り返します。

 しかし、ここで手詰まりです。この先、私たちにはどうすることもできません。


 そも、私たちには雨龍黒さんを成敗してやろうなどというつもりは毛頭ないのです。


 逃げ続けていれば雨龍黒さんも頭が冷えて落ち着きを取り戻してくれるやも。そんな淡い期待もとうに打ち砕かれています。


 逃げ続けても道はなく、対話などもってのほか。八方塞です。


 忙しなく駆け抜けるまめ次郎さんの上で、私はウンウン唸ることしかできませんでした。


「友よ、私に考えがある」


 ハッハッ、と。

 鼻ぺちゃ族特有のパンティングをしながら、まめ次郎さんが呻くように言いました。


「妙案だ。時間がないので説明は省くが、成功すれば必ずやこの窮地を切り抜けられるだろう。ただ、そのためには君にひとりで時間稼ぎをしてもらう必要が......」

「合点承知之介!」


 まめ次郎さんの力ない言葉尻を捕まえるように、私が非常に頼り甲斐のある力こぶを掲げて今度こそ承知すると、まめ次郎はひどく驚きました。


「いいのか?少しの間とはいえ友であるキミを龍の前に一人置き去りにするというのに......」

「全く問題ございません!この程度の難事、私はこれまでも幾度となく乗り越えてきたのですから!」


 忸怩たる気持ちを滲ませるその声は酷く痛ましげです。お犬さんとしての矜恃が友である私を危機に晒すことを許さないのでしょう。


 しかし、私も考え無しに引き受けたのではございません。むしろ、まめ次郎さんの提案は渡りに船でした。


 このままでは千日手を抜け出す術はありません。

 しかしこの大空のさなか、私が為せることなどそう多くはないのです。


 今までまめ次郎さんのドライバー気分ではありましたが、自動運転機能搭載なので、私はいなくてもいいのです。思わぬところで未来予想図が反映されました。


 実の所、今の私に出来ることなど何もなく。

 であれば、この空を自由に駆け抜けることのできるまめ次郎さんの一計に身を投じることこそ最善であると私は判断しました。


 即決されたはいいものの、まめ次郎さんも不安なのでしょう。


 本当に置き去りにして良いものか。友の身に何かあったらどうしよう。可愛いしっぽが所在なさげに揺れています。


 まめ次郎さんが掲げる矜持はとても尊いものです。お犬さんに守られるなんてまさに恐悦至極。光栄の極みでありますが、しかし、まめ次郎さんは失念しています。


 私はシンデレラ系乙女ではなく、勇猛果敢に突き進む、桃太郎系乙女なのです。


「まめ次郎さん、まめ次郎さん。友を想い、友を守り、友を救う。大変素晴らしい気高いお考えです。しかし、まめ次郎さんが私を友だと考えているように、私にとってもまめ次郎さんはとっても大切なお友達なのです」


それに、と。

 私は肩をすくめました。


「時には無理難題をふっかけ合って、を最大限楽しむ関係も、なかなか一興ではありませんか?」


 ウィンクを添えた私の言葉を、まめ次郎さんがどのように受け取ったのかは定かではありません。

 大きなおめめをまん丸とさせた次郎さんは、私の言葉をゆっくりと咀嚼して、一度だけ大きくワンっと吠えました。


「ふふ、それは頼もしい。キミにならなんでも任せられそうだ」


 まめ次郎さんは不敵な笑みを浮かべました。

 可愛い尻尾は楽しそうにパタパタと揺れています。


「では、あとは頼んだぞ、友よ」

「まめ次郎さんこそ、あとはよろしく頼みました!」


 言外に私たちはそれぞれの行動を察しました。これから雨龍黒さんを静めるための作戦が開始されるのです。


 私は私にできることをやるのみ。

 とはいえ、たった一人で何ができるのか。

 それは愚問というものです。

 たった一人だからこそ出来ること。それがこの世には五万とあるのです。


 何も持たずに裸一貫。

 ノーマルタイプの初期技。

 気分は一番道路の茂みの中。

 人はそれを、体当たり精神といいます。


「そぉい!」


 ライドの姿勢から一転、私はまめ次郎さんを跳び箱の要領で飛び越えて、大空へ躍り出ました。


 目指すは雨龍黒さんの巨大な体躯。限界まで近づいているので十分に届く算段です。


 無情にも至らずに海に叩きつけられでもしたら一巻の終わりです。虹のたもとへ行けるかどうかも妖しいでしょう。


 しかし、オオアリクイのように懸命に伸ばした両手は、しっかりと雨龍黒さんの鱗を掴んだのです。


「幸運を祈る!」

「またお会いしましょう!」


 それを見届けた後、まめ次郎さんはワンっと一声吠えて、近くの雲海に紛れて姿を消しました。


「やつら、まさか逃げるつもりかッ」

「そんなまさか、雨龍黒さん、私はここにいます!」


 つるつると滑る鱗をよじ登って、何とか雨龍黒さんの背中に仁王立ちします。


 雨龍黒さんはどこから声が聞こえたのかと不思議そうに辺りを見回していました。

 私がもう一度声を張り上げるとようやく気が付いたのか、おもむろに身体を捻ってこちらに振り返りました、


「なんだ、貴様。いつの間にそんなところに」

「雨龍黒さん、お話ししましょう!雨龍黒さんが乙姫さんに呑まれた後も様々なことがあったのです!」

「ふんッ、時間稼ぎのつもりか?下らん」

「ご存知ですか!茶ヵ龍さがりさんが何やら珍しいお茶器を買ったそうですよ!とてもご機嫌でした!」

「知っている。わざわざ職場にまで自慢しにきおったわ」

「それならこれはどうですか?萎び鯉さんはあれから毎日のように乙姫さんに呑み比べを挑んでいるのです!」

「今更あんな落伍者に興味などない」

「......最近になってお二人がお付き合いを始めました!」

「なにッ!?」

「......すみません、冗談です!」


 雨龍黒さんの切れ長い瞳孔が一層鋭い光を放ちました。


「貴様ッこの我をおちょくるのもいい加減にしろッ!」


 どうやら雨龍黒さんは私の小粋なジョークがお気に召さなかったご様子です。


 確かに萎び鯉さんのラブロードは成就まで遥かなる道筋が約束されているのは我々片想い同盟――萎び鯉さんと私が結んでいる同盟です。週に一回、呑み交わしながらお互いを慰め合うのです――の中でも周知ですが、恋愛こいあいとは壁がある程燃え上がり、そして壁があるほどがもりもりと湧いてくるものです。


 今でこそ連戦連敗の萎び鯉さんですが、必ずや乙姫さんの御心を射止めると私は信じているのです。


「貴様、あの獣はどうした」


 じろりと周囲をめつける雨龍黒さんに、私はあえておとぼけてみました。


「はて、獣とはどなたのことですか?」

「とぼける気か?貴様が珍妙な姿で跨っていたあの畜生のことだ」

「うむむ。跨る、畜生?なにを仰っているのやら。デパートの屋上にあるアニマルカーでもあるまいし、夢でも見たのでは?」

「......本当にわからないのか?どうした、頭でもぶつけたのか」

「雨龍黒さんこそどうしたのですか。なにかおかしなことでもありました?」


 私の煙に巻くような物言いに、雨龍黒さんは考え込んでしまいました。「とうとう頭が......」「やはり呑みすぎで......」「もはや手遅れ......」「我の幻覚......」そんな呟きが漏れ出ています。


 段々と私を見る目が優しくなっていきます。なんだかむず痒い心地です。

 沈黙に耐えられなくなった私は、いたたまれなくなって白状しました。


「いえ、あの。申し訳ありません。冗談なのです」

「いや、よい。皆まで言うな」


 我はわかっているぞ。

 そう言いたげに雨龍黒さんは鷹揚に頷きました。


「貴様、今は勤務中であったか」

「え、まあ、はい。絶賛お仕事中ですけれど」そう言うと、雨龍黒さんはなんだかしみじみとした顔をしました。


「そうか。貴様も大変だったのだな。ここは常昼じょうちゅうゆえわかりずらいが、とうの昔に日は落ちている。にも関わらず、貴様は残業をしているのだな。疲れただろう。人間のクセに貴様も苦労しているのだな」


 うんうん、と。

 なんだか雨龍黒さんは何かをとてもよく理解した様子です。

 対して私は何も理解できず、何がなんやらわからない状態です。


「いや、かくいう我も残業が終わって出てきたところなのだ。あの忌まわしき老獪どもといったら、面倒事はすべてこの我に押し付けてくる。そのくせして自分の仕事は碌に進まないし、尻拭いをする羽目になるのは結局いつも我ばかり。諫言しようにも口答えだと決めつけてきてまるで話にならない。本当に嫌になる。そも、本来ならば今宵は武陵源の友へ尋ねるはずだったのだ。それを急な仕事が入ったからと押し付けられ、苦労して終わらせても一言の感謝すらなく、施錠をするからさっさと出て行けと言われて叩き出される始末。あまりに無礼だ。愚かしいにもほどがある。龍の風上にも置けぬ。人間、貴様もそう思うだろう!?」


 火車のように捲し立てる雨龍黒さんを、私は座り込んでのんびりと眺めていました。


 雨龍黒さんは相も変わらずお仕事で苦労をされているようです。おいたわしや。そんなことをぼんやりと思っていたものですから、私は急に水を向けられて反応が遅れてしまいました。


「あ、はい。雨龍黒さんもなかなか大変な一日だったのですね」

「そうなのだ、そうなのだ。我の日々は聞くも涙、語るも涙の連続なのだ」深い悲哀を湛えた雨龍黒さんは続けます。「よし、人間。今から吞みに行こう。我は寛大なのだ。貴様の苦労も少しは聞いてやろう。酒とともに苦労も呑み下すのだ」

「いえ、大変恐縮なのですが、私にはまだ配達のお仕事が残っているので......」

「なにを言う。不当に扱き使ってくる奴らの言い分など無視しておけばいいのだ。今こそ反逆の時。狼煙を上げる時なのだ」

「そうは言われましても......」


 気が付けば、なんだか見たことのある展開にもつれ込んでしまいました。


 再三言う通り、雨龍黒さんと呑みに行くのは大歓迎なのですが、いかんせん現在はお仕事中。


 の殻を破って素直に誘っていただけるのは大変嬉しいのですが、残念ながら何度誘われても私の意志が変わることはございません。


 そうして、そんな問答がいくつか繰り返されました。


「いいから来い」「大変申し訳ありませんが」「我の酒が呑めないのか」「いえいえそんな」「仕事など放っておけ」「私には使命がありますので」


 その度に、雨龍黒さんの瞳孔が鋭さを増していきます。

 今までのことを考えると、恐らく、雨龍黒さんは大層辛抱してくださったのでしょう。


 しかし、それももはやここまでです。

 逆鱗を羽毛でくすぐり続けるような問答の末、ついには雨龍黒さんの堪忍袋の緒が限界を迎えました。


「ええい、ごちゃごちゃのうるさいぞ人間!こうなれば貴様を力ずくで連れていくまでだッ!」


 耐えかねたとばかりに雨龍黒さんが雄叫びを上げます。「今宵は帰れると思うな!」お腹の奥底にびりびりと響く重低音が、熱烈な告白と共に耳朶を駆け巡ります。


 これまた見覚えのある展開ですなぁ。

 怒り狂う雨龍黒さんがこちらへ腕を伸ばしてくるのを見ながら、私の孤軍奮闘は第二ラウンドへと進みました。

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